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交差点の信号が赤に変わり、車がゆっくりと停止する。
太陽は完全に顔を出し、窓の外は眩しいくらいに明るかった。
大通りは多くの車が行き交い、スーツ姿のサラリーマンやジョギングする老人などが、こちらには見向きもせずに通りすぎていく。
車の助手席に座った大貴は、ぼんやりと彼らを見送っていた。
昨夜の内に菜月とその両親は帰り、大貴と佐々木は病院に残って一晩を過ごした。
眠ることもできないまま夜が明け、朝食を取りがてら一旦アパートに戻ろうということになり、佐々木の車に乗って帰路についたのだった。
車内はラジオが流れてはいるものの、妙な静寂に包まれている。
寝ていないせいか、それとも別の何かのせいか、喋る気力がわかない。佐々木も運転に集中しているようだった。
だから大貴はずっと外の景色を眺めていた。見慣れた、少し色褪せた街並みが流れていく。
車がまた走り出したのだと気付いた時、不意に佐々木が口を開いた。
「栗原、今何考えてる?」
その問いに、大貴は間を置いて答える。
「特には……眠くて頭が動かないんで」
「はは、そうか……両親のことでも考えてるのかと、な。深刻そうな顔してるぞ、ずっと」
両親、という言葉に大貴はあからさまに顔を強張らせ、思わず佐々木の横顔を凝視してしまった。
大貴の視線に気付いた佐々木は、チラとこちらを見て微苦笑しながら「悪い」と謝った。
「……いえ。姉ちゃんから聞いたんですか」
「ああ、プロポーズした時にな」
佐々木は小さくため息を吐き、ハンドルをトントンと指で叩く。
「私は両親がいないけどそれでも結婚してくれるか、って返されたときはビックリしたよ。いや、両親いないのは知ってたぞ。いない理由に、だ」
「……そんなもんですよ」
大貴はそっけなく返し、前を向いた。
まさかこんなところであの日のことを蒸し返されるとは思わなかった。しかし朱那の事故を知らされた時、真っ先に思い浮かんだのは両親の顔と、当時の記憶だった。
思い出すだけで、今でも息苦しくなる。
「あー……悪い。これ以上は言わないから」
大貴の僅かな不機嫌さを感じたのか、佐々木は申し訳なさそうに話を打ち切った。
再び静かな時間が流れ、ラジオからは天気予報を告げる女性の声が流れ始める。大貴たちの暮らす地域は今日も一日中晴れ、洗濯物も良く乾くらしい。
無意識に見上げた空は当然、憎たらしいくらいに晴れ渡っている。気温も上がりそうだ。
週間天気予報が終わった頃に、佐々木がまた口を開いた。
「そういや、これからどうするんだ? しばらく一人だぞ」
「…………」
大貴は無言のまま視線を落とした。
治療は終わったものの、朱那の意識はまだ戻っていない。
全身打撲、数ヶ所の骨折。そして頭を強く打っていて頭蓋骨にひびが入っている。俗に言う、意識不明の重体、ってやつだ。
意識は数日中に戻るかそれとも長引くか、どちらにしても油断は出来ない。
昨日、朱那の治療を行った医者が説明し、また意識が戻っても身体に麻痺が残ってしまう可能性があると付け加えた。
説明を聞いている間はいまいちピンときていなかったのだが、一日経って、病室のベッドに横になっている朱那を見た途端、急激に現実味が増したのだった。
朱那の意識が戻るまで、自分はどうしたらいいのだろう。
生活の大半の家事を朱那に頼っていた。これからそれを全て自分でこなし、学校に通い、受験勉強もして、道場の手伝いにも行く。
全てをこなせる自信はなかった。必ず何かが疎かになる。
姉の存在の大きさを改めて実感し、大貴は自ずとため息を漏らした。
「俺ん家くるか? と言いたいが、所詮男住まいだからな……酷いんだ、部屋が」
佐々木が苦笑混じりに言った。
どう酷いのかは想像できないが、大貴はふるりと首を振った。
「……大丈夫ですよ、一人でなんとかなります」
「だがなぁ、何か心配だなぁ」
「というか、自分の担任と暮らすとかあまり考えられないです」
そう正直に気持ちを伝えると、佐々木は軽く吹き出していた。
「そういえばお互いまだ教師と生徒ってだけだったな。こんなだったらさっさと入籍しとけばよかったか、そしたら栗原が一緒に住んでもおかしくなかったのに」
「先生と義兄弟か……ちょっとイヤだな」
「おま……っお前そんなやつだったのかっ」
「冗談ですよ、ちゃんと前見て下さい」
わっと大袈裟に泣き真似する佐々木に、大貴は苦笑する。
そしてまた、窓の外に目を向けた。車は既に住宅街の狭い道路を走っていた。
「……先生」
「ん?」
「先生は、その……姉ちゃんと結婚するって気持ちは、今も変わらないですか?」
外を見たまま発した質問に、佐々木はしばらく黙り込んでいた。
質問の意図をつかみあぐねているのだろう。でも彼が何か話すまで大貴も説明する気にはならなかった。
「どうあっても結婚を取り止める気は全くないが……栗原はやっぱり反対してんのか? なんかショックだな」
「そうじゃなくて……」
大貴は疲れたように小さく首を振る。
「姉ちゃん、意識が戻っても障害が残るかもしれないって言ってたし……そしたら先生にも負担が」
「――なんだ、そんなことか」
意外そうに呟いて佐々木が笑った。
大貴が訝しげに目をやると、ハンドルを動かす彼の横顔は何だかホッとしているようだった。
「俺にとっちゃ、朱那が生きててくれればそれでいいんだ。障害が残ったら残ったで支えていく覚悟はあるよ。結婚ってそんなもんだろ?」
佐々木のはっきりとした答えに、少しだけ気分が軽くなる。佐々木にとっても、自分にとっても、朱那が生きていることが一番の救いだ。
「……俺は結婚のことはよくわからないです。でも、先生のその言葉は信じていいんですね?」
「ああ、いいよ」
ふっと笑みを漏らして、佐々木が頷く。
胃の奥のもやもやとした重石が取れ、僅かに肩の力が抜けた気がした。
それからしばらくして大貴のアパートの前に辿り着き、路肩に車を停めた。
車から降りてドアを閉めながら、佐々木が唐突に尋ねた。
「そういや、ちっちゃい時に結婚の約束とかしてないのか? 篠原と」
「……してません」
何をいきなり、と大貴はぶっきらぼうに否定して、アパートの階段を上り始めた。その後ろから佐々木が「ちぇー」などと呟きながらついてくる。
結婚の約束はしていないが、ある約束はしたことがある。菜月が今でも覚えているかは分からないけれど。
* * * * *
外から車のドアが閉まる音がして、うとうとまどろんでいた菜月は飛び起きた。
身体に掛けていたタオルケットを剥ぎ取り、つんのめりそうになりながら玄関へと走る。
菜月が辿り着くのと同時に玄関の扉が開き、大貴が姿を現す。
「ああ、菜月か。びっくりした」
視線を合わせた彼は驚いた様子も見せずに言い、スニーカーを脱ぎ始める。
「朱那さん、目覚ました?」
「ううん、まだ」
菜月の問いに大貴は淡々と無感情に答えた。そのことに微かな違和感を覚えつつも、菜月は更に尋ねる。
「……また病院行くんでしょ?」
「行くけど。その前にちょっと寝る……先生も寝ますか?」
大貴はふと後ろへ振り返り、菜月もそちらに目をやると、ドアを閉めて鍵をかけている佐々木がいた。
「そうだな……準備したら一時間ぐらい寝るか」
「じゃあソファ使ってください。……あれなんかいい匂いする」
すんすんと息を吸い込む大貴に、菜月は言った。
「お母さんがご飯作ってるよ」
「え? やった、おばさんの料理久しぶり」
そう呟いて廊下を進んでいく大貴の背を、菜月は立ちすくんだまま見つめていた。
――空元気……。
こっそりため息を吐いていると、不意に佐々木が肩を叩いた。
「おはようさん、ちゃんと寝たか?」
「……少しだけ」
「そうか。っていうか何で篠原がここにいるんだ?」
「ああ、うち……私じゃなくて篠原家が、ここの合鍵預かってるの。もしもの時のために、って。今日はそれ使って入ったの」
壁に寄りかかって菜月は説明した。
靴を脱ぎ終えて廊下に上がった佐々木が感心したような目で菜月を見下ろす。
「へえ。そういや、制服着てるってことは篠原は学校行くんだな、えらいえらい。俺は休むぞ、学校どころじゃない」
「先生それ生徒の前で堂々と言っていいの? ……私もホントは朱那さんのとこ行きたいよ。でもお母さんが、病院には私が行くからあんたは学校行きなさいってさ」
僅かに唇を尖らせると、苦笑した佐々木にポンと頭に手を置かれた。
「栗原の側にいてやりたいってのが本音だろ」
「……そんなんじゃないっす」
はいはい、と子ども扱いするように佐々木は菜月の頭をくしゃくしゃ撫でた。
「栗原のことは俺が見てるから、心配するな。篠原は学校行って南と奥村にも経過を教えてやれ、世話になったんだろ?」
「……うん」
菜月が素直に頷くと、佐々木はふっと微笑んだ。




