第4話 ノックはしないで
西の回廊脇の小部屋は、長く物置として使われていたらしかった。
夕刻へ傾きはじめた光が、格子窓の埃を斜めに照らしている。中へ一歩入ると、乾いた木の匂いと、しまい込まれていた紙箱の古い匂いがした。壁際には欠けた行灯、折れた竹籠、去年の祭で使ったらしい幟の棒。人が仕事をするための部屋というより、役目を終えたものたちの避難先である。
「思っていたより、ちゃんと部屋ですね」
恵美子が言うと、通子がすぐに吹き出した。
「何それ。もっとひどいの想像してたの?」
「納戸の隅のような場所かと」
「まあ半分は当たり」
からりと笑ってから、通子は開け放たれた扉を両手で押し広げた。春の風が通ると、積もっていた細かな埃がふわりと浮く。
「でも風は抜けるし、通りからも見えすぎない。書くには悪くないよ。門前のど真ん中で筆持てって言われたら、そっちのほうが気の毒」
その言い方が妙に現実的で、恵美子は少しだけ肩の力を抜いた。
隆冶は入口の敷居の高さを確かめ、室内を一通り見回してから言った。
「祭の最中だけなら、ここで十分でしょう。机を一つ、客が腰かける小台を二つ。売り場は外へ出し、中は作業に使う。人の流れを妨げずに済みます」
「紙箱はどうする?」
「寺務へ返せるものは返し、残りは奥へ寄せます」
無駄のない返答だった。恵美子はその横顔を見て、ふと今朝のことを思い出す。婚約を切られた直後の自分は、立っているだけで精一杯だった。なのにこの男は、その場しのぎの慰めを一つも言わず、気づけば机と導線の話をしている。
冷たい人ではない。ただ、沈む人間を引っ張り上げる時に、まず足場を置く人なのだ。
「じゃあ、運ぶよ」
通子が袖をまくった、その時だった。
「おう、隆冶。西の回廊ってここで合ってるか」
廊下の向こうから低い声がした。振り向くと、肩の広い若い男が長机を担いで立っていた。髪は無造作に後ろで束ねられ、腕には木屑が少しついている。祭の舞台を組む者らしい丈夫な脚と、重いものを持っているのに妙に静かな目をしていた。
「虎哲。早かったですね」
「親父に頼んだら、寺の仕事なら先に回せってさ」
男はそう言って室内をのぞき込み、恵美子を見るなり軽く会釈した。
「寺の仮売り場ってのは、あんたか」
「はい。恵美子と申します」
「虎哲。月暁寺の修繕と、祭の設営を請けてる大工頭のせがれ」
名乗りながら、虎哲は担いでいた机をすっと下ろした。置き方が静かで、床板がほとんど鳴らない。見た目よりずっと手先の加減が細やかなのだと分かる。
「書き物するって聞いたから、がたつかないやつ持ってきた。端が欠けてると紙が引っかかるだろ」
言われてみれば、机の縁は丁寧に削られ、手の当たる場所が滑らかだった。恵美子は思わず指先で撫でる。
「ありがとうございます。とても助かります」
「礼は、使ってからでいい。座って変なら脚を詰める」
通子がにやにやする。
「虎哲って、そういうのだけ妙に優しいんだよね」
「道具に手を抜くと、あとで全員が困る」
「ほら、そういう真顔」
二人のやり取りは慣れているのだろう。軽口なのに棘がない。恵美子が眺めていると、虎哲は室内をもう一度見回した。
「客は何人ずつ入れる?」
「一度に入れるのは一人か二人でしょう」
隆冶が答える。
「外で注文を聞き、中で書く。混んだ時は札を渡して順番待ちに」
「なら、入口に板を渡して半歩だけ区切るか。中までずかずか入られると書きにくい」
「それはありがたいです」
恵美子が言うと、虎哲は短く頷いた。
「じゃあ後で細い仕切りも持ってくる。視線が散ると、字はぶれるらしいからな」
らしい、という言い方に、通子がすぐ食いつく。
「何その聞きかじり」
「うちの親父が、見積書書く時にうるさいと怒る」
「字じゃなくて計算でしょ、それ」
「似たようなもんだ」
似ていないと思ったが、言い返す前に通子が自分で笑い出したので、恵美子もつられて少し口元を緩めた。
それから四人で部屋を片づけ始めた。
紙箱を積み直し、幟の棒を壁際へ寄せ、壊れた行灯を外へ出す。通子は手が早く、紐で箱をまとめるのがうまい。虎哲は重いものを持つだけでなく、どこへ置けば邪魔にならないかを考えながら動いている。隆冶は寺務へ返す品を書きつけ、誰が運ぶかまでその場で決めていく。
恵美子も袖をたくし上げて手伝ったが、途中で虎哲に止められた。
「それは持たなくていい」
「でも、私も」
「墨壺が入ってる。今落とすと面倒だ」
有無を言わせぬ声ではないのに、動かしかけた手が止まる。
代わりに通子が軽い木箱を押しつけてきた。
「恵美子さんはこっち。紙と布、分けて。あと売り場の見える位置を考えて」
「見える位置」
「そ。通りから札が見えなきゃ、誰も立ち止まらない」
役目を渡されると、不思議と立っている場所が定まる。恵美子は箱の中身を確認しながら、入口の角度と廊下からの見え方を頭の中で組み立てた。客は西の石段から上がってくる。春の祭では若い娘と連れの友人が多い。なら、まず目につくのは右手の壁際。売り場札はそこだ。注文を書き留める小卓は入口の陰に半歩入れれば、通行の妨げにならない。
「机はこちら向きがいいと思います」
気づけば、そう口にしていた。
三人が同時にこちらを見る。
「廊下へ背を向けると、客の気配に引かれて筆が止まります。ですが完全に閉じると、待っている方が不安になります。斜めに置けば、手元は守れて、声も拾えます」
言い終えてから、出すぎたかもしれないと思った。だが虎哲はすぐ机の脚を持ち上げ、言われた角度へ動かした。
「このくらいか」
「もう少しだけ、窓へ寄せてください」
「こう?」
「はい。それで」
通子が感心したように口笛を吹く。
「ほらね。顔で売らなくても、頭で客呼べるじゃん」
「まだ呼べてはおりません」
「そのうち呼べるって話」
隆冶は何も茶化さなかった。ただ新しい配置を眺め、一つ頷く。
「よいと思います。中の者が落ち着いて書ける形です」
中の者。
それが今の自分を指す言葉なのだと気づき、恵美子は机の角へそっと手を置いた。朝までの自分なら、誰かの後ろに立つ者、としか思えなかった。けれど今は、ここで書く者として話をされている。
片づけが一段落した頃には、部屋の空気が見違えるほど変わっていた。
古びた箱は奥へ寄り、机の上には白布が一枚敷かれ、窓辺には筆洗いの小鉢が置かれる。入口脇には通子が持ってきた飾り紐が色ごとに吊られ、まだ何も書かれていないのに、そこだけ小さな店の気配があった。
「で、問題はここ」
通子が扉を指さした。
部屋には扉が一枚ある。木目の濃い、ごく普通の引き戸だ。だが普通だからこそ、外から気軽に開けられてしまう。
「書いてる最中に知らない人が急に顔出したら、いやでしょ」
「……それは、かなり」
「だよねえ」
通子は面白がる目をした。
「じゃ、札ぶら下げとく?」
「札」
「入るな、って分かるやつ」
その言葉に、恵美子の頭へいくつか文面が浮かんだ。
作業中。
入室ご遠慮願います。
筆先注意。
どれも間違いではない。だが、どれも少し堅苦しい。客へ向けるには冷たく見えるし、寺の一室に下げるには仰々しい。
考え込んでいると、虎哲が壁際の端材を拾い上げた。
「細い板ならある。墨で書けばすぐ下げられる」
「何て書く?」
通子に聞かれ、恵美子はしばらく扉を見つめた。人に見られるのが怖い。話しかけられるのも、途中で流れを断たれるのも怖い。今日一日でやっと立ち上がった気持ちが、扉一枚でまた揺らぐ気がした。
だから口をついて出たのは、ひどく正直な言葉だった。
「……ノックはしないで、で」
一拍おいて、通子が腹を抱えて笑い出した。
「ははっ、何それ! いきなり強い!」
虎哲もさすがに目を瞬いた。
「ずいぶんはっきり言うな」
「す、すみません。やはりおかしいでしょうか」
言った途端に恥ずかしくなった。もう少し柔らかな言い方があったはずだ。けれど通子は笑いながら何度も首を振る。
「おかしい。けど、すごく分かる。今の恵美子さん、そのくらい言わないと部屋ごと飲まれそうだもん」
「飲まれそうって」
「人にも、祭にも、前の店にも」
図星だった。
恵美子は視線を落とした。やっと手に入れた小部屋なのに、少しでも気を緩めれば、また誰かの都合で開けられてしまう気がする。中へ入ってくる足音に、これまで何度も自分の考えを中断されてきた。
隆冶がそこで静かに口を開いた。
「よいと思います」
三人がそちらを見る。
「この部屋は、恵美子殿が書くための場です。集中を乱されるなら、先に決めておくほうがいい。文面も率直で分かりやすい」
通子が肩を揺らしながら言う。
「隆冶さん、真面目に賛成しないでよ。余計おかしいでしょ」
「おかしいかどうかではなく、役に立つかどうかです」
「出た」
だが、その真面目さのおかげで、恵美子の恥ずかしさは少し薄れた。
虎哲は端材の表面を鉋で軽くならし、机へ置いた。
「じゃあ書け。板なら後で削り直せる」
筆と墨を渡される。恵美子は端材の前に座った。木肌は紙ほど素直ではなく、少しだけ引っかかる。それでも、迷っているともっと気恥ずかしくなりそうで、一気に筆を運んだ。
ノックはしないで
書き終えると、通子がまた噴き出す。
「だめ、声に出すともっと面白い」
「笑わないでください」
「いや無理。こんな真顔で言われたら笑うって」
しかし笑っているわりに、通子はその板へ紅白の細い紐を手際よく通し、扉の取っ手へ結びつけた。風に揺れない長さへ整えるところまで、あっという間だ。
「はい完成。誰が見ても分かる」
扉にぶら下がった板を見て、恵美子は何とも言えない気持ちになった。おかしい。かなりおかしい。けれど、自分の境目が初めて形になったようでもある。
「ついでに、外の売り場札も書いとく?」
通子に促され、恵美子は白札へ向かった。こちらは客へ向けるものだ。
願いにあわせて 一枚ずつ 縁句をしたためます
そう記し、下へ小さく、恋の札 仲直りの札 送り出す札 と添える。硬すぎず、軽すぎず。読む人が自分の願いを置いていけるくらいの余白を残す。
書き終えた札を見た虎哲が言った。
「さっきの板と同じ手で書いたとは思えんな」
「同じ手です」
「片方は商い、片方は本音だな」
通子がうんうんと頷いた。
「分かる。扉のほう、すごい素だもん」
恵美子は思わず耳まで熱くなった。
そんなやり取りをしているうちに、外はだいぶ薄暗くなっていた。祭の灯が回廊の下へ一つ二つともり、通りのざわめきも昼の鋭さを失っていく。今日の営業はもう難しいだろう。けれど売り場の形が見えたことで、明日への輪郭がようやく手に入った気がした。
通子は飾り紐をまとめた籠を抱え、戸口で振り返る。
「じゃ、あたしは店の片づけしてくる。明日の朝、白紐と紅紐をもっと持ってくるね」
「私は仕切り板を作ってから戻る」
虎哲もそう言って、机の具合を最後に一度確かめた。
「座ってみてくれ」
言われるまま腰を下ろす。背筋を伸ばし、紙へ向かう高さがちょうどいい。手首に無理がない。
「どうだ」
「書きやすいです」
「ならよし」
短い返事とともに、彼は道具を持って出ていった。
残ったのは、恵美子と隆冶だけだった。
急に部屋が静かになる。外ではまだ参拝客の足音が行き交っているのに、この小部屋の中だけ別の時間が流れ始めたようだった。
「疲れましたか」
隆冶が尋ねる。
「少しだけ」
「それなら十分です。今日のところは形になった」
そう言ってから、彼は懐から折り畳んだ紙を取り出した。
「仮売り場の条件を書き出しました。値段は明朝までに仮決めできればよい。寺への納め分、材料費、あなたの手間賃、その三つを分けて考えましょう」
手間賃。
またその言葉だ。恵美子は紙を受け取りながら、どうにも胸の奥が静かに揺れるのを感じた。役に立ったから褒める、ではない。働いたなら対価を払う。その当たり前を、隆冶は何度でも外さない。
「そんな顔をなさらないでください」
「どんな顔でしょう」
「驚いた顔です」
言い当てられ、恵美子は少し笑った。
「驚いております。手間賃を、当然のように言っていただけることに」
「当然です」
返事はやはり早かった。
「あなたの言葉が人を集めるなら、それは売り物になります。売り物になるものへ対価が払われるのは、当たり前です」
当たり前。
朝の自分には遠い言葉だった。だが今、この部屋には机があり、扉には板があり、明日の商いの条件を書いた紙まである。当たり前は、突然空から降ってくるものではなく、こうして手順で形にされるのだと分かる。
「隆冶さま」
「はい」
「……ありがとうございました」
言うと、彼は一拍だけ黙った。礼を受けることに慣れていないのかもしれない。眼鏡の奥で目がわずかに和らぐ。
「まだ明日があります。礼は、うまく回り始めてからでも」
そう返すところまで、いかにもこの人らしかった。
そのあと、隆冶は戸口まで下がった。
「では、私は寺務へ戻ります。何かあれば声を」
恵美子は頷いた。けれど彼はすぐには行かず、扉の板を見上げる。
ノックはしないで。
通子が面白がって結んだその板が、行灯の明かりに照らされて揺れていた。
「分かりました」
隆冶はごく真面目にそう言った。
恵美子が目を丸くすると、彼は少しだけ口元をゆるめる。
「あなたが書いたのですから、守ります」
それだけ言って去ろうとした彼を、思わず呼び止めた。
「本当に、ノックなさらないのですか」
「しないでほしいのでしょう」
「それは……はい」
「なら、いたしません」
あまりにも迷いがなくて、恵美子は返す言葉を失った。
からかわれると思っていた。せめて少しは笑われると。だが彼は、冗談の形になった本音を、そのまま受け取った。
隆冶が出ていったあと、恵美子はしばらく一人で部屋へ残った。
机の上へ白札を並べる。筆先を洗う。紐の色を見て、どんな願いにはどの結びが合うかを考える。仕事のために手を動かしていると、不思議なほど頭が静かになった。
窓の外では灯が増え、回廊の床へ金色の揺れが映る。祭はまだ終わらない。自分を捨てた店も、人気札の行列も、町の噂も、全部まだ外にある。けれどこの小部屋の内側だけは、今夜から自分で整えられる。
どれほどの時間が経ったのか分からない。
紙へ値付けの案を書き出していた時、不意に戸の向こうで足音が止まった。
誰かが来た、と身が固くなる。
だが、戸は開かなかった。板も鳴らない。代わりに、外から低く落ち着いた声がした。
「恵美子殿」
隆冶の声だった。
「寺から追加の行灯が出ました。入口へ置いてもよろしいですか」
扉一枚隔てたところで、きちんと名を呼び、用件を告げ、返事を待っている。
恵美子は思わず笑ってしまった。こんなにも律儀に守る人がいるとは思わなかったのだ。
「はい。お願いいたします」
そう答えると、外で短く「承知しました」と返る。やがて行灯の置かれる音がして、また足音が遠ざかっていった。
戸は最後まで開かなかった。
恵美子は手を止め、扉の板を見た。
ノックはしないで。
勢いで書いた、少し可笑しくて、でもどうしようもなく本音の文句。
それを笑い飛ばさず、守る人がいる。
その事実が、胸の内側へ小さな灯をともす。朝に切り捨てられた痛みが消えたわけではない。けれど、だからこそ分かる。人は扉を乱暴に開けることもできるし、外から名を呼んで待つこともできるのだと。
恵美子はもう一度、紙へ向き直った。
明日の値段。
願いの種類。
受け渡しの順。
考えることは山ほどある。だが不思議と、怖さだけではなかった。
扉の向こうにある喧騒と、扉の内側にある静けさ。そのどちらも自分の仕事へ変えていくのだと思うと、胸のどこかがわずかに熱を持つ。
机の端へ、売り場札を立てかける。
願いにあわせて 一枚ずつ 縁句をしたためます
その文字を見てから、恵美子は新しい紙へ小さく書きつけた。
まずは、明日の朝を迎えること。
それは願いというより、決意のような一行だった。




