おまけの報告書
おまえかよ……!
びしょぬれの団長に続いて入ってきた姿を見るや否や、アークは額に手を当てた。
ずるずる外套を片手に部屋を出た上官に、また不可解なことを始めたなとアークが思ったのは先刻のこと。眉を寄せつつも机についた彼の元に、次々と騎士たちからの報告が届いた。
団長が汚い外套を羽織っておりますが、あれはいったい。
港に不審者がいます! 警備体制強化のため、五名が向かいました。
補佐官! 不審者が町猫のルーンに襲われてて、よく見たら団長だったんですけど!!
団長がでろでろの包帯をルーンに取られて憤慨しています!
一番奥の桟橋付近で溺れている人がいたので救助します!
団長が顔色……は変わってないけど慌てて救助に向かいました!
団長自ら海に!!
救助成功しました!
救援者を団長がつれてきます。
ぜんぶ、おまえが元凶か。
上官がつれてきた濡れ鼠にアークはくらりと眩暈を覚えた。
着替えや怪我の確認のために、自分の上官が溺れた馬鹿をつれてくるということは、報せがなくてもアークに予想できたはずだ。それなのに、水を滴らせるふたりが扉をくぐると突如として走る頭痛。
「あれ、アーク?」
こめかみをおさえたアークに、馬鹿が気づいて目を丸めた。
海上騎士団の団長を表す記章のついたマントにくるまれた、馬鹿。
その横には無表情の上官。
アークはため息をついた。
「なにをやっているんだおまえは」
海洋学研究者ハインツの娘であるこの馬鹿は泳げないはず。だからこうして溺れたわけだが。
けれども、アークが言いたいのはそれだけではなかった。
ぜんぶ引っくるめて、なにやっているんだとこの馬鹿を問いただしたい。
海上騎士団長の奇行はこの馬鹿が原因だと、頭の回転が速い彼は瞬時に察したのだ。だから馬鹿馬鹿と連呼している。口に出したら団長の反応が面倒くさそうなので、心のなかにとどめる分別も持ち合わせていた。
「アーク」
眉間にしわを寄せたアークに、低い声がかかる。彼はもう一度ため息をつくと、上官の声に含まれた意図を正確に察して隣の部屋を示した。
「着替えを用意してあります。どうぞご自由に」
「ああ」
うなずいた上官は、マントにぐるぐる巻きになっている馬鹿を優しく押してうながす。そうして自分も扉をくぐろうとするので、アークの視線はいっそう冷たさを増した。
「……団長。あなたが一緒にいってどうするんです。堂々と覗きですか。ひっ捕らえますよ」
「なっ!」
「ロナ、早く行け」
鱗がなかったら絶対に真っ赤な顔をした上官を無視して、アークは容赦なく馬鹿を急かした。ぱたんと扉が閉まる。その途端に、執務室の気温が一気に下がった気がした。
「なぜ、おまえがロナ嬢を呼び捨てにしている」
じっと鋭い視線を投げられて、アークは書類をめくる手を止める。
呆れを混ぜたため息をこぼして、海上騎士団団長を務めるディアルドを見上げた。
「気にするのはそこですか。……呼び捨てどころか、あれが四歳のときに溺れて泳げなくなったことも、ミルクティーと読書が好きなことも、猫は好きだけど犬は苦手なことも知ってますよ」
がーん。
絶句して固まるディアルドに、アークは淡々と言葉の刃を投げる。
「実家がはす向かいでして。そうですね、幼なじみってやつです」
「な、なんだと」
ちなみに、ハインツの調査についていったロナが溺れたとき、五歳だったアークも一緒にいた。
ロナがいないことに気づいたのは海藻の群生に夢中になっていたハインツではなく岩場にいたアークで、ロナを助けたのは調査を手伝っていたアークの父親だ。鱗人である父は人間の母と結婚してアークを授かった。つまり、アークはハーフで、人間の顔に鱗とエラ、水かきを持っている。
歳がひとつしか変わらず、アークが騎士団に入団するときまで、ロナと学舎を共にしていたわけだ。父親同士が知り合いだったから、幼いころから顔を合わせる機会は多かった。ものすごく仲が良かったかといったら、お互い同性の友達には負ける。そこをアークは、あえて幼なじみと言って親しさを匂わせた。なぜかって、もちろん憂さ晴らしである。
むっつり押し黙った上官に、口の端を上げたアークはわずかに溜飲を下げ、ふわふわのタオルを手渡すことにした。
しばらく前から、ディアルドの様子がおかしいことにアークは気づいていた。
アークはディアルドの補佐官をしている。毎日顔を合わせているし、もともと彼は洞察力に優れているからこそ補佐官を任されている。気づかないはずがなかった。
ディアルドが私用で町におりるときは、ずるずるの外套を羽織って顔を隠すのが常。それが、少し前から過剰になった。
万が一フードが取れても鱗肌が見えないようにしていたのには、驚きをとおりこして呆れた。なんでそんなに隠すんだ。
鱗人は女子供に怯えられることが多い。ディアルドもそれを気にして、よっぽどのことがないかぎり自分から近づくことはない。町で人気のくせに。団長をしているときは威風堂々、冷静沈着を絵に描いたようなのに。どうしていいかわからなくなるらしい。今まで散々泣かれたり怯えられたりしたのを気にしているんだ。
それで女性を避けまくったら女嫌いと噂されるようになった。それについては本人も気にしていないようだけど。
あるとき。書類を届けに執務室を訪ねれば、机に積まれた書類の間に薄っぺらい本が挟まっていた。
なんですかこれ、と手に取ると町の娘たちが読む恋愛小説だった。
決まりの悪い表情を浮かべたディアルドは、もらった本に混ざっていたとぼそぼそ答えた。ぽかんとしたアークは、団長が咄嗟にそれを隠したのだと察する。
自分が来た気配を読んだから隠したのだろうに、そんなバレやすいところを選んでどうする。そして誰だ、この海の申し子と恐れられる男に恋愛小説なんてやったのは。
趣味じゃないのに読んでいるところは、真面目で律儀なこの人らしい。でも、何度も言うが、恋愛小説だ。
それ一冊で終わるだろうと思われたそれは、数日後にはもう一冊増えていた。
本人は隠しているつもりだが、残念ながらアークにはバレている。
しかも嫌々ではなく、報告書を読むのと同じように真剣に読んでいるのもバレている。
あの騎士団長ディアルド様が。泣く子も黙るというか、むしろ火がついたようにさらに泣く海の申し子が。恋愛小説だぞ? 男女の恋模様を描いた少女向けの本だぞ?
それで朝、充血した目をこすっているなんて、冗談だと思いたい。
団長の威厳のためにも隠してもらうことが望ましいが、意外と迂闊なところがあるので露見までそう時間はかからないと踏んだ。
そのアークの読みを裏付けるように、ディアルドの不可解な行動は回数を重ねるごとに目についた。
とくに顕著だったのは、十日ほど前のことだ。
今思い出しても、アークはため息を禁じ得ない。
確かに、あのとき自分は言った。
若い女性への贈り物とは、と尋ねられて無難なところで菓子はどうかと。
銀行の横にあるケーキ屋のマフィンが人気で、いつも列ができているとも添えた。ああ、言ったとも。
そしてそのケーキ屋から、不審な男が開店前から店先に佇んでいると通報を受けたのは、入れ知恵をした翌朝のこと。数人の騎士で向かって男の事情聴取をしようとしたら、それがよく知った相手だったのも、もちろん同じ朝だ。
汚れのひどい外套をまとった大きな体。フードで顔を隠している。それだけでも不審なのに、手袋と顔をおおう包帯まで加わったら誰だって騎士団に報せるだろう。ケーキ屋の主人は間違っていない。
飛びかかった騎士を簡単にいなしたその不審者に、アークは頭を抱えてしまった。
なにしてるんだ、この人。
この日は一日休みだと言っていたからこそ、アークがこうして巡回までしているというのに。
まさか、この不審者が国民に人気を誇る海上騎士団団長だとは夢にも思うまい。というか、国民に知られたくない。
なぎ倒されて躍起になった騎士たちを、アークはため息をついて制した。
「……なにをなさっているんですか」
「マフィンを買いに来ただけだが」
そうだろうよ。
あのお堅い団長が女性への贈り物なんて言って、アークに衝撃を与えたのだから。忘れるはずがない。
お前が教えただろうと続いた低い声に、もう一度ため息をつく。
「その格好でうろうろされたら、住民が不安になります。ので、とっとと帰ってください」
「しかし、俺はマフィンを――」
「あとで部屋に届けます」
「……わかった」
渋々と踵を返した大きな不審者に、アークはこめかみをもんだ。
今の会話は互いにしか聞こえていない。事情がわからずに困惑している部下たちにも、安堵の笑みを浮かべて礼を述べる店主にも、あれが騎士団長ディアルドだと知らせるつもりなどアークには毛頭なかった。
すまないがマフィンを、と言った彼に店主は喜んで店を開けたのだった。
そのマフィンを携えて出かけたディアルドが、ルーンに箱を狙われて奮闘しながら町に降りたはずなのだが。
店主が快くよこし、ルーンにも飛びつかれたマフィンは、間違いなくロナのところにいったのだろう。
今ならわかる。
わかりたくもないのに、わかってしまう。
すっかり身支度を整えて戻ってきたロナに、アークは何度目かわからないため息をこぼした。
尊敬するハインツの娘で、鱗人とも関わりが多いから怯えることもなく、にこにこのほほんと過ごしているロナ。ディアルドのお眼鏡にかなってしまったのはしかたがないかもしれない。
「ロ、ロナ嬢。休まなくて大丈夫か?」
誰だおまえは。
傍に駆け寄る姿にアークは無言になる。そんな心配そうな声、部下がサメに呑み込まれたって出さないだろう。
「ディーさん、心配しすぎですよ」
ディーさん?!
海の申し子相手に?!
呆れたように笑うロナは、現在進行形で偉業をなし得ていることに気づいていない。
あっけらかんと手を振ったロナをディアルドが真顔で覗き込んだ。乏しいはずの表情は、鮮明に彼の心情を物語っている。
「いくらでも心配はする。きみはとてもか弱いんだ。それをもっと自覚するといい」
「……もう大丈夫って言っているのに」
とてもディアルドから出たとは思えない言葉も、ロナは気にした様子もない。むしろそこで唇をとがらせるなんてことをやってのけるだなんて。まったく、おそろしいやつだ。申し子にこんな口を利く女もいないだろう。
アークはひたすら気配を消して空気に徹した。ため息もこらえる。ふたりの世界になりつつある室内で無心になることだけ考えた。
「ハインツ先生には報せをやったから、帰ってゆっくり休むといい。家まで送る」
「でも、ディーさんお仕事は」
ここでようやくロナが無になっているアークを振り返る。あ、そういえばこいつがいたんだった。琥珀色の瞳がアークを映してほんのわずか見開かれた。……このやろう。
「アーク」
低い声に、優秀な補佐官は無表情で答える。
「油売らずに戻ってください」
「ああ、わかった」
ああもう、好きにしてくれ。
団長が送り届ける必要のある仕事ではないはずだが、もうアークは口を挟むつもりはない。
重々しくうなずいたディアルドに背を押され、ロナは執務室をあとにする。アーク、またね! にっこり笑って手を振る馬鹿をアークはため息で見送った。扉が閉まる瞬間に、隣の男が殺気をこめた一瞥をよこしたことなんて気づくはずもない。やはり馬鹿は馬鹿である。
本屋への道のりで恋愛小説の感想を言い合っているのかと思うと、アークの頭痛はひどくなる一方だ。だから彼は、ちぐはぐなふたりがどうなろうと知ったことではないと鼻を鳴らし、ようやく書類に手をかけるのだった。