第3話 その一枚、誰の言葉ですか
石段を下りるあいだ、恵美子は二度、足を止めかけた。
参道のにぎわいは先ほどよりさらに膨らみ、寺へ向かう者と寺から下りる者とが、一本の坂の上でこすれ合っていた。徳博の店から流れた恋札を下げた娘たちが、頬を寄せ合って文句を読み上げる。その脇では、似たような札を並べた露店がもう五つ六つと増えていた。
「見て、これも同じ言葉」
「こっちは金泥が多いわ」
「でもあっちの店のほうが効きそうじゃない?」
効く、という言い方に、恵美子は胸の奥を爪でひっかかれたような気分になった。
言葉は薬ではない。けれど人は、効くと聞けば買う。三年、そういう売り場を支えてきたのは自分でもある。分かっているからこそ、足が重い。
「無理なら、私が行きます」
前を歩いていた隆冶が、振り向かずに言った。
「案内だけいただければ」
「いえ」
恵美子は首を振った。
「場所は私でなければ分かりにくいのです。奥の廊下は、途中で板が一枚だけきしむので」
「では、あなたが先で」
先に行けと命じるのでなく、道を譲る言い方だった。恵美子は小さく息を吸い、紙花の屋台の角を折れた。
寺の賑わいを背に回ると、急に空気が変わる。表では団子を焼く匂いがしていたのに、こちらは湿った土と桶の水の匂いしかしない。商家の裏手には荷車の轍が幾筋も残り、半ば開いた木戸の向こうから、忙しない足音と帳場の声が漏れてくる。
恵美子は勝手口の前で一度だけ目を閉じた。それから戸を押す。
中では、下働きの少年が包み紙を抱えて走っていた。恵美子と隆冶の姿を見ると、目を丸くする。
「え、あの」
「帳場の奥へ行きます」
恵美子がそう言うと、少年は困ったように視線を泳がせたが、止める勇気はなかったらしい。祭の日の店は、止まっているほうが不自然なのだ。
帳場の前は朝よりさらに混んでいた。札を買う客、追加の包みを頼む客、見本だけ見て騒ぐ若者たち。徳博は表の客へ笑顔を向けており、こちらにはまだ気づいていない。
恵美子は人波を避け、細い廊下へ入った。左手の三枚目の板がきしむ。その先の引き戸を開けると、自分の作業机が見えた。
見えた、が――朝のままではなかった。
文机の上に重ねておいた紙束がずれている。筆洗いの水は半分こぼれ、乾いた墨の皿が文鎮の位置から外れていた。誰かが急いで探った跡だ。
恵美子の喉がひやりとした。
「まさか」
引き出しを開ける。紙見本。封じ紐。客の注文控え。次の引き出し。古い下書き。季節の挨拶文。三つ目。空。
「……っ」
思わず指先に力が入った。
そこへ、背後から落ち着いた声が入る。
「机の上は荒らされた形跡がありますね」
「帳面が、ありません」
振り向くと、隆冶が引き戸の内側へ半歩だけ入っていた。勝手に部屋の中ほどまで踏み込まず、入口の位置で止まっている。
「藍色の帳面です。銀糸で梅を一輪、角に」
「他に普段ここへ置く物は」
「あります。でも、なくなっているのはそれだけです」
その時、廊下の向こうで足音が止まった。
「何をしている」
徳博だった。
客へ見せる時の艶のある声ではなく、素の低い声だった。戸口へ現れた顔は笑っていない。けれど隆冶の姿を見た瞬間、その表情の上にいつもの営業用の柔らかさが薄く塗られる。
「これはこれは。監察所の方が、うちに何のご用で」
隆冶は静かに身分札を見せた。
「縁句祭に伴う商いの確認です。寺門前の混雑の火元について、いくつか」
「火元とは穏やかではありませんね。繁盛しているだけですよ」
徳博は肩をすくめ、それから恵美子へ向けてわざとらしく眉を下げた。
「恵美子、戻ってきたのですか。朝は少し取り乱していたようだから、落ち着いたら話そうと思っていたのに」
その言い方に、恵美子の指先が冷たくなる。いつもそうだった。相手が不利になる形では絶対に話さない。自分が面倒を見ている側だと見える文句だけを並べる。
隆冶が帳面を開くように一問ずつ言葉を置いた。
「こちらの作業机から、私的な帳面が一冊なくなっているそうです」
「私的、ですか?」
「藍色の布張りで、銀糸の梅」
「ああ」
徳博はすぐに合点した顔をした。
「あれなら店の参考帳です。商いに使う文句の下書きが入っている。置き場が乱雑でしたから、今朝、私が帳場へ移しました」
「では見せていただけますか」
徳博の笑みがわずかに固まる。
「今は客で立て込んでおります。後でもよろしいでしょう」
「後でも構いません。ただ、今あったかどうかは記録します」
穏やかなのに、逃がさない言い方だった。
徳博は隆冶と恵美子を交互に見た。その間の長さで、恵美子には分かった。今朝移したなど嘘だ。だがどこへやったのか、徳博自身も即座には取り繕えないらしい。
「……確認してきましょう」
徳博はそう言って一度離れた。廊下の向こうで、客へ別の笑い声を投げてから、帳場の裏へ回る気配がする。
隆冶はその足音が遠ざかってから、低く言った。
「なくなった時刻は今朝以前か、今朝以降か、まだ断定できません」
「でも、徳博さまは知っていました」
「知っているのと、持っているのは別です。今は分けましょう」
分けましょう。その一言で、恵美子の頭にのぼりかけた熱が少し下がる。
ほどなくして戻ってきた徳博の手に、藍色の帳面があった。
「ほら、あるでしょう」
差し出された帳面を見て、恵美子の胸は一度強く跳ね、それから別の意味で重く沈んだ。表紙の角にある梅の刺繍は自分のものだ。だが紐の結び目が変わっている。自分は左へ一重に流す癖があるのに、今は右側で固く二度結ばれていた。
隆冶は受け取らず、まず恵美子を見た。
「ご本人が確認を」
「……はい」
恵美子は両手で帳面を受け取った。表紙を開く。前半は季節の挨拶文、婚礼の口上、贈り札の没案。ページをめくる。指が少し震える。後ろへ、後ろへ。
後ろから三枚目の右下。
あった。
いつもあなたの夢を見ている。
線が一本、斜めに引かれている。売り物には甘すぎる、と脇へ小さく書き添えた自分の字までそのままだ。
けれど、そのページの角が不自然に折れていた。つい今しがた急いで開いたように。
「それです」
恵美子が言うと、隆冶はようやく帳面を受け取り、開いたままの頁と表紙の刺繍を見た。確認は短い。だが目は細かく動いていた。
「記録します。文言の先行案、所持者、本人確認あり」
「大げさですよ」
徳博が笑う。
「店で使う文句を、婚約者が手伝うことの何が問題で」
「婚約者だった方、ですね」
都萌の声が廊下の向こうから差し込んだ。
いつの間に来たのか、藤色の衣の裾が障子の影に見えている。彼女は部屋へは入らず、戸口の外に立ったまま、徳博だけを見た。
「それに、先ほどはあなたが発案とおっしゃったでしょう。婚約者が書いた下書きを店で使った、という話と、ずいぶん違いますのね」
「都萌さま、これは」
「私は事実が知りたいだけです」
柔らかい声ではない。かといって怒鳴りもしない。磨いた刃を鞘から少しだけ出したような声音だった。
徳博の頬が一瞬引きつる。
恵美子は都萌を見た。朝、売り場でただ一度だけ違和感を指先でなぞった娘が、今も同じ顔で立っている。
都萌は恵美子へ視線を移し、言った。
「その帳面、あなたの字の方がずっと息をして見えますわ」
言葉はぶっきらぼうだったが、軽くはなかった。
隆冶が帳面を閉じる。
「本日はこれで十分です。帳面は持ち主へ返します。必要があれば後日、改めて写しを取らせていただく」
「持ち主、とは」
「銀糸の刺繍の件も含め、現時点では私物と見ます」
徳博は何か言い返しかけたが、表の客に呼ばれ、舌打ち寸前の息だけを残して引いた。都萌も同じく下がる。ただ去り際に、恵美子へだけ小さく告げる。
「朝の札、あれだけ甘いのに、妙に息が苦しかったのです。理由が分かりました」
それだけ言って、彼女は去った。
部屋へ残った静けさの中で、恵美子はようやく帳面を胸へ抱いた。取り戻せた。けれど、それだけでは足りないことも、もう分かってしまった。
あの一行はすでに町へ流れている。帳面が手元へ戻っても、寺門前の行列は消えない。
「証拠にはなります」
隆冶が言う。
「ですが、寺の混乱を収めるには別の手が要る」
「別の、手」
「ええ。粗い写しがこれ以上増える前に、客が何を欲しがっているのかを見極める手です」
店を出ると、表の喧騒がまともにぶつかってきた。徳博の店先では、同じ文句の札が箱ごと運び込まれている。通りを挟んだ向かいでは、便乗商人が真似た札を高く掲げ、さらにその隣では、もっと安い粗悪紙に似た文を殴り書きした札が風にはためいていた。
「ほんとうに、早い……」
恵美子が呟くと、通りの端から明るい声が飛んだ。
「だって売れる匂いがしたら、みんな鼻きくもん」
振り向くと、紙物と飾り紐を並べた小さな露店に、若い娘が腰かけていた。日焼けした指先で赤や白の紐をくるくる回し、こちらを面白そうに見ている。
「さっきから見てたけど、あんた、寺の案内札を書いた人でしょ」
「え」
「字に迷いがないもん。客を急がせる字。こっちは飾り紐屋だから、ああいうの、目に入るんだよね」
娘は立ち上がり、卓の上へ散った紐をぱっぱと払った。
「あたしは通子。月暁寺の門前で紙物と飾り紐を売ってる」
名乗り方まで手早い。
恵美子が頭を下げると、通子はすぐに徳博の店先を顎でしゃくった。
「あの札、あっちが元じゃないんでしょ」
「……どうしてそう思うのですか」
「元なら、売り方がもっとうまい」
あっさり言い切られ、恵美子は目をしばたたいた。通子は平気な顔で続ける。
「あれ、文句だけ先に走ってるでしょ。札の色も紐の結びも、客が誰に渡したいかなんて全然見てない。ひと山いくらの売り方。なのに言葉だけやたら刺さる。そういうのって、作った人と売ってる人が別の時が多いんだよ」
露店娘の観察眼は容赦がなかった。
隆冶が腕を組む。
「あなたも、そう見ますか」
「見ますよ。寺門前で三年やってりゃ、このくらい分かるって」
通子はそれから恵美子をまっすぐ見た。
「だったら本物を書けばいいじゃん」
あまりにも簡単に言うので、恵美子は返事に詰まった。
「そんな、簡単な」
「簡単じゃないのは知ってる。でも、やることは簡単。客が欲しいのは、その人の胸にぴったりくる一枚なんでしょ? なら、似た文句の山より、本人が書いた一枚のほうが強い」
「私が表へ出れば、また笑われます」
思っていたより速く、本音が口を突いた。
「地味だ、堅い、売り場の顔じゃない。そう言われたばかりで」
「へえ」
通子は驚くでも慰めるでもなく、恵美子を頭の先から足元まで見た。
「じゃあ顔で売らなきゃいい。言葉で来させれば」
風に揺れた色糸が、陽にきらりとした。
「人が並ぶのって、きれいな顔の前だけじゃないよ。欲しいものがあるとこだよ」
その時、通子の露店へ若い僧が一人駆け込んできた。
「通子、奉納用の白紐、まだある?」
「あるある。十把? 二十?」
「十五」
「半端だなあ」
言いながらも、通子の手はもう束を分けている。数え方に無駄がない。受け渡しのついでに、僧へ向かって顎を上げた。
「日依ちゃん、まだ清書場?」
「うん、回廊の端」
僧が去ると、通子は二人へ言った。
「ほら、寺の清書手にも見てもらえば。字を見る子がいるから」
案内されて回廊の端へ行くと、白木の机が三つ並んだ一角で、若い書き手たちが奉納文を清書していた。その中の一人が顔を上げる。色の薄い衣に細い指。騒がしい境内の中でも、その周りだけ空気の温度が少し低いように見えた。
「日依、少しよろしいですか」
隆冶が声をかけると、娘は筆を置き、静かに立ち上がった。
「隆冶さま。何か」
「文面の確認を頼みたい」
差し出された帳面を、日依は両手で受け取った。ページをめくる手つきが丁寧だ。例の一行で止まり、そこに引かれた消し線をじっと見る。
「この字が元ですね」
言い切るまでに、迷いがなかった。
恵美子は思わず尋ねる。
「分かるのですか」
「はい。写した字は形だけ似せても、息継ぎの場所が違います」
日依は帳面の横へ、寺で売られている恋札を一枚並べた。朝から回収した見本なのだろう。
「こちらは、甘いところだけを残そうとして、前へ前へ押しています。でも、この帳面の字は、最後でちゃんと息を戻している。読む人を置いていかない字です」
それは恵美子にとって、思ってもみなかった説明だった。
字は読めればよいと思っていた。早く、分かりやすく、間違えず。それだけだと。けれど日依は、そこに呼吸があると言う。
「誰の字にも、その人の呼吸が出ます」
日依は帳面を返しながら、穏やかに続けた。
「だから、本当に届くものは、たいてい隠せません」
恵美子は帳面を受け取り、その表紙をなでた。朝までは、ただ自分の没案帳だったものが、今は別の重みを持って手にある。
隆冶は回廊の向こう、なお続く行列へ視線をやった。
「寺は今日、恋札のせいで人の流れまで変えられている。なら寺としても、粗悪な便乗品を放置する理由はありません」
「何をなさるのですか」
恵美子が問うと、隆冶はいつもの、順に積み上げる声で答えた。
「許可を取ります。臨時の売り場を一つ。寺の認める形で」
「売り場?」
「ええ。大量に同じ文句を売るのではなく、その人ごとに一枚を書く場所です。五・七・五で願いを書く縁句祭なのですから、客に合わせた札があってよい」
通子がぱっと手を打つ。
「いいじゃん。飾り紐はあたしが出せるよ。白、紅、薄青、夫婦向けなら二色結びもある」
「清書なら、空いた時間に手伝えます」
日依までそう言った。
話が自分を置いて先へ進んでいくようで、恵美子は立ちすくんだ。
「待ってください。私、まだやると言って」
「やりたくないですか」
隆冶が真正面から聞いた。
逃げ道のある聞き方ではなかった。慰めるために用意された優しい嘘もない。ただ、やるかやらないかを、自分に返してくる。
恵美子は唇を結んだ。
やりたくないわけではない。怖いのだ。人前に出て、自分の字を自分の名で売ることが。誰かの手柄の裏に隠れているほうが、痛みは少なくて済む。少なくとも、これまではそうだった。
けれど今、帳面は自分の腕の中にある。通子は言った。顔で売らなきゃいい、言葉で来させれば。日依は言った。字には呼吸が出る、と。隆冶は、感情を急がせずに、道だけを差し出している。
恵美子はそっと息を吸った。
「……恋の札だけでは、ありませんよ」
三人の視線が集まる。
「仲直りしたい人も、送り出したい人も、うまく謝れない人もいるはずです。恋だけにすると、言葉が薄くなります」
「なら、そう書いてください」
隆冶の返事は早かった。
「寺へは私が話します。書く内容と値付けを紙にしてもらえれば、許可の筋は通せる」
筋は通せる。そう言って、彼はもう寺務のほうへ歩き出していた。立ち止まって悩むより、必要な手順を一つずつ踏む人の背中だった。
通子が笑う。
「ほら、あの人、決めたら早いんだよ」
「……まだ、私は」
「怖いんでしょ」
「はい」
「じゃあ怖いままで始めれば。最初から平気な顔してると、あとでしんどいし」
身も蓋もないのに、不思議と突き放された感じはしなかった。
日依が机の端から白札を数枚持ってくる。
「売り場の札だけでも、先に書いてみますか」
「売り場の」
「何をしている場所か、一目で分かるように」
恵美子は白札を受け取った。紙は軽い。なのに、筆を持つ手は朝より重かった。
――その人だけの願いに合わせた札。
そう書けばいいのかもしれない。けれど、それではまだ固い。寺へ来る者は、自分の願いをうまく言葉にできないから並ぶのだ。なら、その手前で肩の力を抜かせる言い方がいる。
考えているうちに、指先の震えが少しだけ収まってくる。
通子が横からのぞき込み、にやりとした。
「その顔なら書けるね」
「顔で分かるものですか」
「分かるよ。さっきまで、逃げる道探してた顔だったもん」
恵美子は思わず小さく息をこぼした。笑ったのか、困ったのか、自分でも分からない。
やがて隆冶が戻ってきた。いつも通り歩幅は変わらないのに、その手には小さな木札が一枚あった。
「寺から仮許可が下りました。場所は西の回廊脇、使っていない小部屋の前。今日一日は臨時扱い、問題がなければ祭の残り日数も継続」
そう言って、木札を恵美子へ差し出す。
表には墨で、臨時売り場許可と書かれていた。
「あなたの名で出しますか」
その問いに、恵美子は木札を見つめた。朝までなら、迷わず首を横に振っていただろう。誰かの後ろに隠れる道を探したはずだ。
だが今、帳面は腕の中にあり、手のひらには白札があり、目の前には許可の木札がある。逃げるための空白ではなく、書くための余白が、自分の前に置かれていた。
「……はい」
声はまだ大きくなかった。それでも、確かに自分の声だった。
「恵美子の名で」
隆冶は一度だけ頷いた。
「では、そう記します」
満員の寺のざわめきは、相変わらず絶えない。揺れる幟、鳴る鈴、誰かが誰かの名を呼ぶ声。けれどその音の中に、恵美子は朝とは違う響きを聞いた。
押し流される音ではない。
これから、自分が返していく側の音だった。




