河伯
「餓鬼! どこだ!」
村のどこよりも小高い堂の前に来て、水妖は声を張った。地鳴りのような河の音が、それを掻き消さんばかりに轟いている。
「……おじちゃん?」
微かな声を頼りに、水妖は堂に飛び込んだ。腕を縛られ、床に転がされていた子供は、こちらを見ると顔をほころばせた。
「みんな逃げた?」
子供の第一声に、水妖は言葉を詰まらせた。何の恨みも、怒りもない澄んだ目だった。ああ、とだけ返し、水妖は子供の縄を切り、担ぎ上げた。
「逃げてもいいの? ぼく、ここにいないと駄目なんだって」
子供は背に乗せられて、問うた。
「おじちゃんは怒らなくても、河の神様は僕がここにいないと怒るんだって」
「――神なんかいない。居もしない神が、お前をもらって何になる」
わからぬ、と言った顔で子供は首を傾げた。
「要りもしない死より、必要になった命を生きろ」
水妖は子供を乗せて堂を飛び出した。辺りは完全に河に呑まれていた。堂の周りだけがまるで島のように、轟々と流れる湍水の中に取り残されている。その島も長くない、足元は瞬く間に水に覆われてしまった。水の中は土砂と瓦礫の渦だ。水妖が生きられようとも、子供が無事では済むまい。――もう、道はない。
「餓鬼。俺がいいと言うまで目をつぶっていろ。耳も塞げ」
背から子供を下ろし、水妖は流れに対して立ちふさがった。子供はぎゅっと目をつぶり、耳を押さえていた。この轟音なら聞こえぬかもしれないが、悲鳴を上げれば子供は泣くだろう。荒れる湍水を睨み据える。たかが水の塊、と吐き捨てて、水妖は吼えた。
「言うことを聞け! 湍水!」
万も昔に抑えられた力を無理やりに解き、大きく波打つ湍水に腕を突き出した。数千と命を奪った、水の操術。身体の芯から端まで焼けるような痛みが走る。
絶叫。子供に聞こえていないだろうか。二手に分かれ、堂の横を壁となり進む水を横目に見やる。まだ湍水は止まらぬ。水妖は感覚の無くなった四肢に鞭打つように、そこに留まり続けた。
まだだ。まだ止まぬ。まだ水は引かない。体が焼ける。熱い。まだ、まだだ。
どのくらい経ったか。雨か飛沫か、視界が白く霞んでいく。
湍水は――引いた。
「おじちゃん!」
子供の声に、水妖は目を開けた。
「まだいいと言ってないぞ、餓鬼」
幸か不幸か、手足の感覚はひどく遠い。だが、腕も四肢も尾もそろって全部ついていた。身体を起こそうとしたが、少しも力が入らなかった。
「無事か」
問うと、覗きこんでいた子供の目からぼたぼたと雫が落ちた。子供は答えず、ただ水妖に抱きついて、大声で泣いた。撫でてやりたいと思ったが、やはり手は動かなかった。
横を見やれば、辺りは完全に更地になっていた。木々も村もない。遥か向こうに、地にしっかと喰い込んでいたはずの、寝床の岩が傾いているのが見えた。人間の声が聞こえて来る。村人が戻ってきたのか。
「人間共に言ってくれ。渡しは少し休む」
子供は何度も頷き、水妖はそれを満足気に見て、再び目を閉じた。今なら死ぬのも容易いが、生きて見ようと思う。何より、これから子供が眠るとき自分がいなければ、子供はきっとまた泣くだろうから。




