第九話 マレボジェ
どこまでも続く様な深い空洞を見下ろし、アイナは全身に鳥肌が立つのを感じていた。怪物と対峙した時とは恐怖とはまた違う、人知を超えた何かを見たような感覚だった。同時にどこか懐かしさを覚えた自分にひどく狼狽えた。
「大丈夫?」隣に立つハンザが気遣う様に尋ねて来る。
「平気です」
虚勢を張ったアイナにハンザは肩を竦める。
「心配いらないよ。俺が一緒について行くから」
「……じゃあ、あまり安心出来ませんね?」
「辛辣! 随分と嫌われたもんだ?」
大仰に仰け反ってそう言ったハンザには悪びれた様子は見られない。
だから信用が出来ないのだとアイナは思う。
……こんな人が、ナッシュさんの親友だったなんて。
「今のあなたを見たらあの人はなんて言うんでしょうね?」
「あの人って、ナッシュのこと?」
「ええ」
「……まあ、めっちゃキレられるだろうね」
そう答えたハンザはどこか楽しそうだったが、その目は眼下に広がる空洞のように暗い色をしていた。まるで何かが抜け落ちてしまったような喪失感を湛えながら、遠くの空を見つめている。その顔がアイナにはひどく痛々しく思えた。
「辛そうですね?」
「そう見える?」
「はい」
「そっか」と、ハンザが苦笑を浮かべる。
「後悔するくらいなら、こんなことしなければ良かったのに」
「ごめんね。でも、俺にはこうするしかなかったんだよ。俺の生きている意味なんて、他にはなかったから」
ハンザの話はいつも抽象的で確信を突く様なことは一切口にしなかった。その、のらりくらりとした態度がアイナは気に入らなかった。こんな風に、他人に対して敵愾心を持つのは初めてのことかもしれない。
「どうして、あなたは――」
不満を口にするより前に、空洞の奥底から凶悪な気配が噴出して来た。
風が吹いて来たわけではない。
ただ、ここには世界の悪意が詰まっていると、アイナは本能的に感じた。
「一体、この先に何があるんですか?」
「行けば分かるよ」
エストフィア王城の北部。
マレボジェと呼ばれるその場所で、アイナはこれから引き起こされる惨劇を無意識に感じ取っていた。
※
空洞の最深部にある漆黒の湖を見つめ、アナベラ・ブロックは陰惨な笑みを浮かべていた。
本当に長い旅路だった。
数え切れない辛酸と屈辱を嘗め、ようやくここまで辿りつくことが出来た。
一族の無念と怒り、そのすべてをこの世界に撒き散らす時が来たのだ。
何も知らない愚者ばかりのこの世界に真実を突き付ける。
真の大災厄と共に……。
「……ようやくよ、レイラ。私たちを裏切ったこの世界に正しい裁きを与えて上げる」震えるような声でアナベラが言う。
そんな彼女を後ろから見つめる者が居た。
長身痩躯に白髪交じりの金髪、老いてなお些かも衰えない男の色香を放つその男は、何も言わずにアナベラに近付くとそっとその肩を抱いた。
「これで、君は報われるのだね?」
「ええ……、私たちは……、ようやく……」アナベラはそう答えると、静かに後ろを振り返る。「来たみたいね?」
空洞の最深部に続く回廊、その先から二名の男女が姿を現した。
「……お待たせ」
手を振って来た義子に、「いいえ」とアナベラが答える。
「予定通りよ」アナベラはそう言うと、そこに現れたもう一人の女の子に目を向ける。「あなたが、アイナさんね?」
「……はい」
警戒した視線をこちらに向けてアイナが答える。
だが、それ以上に彼女の表情には困惑が浮かんでいた。
無理もない。
同族に出会うのは、初めてのことだろうから。
「初めまして。私は、アナベラ・ブロック。あなたと同じ災厄の魔女の血を引く者よ」




