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慈悲深く残酷な神々の箱庭 序奏  作者: M
第1部 第1章 仏国の少年Eにまつわる挿話(姉ユディット視点)
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第8話 炎に消えゆく想い

 D.C.からの出航は、思ったよりも手間取ることになった。帰りの便も優先出航を申請してあったものの、現地の上層階級のほうが優先度が高かったせいだ。

 この異国の地(アメリカ)では、母国(フランス)ほど父の権限は及ばなかったのだ。


 出航までの数時間を、私はクロエとともに別邸で待つことにした。

 別邸には二人の使用人がいた。二年前にここを訪れたときに応対してくれた男と、もう一人は初めて見る青年だった。もともとこの館の管理を任されていたらしく、兄が亡くなり、弟が去った後も、そのままここに残るらしい。


 ふと、兄が呪われ、この二年ほどで数人の死者を出したこの館を、父はこれまで通りに所有し続けるのだろうかと疑問に思った。

 けれどもよく考えたら、上層階級の住居というものは、多かれ少なかれ死人を出しているものだ。一家惨殺の凄惨(せいさん)な現場になることだって、そう珍しいことではない。歴史のある建物であればあるほど、そうなのだ。取り立てて気にするほどのことでも、ないのかもしれない。


 あの後、弟が近侍たちを(ともな)って去っていくのを、私は言いようのない寂寥(せきりょう)とともに見送った。

 去り際に弟は、父さんに呼ばれれば行くよ、と言っていた。「帰る」でも「戻る」でもなく。パリのあの屋敷はもう、弟にとっては帰る場所ではないのだ。

 そして、あの子が私のもとに戻ることも、もう永遠にない。あの子はこの世界でただひとりを見つけ、ふたたび出会うために、旅立ってしまったのだから。


 耳に手をやる。弟が耳もとでささやいていった言葉がよみがえる。

 いったいいつから、あの子は気づいていたのだろう。

 あの子に見透かされていたのだ。なにもかもすべて。それでも、あの子を愛しているというこの気持ちも、(いつわ)りではない。けっして。



「お兄様の部屋を、見てもいいかしら」


 お茶の給仕をしてくれた青年にそう声をかけると、少し戸惑うような様子を見せたあと、案内しますと言ってくれた。


「あなたも来る?」


 クロエに問いかけると、硬い表情でうなずきを返してくる。部屋の場所は知っていたけれど、青年が先導してくれたので、黙ってついて行く。


「こちらです」


 そう言って、青年が兄の居室であった部屋の扉を開けてくれる。

 もとはコンサバトリーだったその部屋は、まぶしいほどの白くやわらかな光に満ちた、明るく静謐(せいひつ)な空間だった。初めてこの部屋を見るクロエなどは、ほぅっと感嘆(かんたん)のため息を漏らしているほどだ。


 暖かな陽光が差し込んでいるけれど、この時期はさすがにひんやりとした寒さを感じる。少し冷えますね、と言いながら、青年が暖炉に火を入れてくれる。長居するつもりはなかったけれど、せっかくの厚意なので()めることはしなかった。


 二年前に見たときよりも、はるかに物が少なくなっていた。寝台と小さなテーブルの他は、なにもないといっていい。

 兄の死後、片付けたのだろうか。そんなことを聞くと、あらゆる物が弟に危害を加えるための道具として使われたために、少しずつ撤去されていった結果だと、言いにくそうに教えてくれた。

 クロエが顔を青ざめさせているのが、視界の端に見えた。


 寝台は清潔に整えられていた。この部屋に立ち入ることができたのは弟だけだったというから、あの子が兄のためにそうしていたのだと思うと、やりきれない思いがする。


 二年前、初めてここを訪れたあの日、この寝台で、兄に(くび)を絞められ、押さえ込まれたのだ。あの時の兄はもう、正気ではなかった。

 思えば、あれが生きている兄を見た最後になったのだ。


 寝台に腰かけて、部屋を見回す。

 二年半もの間、兄が囚われ続けた部屋。そして、弟が虐待を受け続けた場所。

 この部屋で兄は呪いを受け、気が狂うほどの苦痛を味わったのだ。そしてその兄に、弟は暴力の限りを尽くされた。

 やわらかな陽光にあふれるこの穏やかな場所で、そんな(むご)たらしく恐ろしいことが起きたなんて嘘のようだ。


 寝台の表面を撫でていた手に、奇妙なふくらみを感じた。わずかなものだったけれど、気になって幾度か手を往復させていると、クロエがこちらを窺ってくる。


「どうなさいました?」

「ええ、なにかここに」


 立ち上がって屈み込んでみると、寝具の下になにかが挟まっているのが見えた。クロエにマットレスを少し持ち上げてもらいながら、手を差し込んで引っ張り出してみると、それは硬い革の表紙を持つ日記帳だった。


 兄のものだろうか。開いてみると、そこには確かに、兄の手書き文字があった。見覚えのある、すばらしく美しい文字が整然と並んでいる。


「お兄様の日記のようだわ」


 そう言うと、一緒に覗き込んでいたクロエが慌てて離れる。自分が見ていいものではないと思ったようだ。


「お嬢様、わたし、向こうにおりますね」


 気を利かせたつもりか、クロエがそんなことを言って、部屋を出ていく。ただたんに、この部屋にいるのがつらくなっただけかもしれないけれど。


 手にした兄の日記帳を、私はしばらく見つめていた。寝台のマットレスの下に、隠すように置かれていたのだ。きっと、誰の目にも触れさせたくなかったものに違いない。けれど。


 一度は閉じたそれを、ふたたび開く。これは死者への冒涜(ぼうとく)かもしれない。いけないことだと自覚しながら、私は無粋な好奇心に突き動かされて、ページをめくった。



 私と兄は、それこそ生まれたときから不仲だった。幼いころはそれぞれの居室も遠く離れ、別々の乳母に養育されていたこともあって、顔を合わせたこともほとんどなかった。

 直接言葉を交わしたことも、数えられるほどしかない。そのどれもが、会話と呼べるかどうかというものでしかなかった。


 だから私は知らなかったのだ。今日、これまで。

 兄がほんとうはどんな人であったのか。兄がなにを思って生きてきたのか。


 命の期限を切られ、この部屋に閉じ込められた兄が、ただひたすらに心に想い続けていたものを、私はこのとき初めて知ったのだ。



 はじめのうちは丁寧な筆跡でつづられていたそれは、日を追うごとに乱れ、文章が途中で途切れるようになり、最後には単語の羅列になっていく。日付の記載がなくなっていったのは、きっと兄自身が、日付を認識できなくなっていったからだろう。

 兄が正常な意識を保っていられる時間が確実に減っていくさまが、まざまざと浮かぶようで、私はひどく胸がふさいだ。


 たまにパリの屋敷に戻った弟は、あまり兄のことを話そうとはしなかった。けれどあるとき、こんなことを言ったことがあったのを思い出す。

 ぼく、昔は兄さんと仲が良かったよね? と。

 そのときは、この子は何を言うんだろうと(いぶか)ったものだ。呪いを受ける前の兄は、誰よりもなによりも、弟を可愛がり大切にしていた。

 けれども、兄の虐待にさらされ続けた弟には、そのころの記憶はひどくおぼろげで不確かなものになっていたようだった。

 兄との思い出が塗りつぶされるほどの暴力を、弟はその心と体に受け続けていたのだ。


 私とて、思ったものだ。弟の体に傷が増えるたび、この子を愛していた兄はもういないのだと。(すこ)やかな弟に嫉妬し、憎んですらいるのではと、そう思いもした。


 でも違った。そうではなかったのだ。

 呪いを受け、それがもたらす際限のない苦痛に(さいな)まれ、正常な精神を日々失っていきながらも、兄は弟をずっと愛していたのだ。それこそ、最後の最後まで。


 日記を持つ手が、ひどく震える。あふれた涙が紙に落ちそうになって、慌てて遠ざけて目もとを拭う。


 閉じた日記の、その表紙に手を当てる。

 これを読めば、弟は兄に愛されていたころを思い出すだろうか。兄が弟を変わらず想い続けていた気持ちが、伝わるだろうか。


 この部屋で二年もの間、(しいた)げられながらも兄に寄り添い続けたあの子も、少しは救われるだろうか。


 ふと、寒気を感じた。

 暖をとろうと暖炉に歩み寄った私の瞳に、赤々と燃える炎が映る。寒々とした部屋を暖める炎。


 その中へ、私は兄の日記帳を放った。ぱっと燃え移った火が、じわじわと硬い表紙を舐めていく。


「させるもの、ですか」


 誰よりもなによりも愛した弟に、恐れられたまま死んでいけばいい。命にかえても守りたいと願ったあの子に、恨まれ憎まれていたと誤解されたまま。


 ポケットを探る。弟から預けられた、兄の遺髪を包んだハンカチ。それも炎に放ろうとして、手が止まる。


 母様のそばに埋めてあげて、と手渡してきた弟を思い出す。


 兄に嫌われ、憎まれていると思い込んでいた弟は、なにを思って兄の髪の一部だけでも、あの屋敷に帰そうと思ったのだろう。弟の健気(けなげ)さを思えば、頼みを無視して炎に投じてしまうのは気が引けた。


 兄のためではなく、弟のため。あの子に頼まれたから、あの子が望んだから。


 ハンカチをポケットに戻した私は、燃えてゆく日記帳をふたたび目にすることなく、兄の部屋を出た。

補足。

弟がボコった男は、近侍たちの手配で医療施設に搬送されています。ユディットは男に関心がないため描写されていません。


ユディット視点の物語はあと1話で一区切りとなっております。ここまでお読みいただきありがとうございました。

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