第1話 これ、何の行列?
春の朝だというのに、店の裏はもう蒸していた。
湯気の立つ茶釜の横で、恵美子は袖口を細い紐で結び直した。表の売り場では、若い娘たちの甲高い声が波のように立っている。新しい恋札が入った、早く見せて、どれが一番効くの――そんな言葉が、暖簾の隙間から次々に流れ込んできた。
恵美子は返事をしない。返事をする役目ではないからだ。
代わりに、積み上げた札の束を三つに分け、補充の順を決める。売れ筋は薄紅の縁取りをした札、次が金砂を散らしたもの、その次が、昨日の夕方に追加でこしらえた青磁色の台紙。入口の右手は客が詰まりやすいから、釣り銭箱は半歩だけ奥へ。願いを書く机は、左利きの者が肘をぶつけぬよう一枚あける。紙、墨、筆、布巾。足りなくなる順はいつも同じだ。
言わなくても、誰も気づかないところは、だいたい恵美子が整えていた。
「恵美子、札を五十、いや八十だ。表が足りん」
帳場から徳博の声が飛んできた。振り向くと、彼は客へ向ける顔のまま、こちらへだけ目を細めていた。笑っているようで、命じている時の顔だ。
「薄紅を多めに。今朝はその色から動いております」
「分かってる。だから急げと言っている」
恵美子は言い返さず、束を抱えた。そうして表へ出ると、すぐに場の空気が変わる。
「徳博さま、こちらの文句、ほんとうにご自分で?」
「まあ、全部というわけではありませんがね。恋を知っていれば、自然と浮かぶものですよ」
客の前に立つ徳博は、よく通る声で笑った。春物の淡い羽織、ほどよく艶を乗せた髪、手元には、いちばん売れている札が一枚。そこに書かれた文句を見た瞬間、恵美子の足が止まる。
いつもあなたの夢を見ている。
呼吸が、わずかに遅れた。
その一行は、店に渡した文面ではない。去年の秋、雨の日の灯りの下で、売り文句には甘すぎると思って、恵美子が没案帳の端にだけ書き留めた一節だった。誰にも見せていない。少なくとも、見せたつもりはなかった。
「夢、だなんて」
「きゃあ、言われてみたい」
客たちは頬を染め、札を奪い合うように手を伸ばす。徳博は少し顎を引き、その熱を自分の手柄として受け止めていた。
恵美子は札の束を台に置いた。指先が冷たくなっている。奥歯を噛みしめると、墨の匂いにまじって、甘く焚かれた香の匂いがむせるように入ってきた。
三年。
三年のあいだ、手紙の代筆も、季節ごとの売り文句も、婚礼用の口上も、病から立ち直った知人へ送る見舞い札も、みな裏で書いてきた。徳博が帳場で客の顔を覚えているあいだ、恵美子は客の言えない言葉を紙の上に並べた。けれど表に立つ名はいつも徳博で、恵美子は「手の器用な婚約者」として、時折ついでのように紹介されるだけだった。
それでも、いずれ夫婦になれば同じ店の内だと思っていた。
少なくとも、今朝までは。
「皆さま、本日はもう一つ、お知らせがございます」
徳博が手を打った。ざわめきが少し鎮まる。客たちが期待した顔で彼を見た。恵美子の胸の底に、嫌なものが沈む。
「私、徳博は、この春をもって、婚約を改めることになりました」
場にいた誰かが、え、と声を漏らした。
徳博は笑みを崩さなかった。まるで新商品の披露でもするような調子で、店の奥に控えていた娘のほうへ手を向ける。
「こちら、都萌さまです。伯爵家のご令嬢で、今後は我が店にも新しい風を運んでくださる」
淡い藤色の衣を着た娘が、一歩前へ出た。真珠のような飾りを耳元で揺らし、客たちに会釈をする。よく磨かれた硝子みたいに、きれいで、よく目立った。
恵美子は聞き間違いかと思った。だが周りはもう、そうではない顔をしていた。隣同士で肘をつつき合う娘、目を見開く女房、面白い見世物を見つけたように息を潜める男たち。
誰も、恵美子を見ていない。
「恵美子さんには世話になりましたが」
徳博は、そこでようやくこちらを見た。
「どうにも堅すぎる。店に必要なのは、今の流れが分かる華やかさです。縁句祭の客は、説教を買いに来るのではない。ときめきを買いに来るのですから」
くす、と誰かが笑った。
恵美子の耳の奥で、その音だけが妙にはっきり残った。
「堅い……でしょうか」
自分でも驚くほど、かすれた声が出た。
「悪い意味ではありませんよ。まじめで、役には立つ。ただ、売り場の顔ではないというだけです」
役には立つ。
その言葉に、店の奥で削った夜の時間、指先を黒くした墨、書き損じを燃やした灰、眠気で滲んだ目まで、ぜんぶ一緒くたに押し込められた気がした。
都萌が口を開いた。
「その札の文句、先ほどから大変な人気ですのね」
徳博は満足げに頷く。
「ええ。恋は少し大げさなくらいがちょうどいい」
都萌は札を一枚つまみ、じっと見た。その視線が、わずかに恵美子へ滑る。
「そう。では、その大げさなくらい甘い文句を、あなたは今朝、自分の手でお書きになったの?」
徳博の笑みが、一瞬だけ止まった。
ほんのわずかな沈黙だったのに、恵美子にはやけに長く思えた。だが徳博はすぐに肩をすくめる。
「細かな作業は人手を使うこともあります。しかし発案は私です」
「まあ」
都萌の返事は平らだった。賛成とも反対ともつかぬ声音で、それ以上は何も言わない。
その場の空気は、すぐ次の客の声に押し流された。人気札をもう十枚、妹の分も欲しい、縁句祭に間に合うか。徳博は何事もなかったように応じていく。恵美子だけが、立ち尽くした。
胸の中で、何かが音もなく切れた。
泣く気にはなれなかった。怒鳴る気にもなれない。徳博の袖を掴んで問いただしたところで、この人はきっと、客の前では困った顔をするだけだろう。裏へ回れば、あとで話そう、今日は人が多い、と言う。その「あとで」が来たためしは、一度もない。
恵美子は静かに踵を返した。
「恵美子?」
誰かが呼んだ気がしたが、振り向かなかった。台所脇の小さな勝手口を抜け、裏路地へ出る。春の風はまだ冷たく、火照った頬を撫でていった。袖の内側に爪を立てる。痛みだけが、今の自分の輪郭を教えてくれた。
王都から半日ほどの古都、志和は、縁句祭の日には町じゅうの歩幅が変わる。旅人は首をのばし、若者は浮き足立ち、店の者は朝から晩まで声を張る。月暁寺へ続く坂道には、紙花の屋台、団子を焼く香ばしい煙、色糸を売る露店、手相見の敷物まで出ていた。
恵美子は、その賑わいをぼんやり横目で見ながら歩く。
どこへ行くつもりか、自分でも分からない。ただ、人のいない場所へ行きたいと思った。けれど祭の日に、人のいない場所などなかった。
坂を上りきったところで、急に足が止まる。
寺門の前から、石段の下まで、人が繋がっていた。
若い娘、連れ立った夫婦、母親に背を押される息子、まだ髪を結いきれていない小娘まで、みな何かの札や紙を握りしめ、同じ向きに首を伸ばしている。列は二つに見えて、途中で三つに割れ、また一つに戻り、境内の外にまで溢れていた。誰が最後尾かも分からない。しかも並ぶだけでなく、横から割り込もうとする者、机の場所を探して右往左往する者、足元の子どもに気づかず危うく蹴りそうになる者までいる。
恵美子の口から、思わず言葉がこぼれた。
「これ、何の行列?」
すぐ近くで、低い声が返る。
「その問いを、今朝だけで二十七人目に聞かれました」
恵美子が振り向くと、黒に近い藍の羽織を着た男が立っていた。年は二十代の後半か、もう少し上か。鼻筋の通った横顔に、細い銀縁の眼鏡がかかっている。華やかな場所には似つかわしくないほど落ち着いた装いなのに、そこに立っているだけで不思議と目を引いた。
男は片手に帳面を持ち、もう片手で寺男へ指示を飛ばしていた。
「右の列を止めてください。そこへ机を増やしても、人は流れません。書き終えた者が振り返るので、詰まります」
「は、はい」
「それから石段の中央を空けて。転べば下まで巻き込みます」
言葉が短い。だが曖昧なところがない。
寺男が走っていくと、男はようやく恵美子のほうへ目を向けた。眼鏡の向こうの目は冷たくも温かくもなく、まず相手をきちんと見定めようとする目だった。
「月暁寺の春の縁句祭です。今年は特に、恋札目当ての客が多い」
「……恋札」
「あなたも買いに?」
恵美子は答えられなかった。
買いに来たわけではない。つい先ほどまで、自分がその札を書いていた側だった、などと、初対面の男に言う気にもなれなかった。
男は無理に返事を求めなかった。ただ、再び列へ視線を移す。
「このままだと、夕方までに誰か踏まれますね」
その一言で、恵美子の頭の中に、さっきから見えていたものが一斉に形を取った。列が長いからではない。止まる場所が悪いのだ。願いを書く机が寺門の近くに寄りすぎている。書き終えた者がその場で読み返し、連れと相談し、筆を戻す。その脇を、まだ札を買っていない者が抜けようとする。売る場所と書く場所と奉納する場所が、一本の細い紐に結ばれたみたいに近すぎる。
「あの」
気づけば、恵美子は口を開いていた。
「机の置き方が悪いのです」
男がふっとこちらを見る。恵美子は自分の言葉に押されるように、続けた。
「願いを書く机が入口に近すぎます。札を受け取った人が、その場で立ち止まってしまうから。書く場所を奥へずらして、先に奉納札だけ渡し、考える人は横へ逃がしたほうが……」
言いながら、恵美子は石畳の上を指でなぞる。ここに机が二台、こっちへ布を張って、書き損じ箱は端へ。左側の灯籠前は景色がよいので、人が立ち止まりやすい。なら最初から、そこを待機の場所として扱えばいい。
男は口を挟まなかった。最後まで聞いてから、短く尋ねる。
「なぜそう思うのです」
「列の先頭が詰まっているのに、後ろは進んでいるからです。売るのが遅いのではなく、受け取った後で滞る。あと、右端だけ人の肩の向きが違います。並んでいるのではなく、机を覗いているので」
「……なるほど」
男は一度だけ頷いた。
それから近くの寺男を呼び止め、ためらいなく指示を出す。
「書き机を二台、あちらの回廊下へ。ここには受け渡し台だけ残してください。奉納札を持たぬ者は先へ入れない。案内札も書き換えます」
「い、今すぐに?」
「今すぐです。客は待ってくれません」
寺男が駆けていく。数人の手が動き出し、机が持ち上がり、布が張り直される。列はすぐには変わらなかったが、先頭の人の溜まり方が少しずつ崩れ始めた。人の流れに、細い水路が通ったようだった。
恵美子はまばたきをした。
本当に、採った。
見知らぬ女の言葉を、笑わず、後回しにせず、すぐに使った。
「助かりました」
男はそう言った。恩着せがましさのない声だった。
「私は隆冶。寺門前の商いと混雑の見回りを任されています」
「……恵美子です」
「恵美子さん」
名前を呼ばれただけなのに、胸の奥がわずかに揺れた。今日、初めて、自分が道具ではなく人としてそこに立っている気がしたからかもしれない。
だが次の瞬間、風に乗って、聞き慣れた文句が耳へ届く。石段の下、露店の一つが声を張り上げていた。
「大流行の恋札です! いつもあなたの夢を見ている、で恋を呼ぶ! 本家に負けぬ出来!」
恵美子の肩が強張る。
隆冶がその変化を見逃さなかった。
「今の文句に、何か」
問われて、恵美子は迷う。言えば、面倒になる。言わなければ、あの言葉は町じゅうで誰のものでもない顔をして歩き続ける。
春の風が吹いた。寺門に吊るした五色の布が揺れ、紙札の角がかすかに鳴る。
恵美子はゆっくり息を吸った。
「その文句……もとは、私の帳面にあったものです」
隆冶の表情は変わらない。ただ、眼鏡の奥の目だけが、少し深くなった。
「証拠は」
「あります。たぶん」
「たぶん、ですか」
「……帳面が、まだ残っていれば」
恥ずかしいほど弱い言い方になった。けれど隆冶は鼻で笑わなかった。
「では、残っているかを確かめましょう。感情の話にする前に、順を立てて」
順を立てて。
その言葉は、いまの恵美子に必要な棒のようだった。沈みかけた足場へ、一本、まっすぐ打ち込まれる。
石段の下ではまだ、恋札を求める声が止まない。境内には人が溢れ、紙と風と噂が飛び交っている。
けれど恵美子は、少しだけ背を伸ばした。
婚約を失った朝だった。
それでも、何もかも失ったわけではないのかもしれない――そんな考えが、胸の底に、まだ小さな火として残った。




