第12話 殺す慈悲 殺さない残酷
あるいはこの世界における慈悲と残酷の定義。
人体欠損に関する描写があります。苦手な方はブラウザバックをお願いします。
下に向けた剣の切っ先からしたたる血が、床の敷物へと吸い込まれていく。
この段になってようやく俺は、床や壁だけでなく寝台や調度にまで、濃い色の布がかけられているのに気づいた。
血しぶきが飛んでもいいようにこの部屋を整えたのは彼女たちなのか、あるいは青年と少年なのか。
自身を見下ろせば、借り物の従兄の服にも、血が散っていた。俺の好みには合わない葡萄酒色のベストも、これを見越して選ばれたのだろうか。
抜かりのない伯母が見繕ったのだ。きっとそうなのだろう。
「すまない。服に血の」
汚れが、と言いかけて口をつぐむ。俺のせいで流されたあの二人の血は、汚れなどではない。けっして。
折り重なるように倒れ伏して絶命した二人を、あお向けに横たえ直していた青年が、一瞬だけこちらに視線を向ける。
「血の染みなら落とせますから、ご安心を」
汚れとは言わなかった青年の気遣いがありがたかった。
思いもよらなかった。まさかこの半年を生き延びていた者が他にもいたなど。そしてその者たちが、俺と同じような目に遭っていたなんて。
いいや。女性の身でけだものどもに嬲られ、体中にむごたらしい傷跡を残された彼女たちを俺と同じだなどと、彼女たちが受けた屈辱の軽視が過ぎるというものだ。
上層上位出身の彼女たちにとっては、髪を切られたことさえ耐えがたい辱めであったに違いないのに。
俺の手で斬り裂いた二人の頸もとは、少年が添えた花々で覆い隠されていた。
花に埋もれた死に顔は安らかで、眠っているようにさえ見える。まったくの無痛で人を斬殺することなどできはしない。けれどもせめて、最小限の苦痛で二人を逝かせられただろうか。
少年が二人の額へと口付けをしている。
昼間、俺から離れていたあいだ、少年はこの二人のそばについていたのだ。数日間のこととはいえ、世話をし添い寝までしていた彼女たちが死んでいくさまを、少年に見せるべきではなかったのではなかろうか。
そんなことを思うが、今さらだ。
「エリアス」
呼べば、少年は顔を上げて立ち上がり、すぐにこちらへとやってくる。二人を斬った俺に対して態度が変わるのではないかと危惧したが、そんなことはなかった。
「あの男のところへ案内を」
俺の言葉にうなずくと、小さな手を差し出してくる。血脂の落ち切った剣を鞘に収めて、俺はその手を取った。
寒々しく奇妙なにおいの漂う薄暗い地下室。その部屋の中央部に天井から吊るされているモノがなんなのか、すぐにはわからなかった。
「エリアス!」
訝しく思いながらも数歩近付き、それが四肢を失った家令なのだと気づいた瞬間、俺はとっさに少年の腕を掴んで引き寄せ、俺の服に顔を埋めさせることで視界を覆った。
こみ上げる吐き気をどうにか堪えながら、意を決してそれへと視線を戻す。
ひどいありさまだった。手足どころか残された頭部と胴体もあちこちが削がれ、おそらくは血止めのためにか焼かれてさえいる。
こんな状態で、よく息があるものだ。
「気遣いなら無用だ」
背後から響いてきた低音の美声に、思わず身がまえる。振り返れば、戸口の脇に伯母婿がいた。最初からそこにいたらしい。どうしてこの人は、視認するまで気配がないのだろう。
「だが、こんなものを子どもに見せるのは」
「エリアスがその男を撫でた。今さらだ」
強く抱きしめていた腕をゆるめ、少年を見下ろす。俺を見上げてくる少年に本当なのかと問えば、こくりとうなずかれる。
「リオネルも、お姉さんたちも、このひとにひどいことされたんでしょう?」
だから仕返しをしてあげたんだよ。
そう言って少年が笑う。初めて会ったときに見た、花がほころぶような笑顔。
「いったでしょう? ここはあんぜんだって」
少年が吊るされた肉塊を見上げる。
「このひとにはもう、リオネルのところへいく足もないし、わるさをする手もない」
「エリアス」
悪夢にうなされ、目覚めるたびにささやかれた言葉。幾度となく俺をなだめた小さな優しい手。この手が、家令の手足を切り落とし、肉を削いだというのか。
「リ……リオ、ネ……ル……」
不意に、ひどくかすれた声が聞こえた。家令の声だ。まだ意識があったことに驚く。
見えているかどうかもわからない、濁った眼をかろうじて留めている落ちくぼんだ眼窩から、涙とも知れない液体が流れる。
「どう……か……、殺……して……慈悲……を、ど……うか……」
慈悲だと。どの面を下げて俺に慈悲など願う。
この半年のあいだ、家令に何度いっそ殺せと叫んだか。恥も外聞もなく膝をつき頭を床にこすりつけて懇願すらした。そんな俺を、この男は嗤いながら組み敷いた。
破落戸どもに宛がわれた女性たちも、死んだほうがましだと思える地獄を、無理やりに生かされていたのだ。
「どうかご当主様の手で、わたくしたちを神の国へお送りください。わたくしたちに救いを、どうかお慈悲を」
哀願するオリアーヌとフラヴィの震える声がよみがえる。
父をはじめ、無惨に殺されていった当家の者たち。一人残らず殺害されたものと思っていたものを、生き延びて助け出された者がいたと知ってどれほど嬉しかったか。
だがあの二人の望みは、当主となった俺の手にかかって死ぬことだった。
せっかく助かった命をなぜと問う俺に、二人は服を開けてみせた。
露わにされたその肌には、どう手を尽くしても到底癒せそうにない火傷と深い傷跡が無数に刻まれていた。
心と体に消しようのない傷を負ったまま生きていたくはないのだと、手を下してもらえないのなら自害すると、そう涙ながらに訴える二人に、俺がしてやれることが他にあっただろうか。
まだこの手に、つい先刻あの二人の頸を斬り裂いた感触が残っている。
二人は苛まれ続けた苦しみから解放されただろうか。俺はせめて二人の魂だけでも、救うことができたのだろうか。
「ディディエ」
吊るされ、肉塊となった家令の近くへと歩み寄る。引き抜いた剣の、その刃を頸へとあてがえば、肉を削がれた頬がゆるむのが見えた。
「あぁ……リ……オネ……ル、さ……ま」
もはや原型を留めていない、この世の誰よりも憎悪する男の顔を見据える。
「きさまにくれてやる慈悲などない」
ひ、と家令の喉から声が漏れた。
「最期の瞬間まで、もがき苦しんだ果てに死ぬがいい」
刃を引き、鞘に収める。家令に背を向けると、少年が俺を呼びながら手を差し伸べてきた。その手を取り、戸口へと向かう。
「待っ……、どう……か、慈……悲を、リオ……ネ……ル」
背後から聞こえるそれを無視して地下室を出ようとしたその時、伯母婿の笑い声が響いた。
「絆されて一思いに楽にしてやるものと思っていたが。存外、残酷な男だな」
「子どもにこんなことをさせるあなたほどでは」
足を止めてそう言い返せば、伯母婿が笑いを深める。
「あれは、あのままでいいのだな」
伯母婿の言葉にうなずきを返す。なにもせずともあの様子ではせいぜいもって数日だろう。息絶えるその時まで、地獄の苦しみを味わえばいい。
あの日ブランダルジャンの屋敷にいた者はみな、いなくなってしまった。俺ひとりを除いて。
仲睦まじい父と母と、善良で優秀な使用人たち。彼らに囲まれて過ごした、あの優しく穏やかな愛おしい日々は、もう二度と戻りはしないのだ。




