(89)
「そこは『初音』って呼びかけるんじゃないの? まあ、あんたらしいけど」
「無事で良かった」
蘆屋さんが、顔を横に向ける。
「何、格好つけてんのよ……」
そう言った蘆屋さんの表情が変わる。
「終わった、というわけではなさそうよ」
俺は蘆屋さんの視線の方向を見た。
「何、あれ?」
俺は目を疑った。
「知らないわよ。見たままを言えば、顔出しゴリラの着ぐるみを被った絢美というところかしら」
「いや、それ見たまんまだよ。蝙蝠が変化して、ゴリラのような形をとって、絢美にまとわりついたんだろう? それくらいは理解しているんだよ」
「じゃあ、何が聞きたいの? それ以上のことなんかわかるわけないでしょ?」
ゴリラって、特徴なんだっけ。
「ゴ、ゴリラなんだから、えっとその……」
と、言いかけたところで俺は蘆屋さんから体を離し、立ち上がった。
「人間離れしたパワーとか、スピードとか、ってこと?」
蘆屋さんの手を引いて立ち上がらせる。
「ちなみに、あたしはしばらく霊弾は撃てないから」
「えっ……」
「ほんと、ごめん」
俺が手を離した途端、蘆屋さんはへたり込むように座ってしまう。
突然、顔出し着ぐるみがしゃべった。
「なめるなよ!」
言うと同時に、こっちに全速力で近づいてくる。
俺が少し動くと、つれて方向を修正する。そのまま蘆屋さんから離れるように移動する。
「食らえっ!」
大きく振りかぶった拳が、俺に振り下ろされる。
受け止めるか逃げるか、考える間もなくパンチが到達する。
ドン、と空気が破裂するような音が響くと、俺は何度も回転し、地面を転がっていた。
殴られた勢いでこれだけ転がることへの驚きと、これを踏ん張って受けてしまった時の衝撃と、どちらが良かったのか考えた。
顔出し着ぐるみゴリラと距離ができたおかげで、俺は指を伸ばして霊弾を撃つ構えをとった。
「させるか!」
絢美が言うと、さっきよりもスピードを上げてこちらに近づいてくる。
俺は素早く霊弾を撃つ。
「かわされた」
化け犬の時もそうだったが、闇の中に黒い物体が動くのを識別するのが難しい。
着ぐるみゴリラは、左右のステップが犬より早い。
だからより狙いをつけるのが難しい。
俺は左右に振りながら、一歩先を読んで、撃つ。
「えっ?」
左右だけだった動きが、突然上に広がった。
ゴリラはジャンプして、俺の頭上を取った。
慌てて上に照準を合わせるが、間に合わない。
俺はそのまま指に力を入れ、両手を広げた。ゴリラの振り下ろす拳を受け止めるしかない。
「無理よ!」
蘆屋さんが叫ぶ。
俺の指先からは霊光が灯って、絢美の振り下ろす大きな黒い拳とぶつかる。
パァァァァ……
音はなかったが、俺の手とゴリラの拳がぶつかったところが輝きだす。
同時に、拳のスピードに急ブレーキがかかる。
「握った!」
俺の手のひらで、絢美の拳を捕まえた。
しかし、パワーは絢美の方が上だった。
俺は徐々に体がまがり、押しつぶされそうになる。
「握っても力がなければ無駄なことだったな」
膝をついて、拳が顔に振り下ろされないように腕の力を振り絞って押し返す。
霊光の輝きが小さくなっていく。
「くっ……」
蘆屋さんが立ち上がろうとして、転んでしまう。
無理もない。あれだけ霊弾を放ったら……
「あたしを忘れちゃ困るんだケド」
声がすると同時に、ムチがゴリラの背中で跳ねる音がした。
「橋口さん!」
絢美が拳を押し込んでくる力が弱まる。
「!」
「ほら、もう一回!」
バシン、と破裂音がゴリラの背中から聞こえる。
何かが砕け散って、バラバラと辺りに落ちる音がする。
バシン、と音がすると、ゴリラは俺をつぶすのを諦め、橋口さんを振り返る。
「えっ? もしかして、これって本当に着ぐるみ?」
俺の方に見せた背中は、縦方向に黒い毛皮が切れていて、中から絢美の白い肌が見えていた。
「着ぐるみなら」
俺は縦に切れた裂け目に手を入れ、左右に広げる。
すると、黒い毛皮が俺の腕を巻き込んでくる。
「着ぐるみじゃない…… これ蝙蝠の集合体だ」
変質しているところは、ゴリラの肌のようにみえるが、橋口さんの与えた傷の周辺では変質化しているはずの蝙蝠が、元の姿に戻っていたのだ。
もしかして……
絢美は、もう一度体を回転させて、俺に拳を振り上げる。
その一瞬の隙をついて、橋口さんがその拳にムチを巻き付ける。
「橋口さん! そのまま!」
振り上げた腕の脇を抜けて、ゴリラの背後に回る。裂け目から見える絢美の体。
「うぉぉぉぉ!」
絡みついてくる蝙蝠に耐えながら、俺は両手を裂け目に突っ込んだ。
そして奥にある絢美の脇から手を回し、引っ張る。
ゴリラの内側では、蝙蝠は生暖かい小さな生き物に過ぎなかった。
引っ張り続けると、ゴリラの背中の裂け目から、絢美の真っ白な背中が現れ始めた。
「もう少し!」
ぐっと、力を入れると、成虫になるセミのように、黒いゴリラの殻から、絢美の上体が外に出た。
ゴリラは制御を失ったように動きが止まり、顔を地面に向けて倒れてしまう。背中側で引っ張っている俺もつられる。
俺は倒れたゴリラから、さらに絢美を引き抜く。
真っ白な肌をした、裸の女性がゴリラの形をした殻から抜け出る。
「!」
着ぐるみゴリラのような形をしていたゴリラが、小さい蝙蝠に分裂していく。
キーキーと鳴きながら、無数の蝙蝠は舞い上がり、闇に溶けるように消えていく。
「あんた、どこさわってるのよ」
蘆屋さんが言う。
俺の手が、絢美の胸のふくらみに置かれていたことに気付くと、慌てて絢美を橋口さんに預けた。
橋口さんは、自らのコートを絢美にかける。
絢美は状況が理解できないかのように、林の奥をじっと見つめている。
「勝った? のかな」
「まあ、勝ったんじゃない?」
蘆屋さんは上体を起こしていられなくなって、完全に仰向けに寝そべっていた。
橋口さんは絢美の肩を抱きながら、
「間違いなく勝ったんだケド」
「いや…… 三島。三島優子は???」
「!」
俺たちは屋敷に戻って倒れている三島優子を発見した。三島優子を運び出し、屋敷を出た時、俺はふと気になって屋敷の扉に立った。
「閉まってる…… よな?」
おそるおそる扉に手を伸ばす。
勝手に鍵がかかって、また『さやか』との行為がなければ入れなくなっている…… はずだ。
「!」
まったく抵抗なく扉が開いた。
「どういうことなんだ?」
誰に言うわけでもなく、俺は言葉を口にしていた。
一歩、二歩、と屋敷に入っていく。
何か、罠、なのだろうか。扉を離れると、勝手に扉が閉まって……
俺は気になって扉を振り返る。扉は開いたままだ。
「ふぅ……」
また部屋の中へ向きを変えると、突然、シャンデリアから一筋の光が降りてきた。
「なんだ?」
真下に向かった筒状の光の中を、何かが降りてくる。




