番外編 覚醒の予感 sideアリス
アリューシャちゃん人形と月の迷宮に潜ってから、もうどれくらい経っただろう? 私はその時間を上手く計ることができなかった。四時間ぐらいだろうか、それとも八時間ぐらいだろうか。あるいは、すでに一日ぐらいは経過しているのだろうか。
ここでの出来事を順序良く正確に遡って思い出すことも難しかった。いや、より正確に表現すれば、アリューシャちゃんの話を聞く前と後での認識性に差異が生じているように思えた。彼女の物語はちゃんと最初から辿ることができる(といっても、まだ途中だけれど)。しかし、ここまでの攻略の道はすでに霞のように薄く記憶のなかから消えかかっている。それほどまでに、私はアリューシャちゃんの過去の話に夢中になっているということだろうか? たぶんそうなのだろう、と私は思う。私はそれをするためにこの異世界に呼ばれたのだ。今ではそう感じずにはいられない。
アリューシャちゃんはかつて月世界で一人の少女を生き返らせてしまった。おそらくそれが一番の要因となり、少女は不老不死の月の女神になってしまった。原始の月が再びの降臨を願った、女神ティアの代替品だ。
それが不幸の始まりだった。少なくとも、アリューシャちゃんはそう思っていた。代替品の女神は冷たい霊廟から一歩も外に出ることができない。アリューシャちゃんはここまでを話すと、またしばらくのあいだ黙ってしまった。
再度人形の口が開かれた。けれど、それまでに何秒かかったのか――あるいは何分かもしれない――私にはやっぱり計ることができなかった。時間というものの流れが、ここでは彼女を基準に回っているような気にさえなった。アリューシャちゃん人形が話しているときには時間が進み、口をつぐめば時間は止まるのだ。いや、この迷宮のなかだけの話ではないのかもしれない。私はアリューシャちゃんと話をしていると、ときおりこんなことを考えてしまう。世界は私を中心に回っているのではなかった。彼女を中心として回っているのだ、と……。
「それでも、ペリンヌの娘が新たな月の女神になってからの何年かは、それなりに幸せだったかもしれんな」とアリューシャちゃん人形は言った。「生き返り、再びあの声を聞けるだけで儂にとっては喜びじゃった。あの子にとっても、儂と長い時間ともにいられることを嬉しく思っておった。儂らは色々な話をして、色々な遊びを楽しんだ。広々とした霊廟というごく狭い世界のなかで、あの子は色々と学んだ。これで良かったのだ、と儂は無理にでも思い込もうとしていた。永遠の命という本当の意味を知るまではな」
十年という月日がそれこそ矢のように過ぎ去っていった。そのあいだ、月の花の名を与えられた少女に身体の成長は見られなかった。ずっと亡くなった七歳の姿のままだった。精神性も大人びることなく、いつまでも幼い。しかし当たり前のことだが、もちろんアリューシャちゃんは歳を重ねていった。五十歳を過ぎたころには、彼女はほとんど老婆といっても差し支えないほど老いぼれてしまった。もう誰も、『奈辺の月』の主宰だった二十代後半の美しい彼女と同一人物だとは思わないだろう。視力は幾分か悪くなり、腰もそれなりに曲がってしまった。いつかかならず訪れる自分の死を強く意識したのは、このころからだった。
そして、彼女は不老不死の魔法の研究を始めることになる。このままわたしだけ死んで、あの子を残していくわけにはいかない。こんな寂しい場所にたった一人ぼっちで閉じ込めておくことなんてできない。わたしも同じ永遠を生きることにしよう。凍りついた時の流れのなかで同じように苦しみ、同じように笑おう。
また十年が経ち、途方もなく長大な紙片を中心から折るようにまた十年が経った。月の花の名を与えられた少女が亡くなってから、三十年が経過したことになる。そのころには、彼女は不老不死の不可能性を認めないわけにはいかなかった。人を生き返らすことはできる。しかし不老にも不死にもすることはできない。なぜなら、あれは原始の月の意思と女神ティアの神秘性があって初めて可能にした奇跡だったのだ。あるいは、とアリューシャちゃんは思う。あるいは甦りの魔法さえ本当は未完成だったのかもしれない。あの子の蘇生は――いや、あの子を蘇生しようと考えたわたしの行動さえ、大いなる意思による誘導の一部だったのかもしれない……。
七十歳。それは彼女の見た目に初めて年齢が追いついた年だった。体はひどく衰え、杖をついてもゆっくり歩くのがやっとだった。目からはほとんど光が失われ、近くにかざした手のひらさえまともに見ることができなかった。ある日の朝、彼女はいつものように霊廟に赴き、月の花の名を与えられた少女の歓迎を受けた。不思議なことに、少女の喜びに満ちた顔だけは少しもかすれることなくはっきりと見て取ることができた。彼女は幼い少女の前に跪き、小さな身体を抱きしめた。
わたしはこの子を永遠の檻に閉じ込めてしまった……。永遠に一人ぼっちにしてしまった……。
白く濁った目から涙が溢れ、骨ばった頬を緩慢に滑ってゆっくりと落ちていく。わたしは間違ったことをしてしまったのだ、と彼女は思う。わたしはこの子の運命を狂わせ、もてあそんでしまったのだ……。
彼女はここに来るまでにある決意をしていた。自分はもう長くは生きられないだろう。しかし、やっぱりこの子を一人ぼっちで残していくことはできない。ならば、どうすればいいだろう? どうすればこの子の永遠の時間を少しでも明るく照らすことができるだろうか?
「どうしたの?」と幼い少女は涙目になって老婆に訊ねる。うん、ごめんね、なんでもないんだよ、と老婆は言う。ねえ、友達が欲しくはない?
「欲しい!」と代替品の女神は言う。そっか、なら、あなたを二人にしてあげるね……。
分裂の法。それが、少女を二人に分かつ禁忌の大魔法の名だった。「儂の罪過はな、アリス嬢」とアリューシャちゃん人形は私に言った。「人ひとりの運命を狂わせ、もてあそんだだけでは飽き足らず、生まれた女神を二つに割くなどという瀆神行為にまで及んでしまったのじゃよ」
またアリューシャちゃんは少しだけ黙った。それに伴い、世界は一時的に歩みをやめてしまった。
「二人の名前は」とアリューシャちゃん人形は言った。「身体と同じように月の花の名を二つに別けて与えた」
それで話は終わりだった。彼女の物語は唐突に、私にとってはかなり歯切れが悪く終わってしまった。それ以降、月の迷宮十三層までクリアして鍵を三つ手に入れるまで、彼女が続きを語ることはなかった。しかしまた、いつかそれからの彼女と分裂した代替品の女神が物語られるときが来るのだろう。アリューシャちゃん人形ではなく、北の大魔導士の館にいる本体の幼女の口から。あるいは――私の口から。
*
月の迷宮から脱出すると、空は暗く雲に覆われていた。もうすぐ夜になるぐらいの時間だろうか。まだ時との親和性に鈍くなっているような気がした。私はその流れに上手く乗れるようにと、一回だけ大きく深呼吸をしてみた。それからブタ侍ちゃんを赤いリュックの脇に引っ掛けて(アリューシャちゃんにきつく咎められていたのであまり喋らなかったが、もちろんブタ侍ちゃんも一緒だったのだ)、まだ自律して動くアリューシャちゃん人形とショッピングモールのフードコートに向かった。
「ッっっって!! 私の覚醒はどうしたのよ! 月の迷宮で私のなかに眠る力が目覚めるんじゃなかったの!?」
「儂は示唆を与えただけじゃ。明確な時を示したわけではない」とアリューシャちゃん人形は悪びれる様子もなく言った。「しかし、嬢の目覚めはもうすぐじゃろう。感じぬか? そのたしかな鼓動を」
感じる。私のどこかで何かがうねっている。殻を破ろうと内から激しく叩いている。その時はもうすぐ来るわ、と私は思う。お母さまやおばあ様にも負けない(もちろんあの人も遠くに置き去りにするぐらいの)絶大な力。
「ああアリス、やっと出てきたか」とフードコートに入るとクワールおじさんから声をかけられる。「少し前から、このショッピングモールに客が来ているんだ。当然アリスかウキキの許可がなければゲートを抜けられないので外で待たせているが、どうする?」
「お客さん? こんな円卓の夜の期間にどんなお客さんが来たのかしら?」
「さあ、よくわからんな。ハンマーヒルから来たそうだが、詳しくはアリスに話したいみたいだ。明るい紫色の髪をした、なんとなく雰囲気が奇妙な中年の女だ」
私は感じる。その彼女から何かがもたらされるのだと――。鼓動が早くなる。その時が近づいている。
私は目覚める、覚醒する。




