第2話 満員の寺と眼鏡の監察官
恵美子の小さな提案は、すぐに試されることになった。
「恵美子さん、少し歩けますか」
隆冶はそう言うと、返事を待たずに石段の脇へ目をやった。二人の寺男が持ち上げた机が、参道の真ん中で止まっている。どこへ運ぶか、途中で分からなくなった顔だ。
「回廊下の二本目の柱の内側へ。そこなら雨除けが残っております」
隆冶が声をかけると、寺男たちはあわてて向きを変えた。だが運び先へ人が流れ込みかけている。札を買う者、様子を見るだけの者、見失った連れを探す者。春の陽が少し高くなるにつれ、境内のざわめきは粘りつくように濃くなっていった。
「歩けます」
恵美子は答えた。足はまだ軽くはない。だが立ち止まっているほうが苦しかった。
隆冶は人波の隙間を見つけるたび、短く道を開けた。
「荷を通します。端へ」
「奉納前の方は右へ」
「見物だけの方は石段を塞がないでください」
強い声ではないのに、人が不思議と従う。命じるより先に、なぜそうするのかが分かる言い方だった。
回廊の下へ着くと、机の移動はまだ半端な形で止まっていた。墨壺だけが先に運ばれ、筆は古い文箱の上で転がり、札束は人の肩にぶつからぬよう寺男が持ったまま困った顔をしている。
恵美子は思わず袖をまくった。
「机の向きを変えてください。横並びではなく縦に。書き終えた方が振り返らず、そのまま奥へ抜けられるように」
寺男がきょとんとする。
「た、縦に?」
「こちらから札を受け取り、あちらで願いを書き、そのまま奉納へ行く形にするのです。墨は中央ではなく端へ。肘が当たるので」
説明しながら、恵美子は自分で文箱を持ち上げた。見た目ほど軽くない。だが、どこに置けば人が迷わないかは体に染みついていた。
隆冶がその手から箱を受け取る。
「それは私が」
「いえ、置き場所だけ決まれば」
「置き場所が決まっているなら、運ぶ人間は多いほうが早い」
言い方に角がない。ただ事実だけを置くような声だった。恵美子は一瞬だけ口をつぐみ、それから回廊の角を指した。
「では、そこへ。壁に寄せすぎると裾が擦れます」
「分かりました」
銀縁の眼鏡が日を拾い、一度だけ白く光った。
数刻もしないうちに、流れは見えてきた。寺門で札を受け取り、回廊の下で願いを書き、奥の奉納所へ進む。立ち止まる者はいる。迷う者もいる。けれど、ひとかたまりになって詰まるよりはずっとましだった。人の肩がぶつかる音が減り、苛立った声も少しずつ薄まっていく。
「さっきより進むねえ」
「ほら、子どもが潰されずに済む」
並んでいた年配の夫婦の会話が耳に入り、恵美子は無意識に息を吐いた。
その様子を横目で見ていた隆冶が、帳面に何かを書きつける。
「机の配置変更、午前巳の刻。提案者、恵美子さん」
恵美子ははっとした。
「私の名まで、書くのですか」
「誰が言ったかは、後で揉めた時に要ります」
「でも、たまたま見えただけで」
「たまたま見えたことを、口に出し、形にする人は多くありません」
さらりと返され、恵美子は返す言葉を失った。
今日だけで、自分のしたことをそういうふうに数えてもらったのは初めてだった。徳博の店では、できて当然、気づいて当然、間に合って当然だったからだ。
「案内札も必要ですね」
隆冶が参道を見渡す。奉納所への道が空いても、人はなお入口で首を巡らせている。どこへ並ぶのか、どの札が必要か、書くのに銭がいるのか。尋ねるたびに列の端がよれる。
「寺の書き手はおりますが、追いつかない」
その言葉に恵美子は、近くの供机に積まれた白札へ視線を落とした。粗い紙だが、墨の乗りは悪くない。筆先もまだ生きている。
「書けば、よろしいのですか」
問うと、隆冶はわずかに眉を上げた。
「書けますか」
「読めなければ意味がありませんから、簡潔にします」
恵美子は座る場所を見つけると、白札を三枚取った。一本目には、恋札の受け渡しはこちら。二本目には、願いを書く方は回廊下へ。三本目には、奉納のみの方は左手へ。余計な飾りを入れず、一目で分かるよう字幅を揃え、遠くからでも目に入りやすい濃さで書く。
書き終えた札を持ち上げた時、隆冶が近くに立っていた。
「早い」
「同じことを何度も聞かれると、売る側も客側も疲れます」
「それで、最初から聞かれない形にする」
「はい」
隆冶はほんの少し口元を緩めた。
「理にかなっています」
そのまま寺男を呼び、札を掲げる位置まで細かく指定していく。高すぎれば読めず、低すぎれば人の頭に埋もれる。恵美子が普段なら裏で勝手に直していた類のことを、彼は一つずつ表に出して整えていった。
しばらくして、列の先頭から若い娘が小走りに出てきた。
「ごめんなさい、さっきの場所より分かりやすくなりました!」
誰に向けた言葉かも曖昧な、ただの礼だった。けれど恵美子の耳には、紙越しに染みるように残った。
隆冶はその娘が去ってから、懐から小さな銭袋を出した。
「案内札三枚、配置の助言、現場整理の補助。手間賃です」
恵美子は目を見開く。
「いえ、そんな。私は勝手に口を出しただけで」
「勝手にではありません。こちらが採用しました」
「ですが、寺のお困りごとを少し整えただけで」
「整えたから払います」
あまりに迷いのない声だった。
「払わないと、次に頼む時の言葉が軽くなる」
その一言で、恵美子は銭袋を断れなくなった。手の中へ落ちてきた重みは小さい。それでも、不意に泣きそうなくらい確かな重みだった。
三年のあいだ、自分の言葉や工夫が金になるところを、横から見てばかりいた。今初めて、それが自分の掌に戻ってきた。
「……ありがとうございます」
声が少し震えたのを、隆冶は見ないふりをした。そのかわり、視線を参道の外へ向ける。
石段の下では、徳博の店で売られた恋札と似た文言を掲げた露店が、すでに三つ四つ増えていた。薄い紙に粗い墨で、いつもあなたの夢を見ている、あなたしか見えない、今夜もあなたを思う――そんな言葉が、見世物の幟のように風にばたついている。甘い匂いの香、紅色の紐、安い金泥。どこも似た顔をしていた。
「広がりが早すぎる」
隆冶は小さく言った。
恵美子も頷く。文句は一つ当たると、似た言い回しがすぐ生まれる。だが、今朝のあれは似ているのではない。まるごと同じだった。
「最初に売り出したのは、徳博の店です」
「先ほど婚約を改めると言っていた商家ですね」
聞かれて、恵美子は顔を上げた。
「聞こえていたのですか」
「寺門前では、大きな声はよく響きます」
気の毒がるでもなく、面白がるでもない返し方に、かえって救われた。
「徳博さまは、今朝あの文句を自分の発案だと」
「あなたは違うと知っている」
「はい」
隆冶は帳面を閉じ、恵美子へ向き直った。
「では順に伺います。帳面はいつ書いたものです」
「去年の秋です。九月の終わり頃、長雨が続いた日の夜」
「誰かに見せた覚えは」
「見せてはいません。ただ、部屋に置きっぱなしにしたことは……あります」
「部屋は店の中ですか」
「はい。帳場の奥に、私の作業机が」
言いながら、恵美子は喉の奥が苦くなるのを感じた。机の上へ広げた紙、乾ききらない墨、徳博がのれんをくぐる音。そういう細かな記憶ほど、今は痛い。
「帳面の表紙や紙質に特徴は」
「藍色の布張りです。角に、私が銀の糸で梅を一輪だけ縫いました。市販のものではなく、父の古い帳面を綴じ直したので、中の紙も厚さがまちまちです」
隆冶は一つずつ書き留めた。話を途中で奪わない。早く結論を出そうとも急かさない。その手つきの静かさに、恵美子の呼吸も少しずつ整っていった。
「文句は、その帳面のどこに」
「後ろから三枚目の右下です。売り物には甘すぎると思って、線を引いて消しています」
「消した跡があるなら、書いた時期の判別に役立つかもしれない」
役立つかもしれない。
徳博の前で何かを話す時、そんな言葉は返ってこなかった。必要か不要か、売れるか売れないか、それだけだった。
回廊の下で、若い僧が恵美子の書いた案内札を見て頭を下げた。
「読みやすくて助かります」
「いえ」
礼を返しながらも、恵美子はまだ銭袋の重みを袖の内に感じていた。恥ずかしいくらい、そこばかり意識してしまう。
「今すぐ店へ戻って帳面を確かめることはできますか」
隆冶の問いに、恵美子は黙った。
戻れる。場所は分かっている。勝手口の先、帳場の奥、細い廊下の左。けれど、今戻れば、徳博に顔を合わせる。都萌にも。客の目の前で切り捨てられた後で、帳面だけ取りに来た女として見られるだろう。そう思うと、足の裏がぴたりと石に貼りついた。
沈黙の意味を、隆冶はたぶん理解した。
「急がせるために聞いたのではありません」
言ってから、彼は少しだけ声を落とす。
「ただ、今あるものは今のうちに確保したい。消される前に」
その言葉で、恵美子の背中に冷たいものが走った。
徳博なら、やる。
帳面の存在に気づいたら、燃やすか、破るか、抜き取るかする。あの人は、自分の手が汚れることを嫌うだけで、汚すこと自体はためらわない。
「……参道の右手に、紙花の屋台があります」
恵美子はゆっくり言った。
「そこを曲がると、店の裏へ出られる細道があるのです。表から入るより、人目は少ない」
「案内していただけますか」
迷う暇がないほど静かな頼み方だった。
恵美子は顔を上げる。眼鏡の奥の目は、こちらを急かさず、それでも逃がさない目をしていた。
「監察官のあなたが行くのですか」
「ええ。婚約破棄の仲裁ではなく、文言の無断使用と祭の混乱の火元を確かめに」
言い分がきれいに整理されている。その整い方に、恵美子は少しだけおかしくなった。こんな時に笑うのは変かもしれないのに、喉の奥でかすかな息がほどける。
「何か」
「いいえ。ただ、言い方が抜かりないと思って」
隆冶は一拍置いて、わずかに眼鏡を押し上げた。
「抜かっていると、現場で怒鳴る人が増えます」
今度こそ、恵美子はほんの少し笑った。
その笑いが消える前に、参道の向こうから派手な呼び声が響く。
「恋札、おひとついかが! 願いが叶うと噂の、夢見る札ですよ!」
安い煽り文句の奥に、たしかに自分の言葉の骨が混じっている。
恵美子は袖の内で指を握りしめた。痛みはもう、朝のような頼りない痛みではなかった。向く先を決めるための力に変わりつつある。
「行きましょう」
隆冶が短く頷く。
「ええ。感情は後でよい。先に帳面です」
春の日差しは明るいのに、石段の下へ降りる道だけが妙に冷えて見えた。
恵美子はその冷たさの中へ、一歩を踏み出した。今度は追い出されるためではない。自分の言葉を、自分の手へ取り戻すために。




