一度だけでいい
『一度だけでいい』
俯き、僅かに首を傾げ、スミレさんは言葉を探す。俺は彼女の美しい伏し目を静かに見つめていた。
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私のパパとママはあまり仲がよろしくない。どうしよう、離婚とかされたら嫌だ。
「はぁ? 離婚?」
何言い出すんだ急に、とパパは苦笑する。
「だってパパとママって、全然ラブラブって感じしないじゃない」
パパはママにぞっこんだから、好きとか愛してるとか人生バラ色とかうちのワイフは世界一とか、聞いてるこっちが恥ずかしくなるようなことをしょっちゅう口にするのだけれど、ママがそれに応えたことは一度もない。結婚記念日とか、互いの誕生日とか、パパの甘い台詞が結構良いムードを作ることがあっても、ママは大抵黙ってパパを睨みつけるだけだ。
「パパはあんなに好き好き光線出してるのにさー、いっつも無視されてるじゃん。嫌われてるんじゃない? 私イヤだよ、娘が大学進学して家を出た途端に離婚とか」
「お前本当そういう下らないことは受験合格してから考えろよなー」
呆れ顔で聞き流したパパは、洗い物を終えてカウンターから出てくると、着ていたエプロンを私に投げてよこした。
「ちょっと出てくる。留守番頼んだ」
「え、お客さん来たらどうするの?」
「すぐ戻るから大丈夫だよ。スミレさんも、多分そろそろ買い出しから帰ってくるだろうし」
背中越しに手をひらひら振り、パパはさっさと出て行ってしまった。残された私は仕方なく、一人で店内を歩き回り、細々と雑貨の位置を整えたりした。
「Cafe Viola」
ママと同じ名前をしたこの店は、二人の若い頃からの夢だったらしい。北欧調の落ち着いたインテリアで、女子大生とか若いOLのお客さんがよく来る。手前勝手に言わせてもらえば、結構洒落た店だ。調度品も、ケーキもハーブティーも、ぜーんぶママのセンス。「恥ずかしいったらないわ」と未だにぼやかれてるあたり、名前だけはパパが押し切って決めたのだろう。
ママはパパと出会った頃、とても重い病気だったそうだ。わざわざ思い出す事もないからと、二人はその話題にあまり触れないけれど。あの暢気なパパでさえ、ママの身体の事についてはいつも恐い程真剣だから。きっと、お店が開けて、私が生まれるような未来は、二人にとって奇跡みたいなものだったに違いない。
難病を一緒に乗り越えて、夢を叶えて、子供もできて、おまけに夫は今でも恥ずかしいくらい全力で愛してくれるなんて、まるでドラマみたいだ。私はママっ子だから、世間のファザコン達と違ってそんなにパパの事が好きなわけではないけれど、それでも、自分がママの立場だったら、パパの事が愛おしくてたまらないだろうと思う。そして、だからこそ尚更、ママのあの素っ気ない態度は、とても危ないサインだと感じるのだ。
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指輪を渡し、プロポーズした時、スミレさんはさして驚いた風も無く、ただ、少し困ったように微笑んでいた。
「ありがとう。嬉しいわ」
ケースからリングを取り出すと、スミレさんは意味ありげな視線をこちらに送った。俺は黙って頷いて、恭しく彼女の手をとり、その細い指に指輪を通した。
「あなたも大人になったのね。なんだか、変な感じ」
左指を眺め、目を細めるスミレさん。
「結婚してくれますか」
「どうしようかしら」
「幸せにしますから」
仕方ないわね。そう言って薄く笑んで、スミレさんは頷いてくれた。
「愛しています。スミレさん」
感極まって告げると、彼女は弾かれたように顔を背け、顔を赤く染めた。やがて申し訳なさそうに、恐る恐るこちらを窺う。
「あのね、私だって、その、あなたのこと、大事に思ってるのよ? ただ、いつも、あまり上手く言えなくて」
そうして再び目を逸らし、彼女はしゅんとうなだれた。
「ちゃんと病気と向き合って、今、こうして暮らせているのだって、あなたのおかげだし、だから、感謝もしてる。好きだな、とも思うし。あの、あなたがよく口にしてくれるような、大きな気持ちも、ちゃんと感じてるんだけど」
そこでスミレさんは、思案するように押し黙ってしまう。どうすれば正しく伝えられるか悩んでいるようだった。一方俺は、日頃無愛想な彼女のかつてない大盤振る舞いに、すっかり参ってしまっていた。
「いざ、胸の内を話そうとすると、どの言葉も陳腐な気がしてしまうの。多分、どんな言葉を、どれだけ沢山繰り返しても、全然足りなくて」
だから、ごめんなさい。首を横に振り、もどかしそうに唇を噛むスミレさん。そんな彼女が愛おしくて、俺は深く息を吐いた。
「じゃあ、一度だけでいいですよ」
こんなに穏やかな声が出せたのかと、自分で少し驚いた。なるほど確かに、ようやく大人になれたらしい。
「一生分の気持ちを込めて、今、一言だけください。俺、それをずっと憶えていますから」
憶えていられるだろうと思った。彼女となら、きっと、遠い遠い未来まで。
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本当にすぐ戻ってきたパパの手の中には、ティーカップくらいの大きさの、とても小さな植木鉢があった。そこに咲いているのは、紫色の野花だ。
はてさて今日は何の日だっけと、私は頭を巡らせる。この菫の植木鉢は近所の花屋さんが売っているもので、何かしらの記念日が来る度、パパがママにプレゼントする。ただ、波瀾万丈な人生だった二人には、お店開店記念を始め、やたらとアニバーサリィが多く、当事者じゃない私ではどうにも憶えていられない。
「パパはさ、ママのこと嫌いになったりしないの?」
窓際に置かれた花を見つめ、私は尋ねた。エプロンを付け直しカウンターに入ったパパは、「まだ言ってるの?」と苦笑。
「だって、ママ頑固だし、パパ適当だしで、喧嘩よくするじゃん。コイツむかつくなぁ、とか、思わないの?」
「思わないなぁ」
冷蔵庫の中身を確かめながら、あくびまじりに答えるパパ。
「ちょっとも?」
「ちょっとも」
「昔から?」
「いや、そりゃ昔はあれやこれや、嫌な事もあったよ」
ドキリとする私を尻目に、パパは随分和やかな顔で笑った。
「でも、段々色々許せるようになって、最後は全部好きになるんだよ」
お前にはまだわからないだろうな~、とか言ってパパはにやにやする。我が父ながら、よくもまぁこんな恥ずかしい事を言えたものだ。こっちの背中がムズムズする。
こほん、と、わざとらしい咳払いが背後から聞えて、私は振り返った。ドアのところに、仏頂面したママが立っていた。
「また、この子に変な話してたでしょう」
「おかえりなさいスミレさん。変な話なんてしてないよ」
詰問を柔らかくスルーしたパパは、ママから買い出しの袋を素早く受け取ると、すぐにまたカウンターに引っ込んで食材を冷蔵庫に整理し始めた。手持ち無沙汰になったママが、今度は私を睨む。私は精一杯澄ました顔を作って、鋭い視線を上手に受け流そうと努めた。
「あら?」
私の巧みな誘導のおかげで、ママが窓際の植木鉢に気付く。歩み寄ってそっと花に触れたママは、これどうしたの? と訊いた。
「今日は、スミレさんの昔の退院記念日だから。今まで元気に連れ添ってくれてありがとう」
にっこりするパパと、立ち尽くすママ。またこのパターンだ、と私は思った。こうしてパパがサプライズをする度に、今度こそママは喜ぶだろうと様子を窺うのだけれど、期待は裏切られた事しかない。今だってまた、ママはどこか難しい顔をして、物言いた気に押し黙っている。やっぱり破局だ、熟年離婚だ。絶望する私を尻目に、パパは一人小さく頷くと、嬉しそうに笑みを深めた。
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俯き、僅かに首を傾げ言葉を探す。俺はそんなスミレさんの美しい伏し目を静かに見つめていた。
やがて彼女は口を開く。これ以上ないくらい、優しい優しい表情で。
「愛してる」と、彼女は言った。
『一度だけでいい』終わり
拙作をここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
もし、本作を少しでも気に入って頂けたなら、目を閉じ、しばしの余韻に浸ってやってください。
Cafe Violaが少しだけ登場する他短編
『待ち焦がれる二人』http://ncode.syosetu.com/n4414bg/
その他 連載中
『Missing』http://ncode.syosetu.com/n5596bf/