咎負い
が、待てども子供は現れなかった。見えはしないが、とうに日は沈んだ頃だ。鈍の雲は夜の墨色に変わってしまった。泥を被っていた水妖の体も、雨に叩かれるうちに青磁の鱗が洗われて出た。村の方から、人が逃げるのが見える。流石に、人間も村を捨てることにしたのだろう。子供も、それに合わせて逃げたのか。
水妖は沢から上がり、上流にむかって歩き出した。人間共は子供に教えた場所と違わぬ方へ向かっている。子供が逃げ場を教えてやったのか。水妖は子供さえ助かればいいと思ったが、子供は人間共も助けたいと思ったのだろう。一度捨てられても人間を仲間だと思うのか。水妖にはちっとも理解できなかったが、人間はそういうものであるらしい。
水の届かぬ丘に出ると、村人が水妖の姿に悲鳴を上げた。武器を持った村の男たちが進み出て、切っ先をこちらに向けて何やら吼えている。気にも留めずに、水妖は子供の姿を探した。名前は知らぬ。ただ、餓鬼はどこだ、と声を上げた。
村人は水妖が話せることに大いに驚いたようだった。そして、一人の屈強そうな男を水妖の前に差し出した。男は槍を手に進み出て、問う。
「誰を探している。子か女か。贄は村に置いてあるぞ!」
「贄などいらん。脚の悪い餓鬼を一人探しているだけだ。放っておくと一人では寝れんとぐずりだす」
ざわと村人共が騒ぎだす。河は遠目にもうねり、白く逆巻く。
「いないのか」
「だから、贄なら置いたと言っただろう、河伯! さっさと気に入りの贄子を連れて、河を治めやれ!」
そして、ようやく合点がいった。下では村を飲まんと荒れ狂う湍水。水泡の定めを負った白衣の子供。水妖はその場を睨みわたし、じり、と村人に詰め寄った。鱗を叩く雨の音と紛う声音で、水妖は低く呟く。
「こんな生き物を生かせなかったと、俺は繋がれていたのか?」
水妖は顔を上げた。憤怒の形相だった。雷鳴や海鳴りに似た咆哮を上げて、水妖は男に躍り懸った。怯み腰に突きつけられた刃を掴み、槍手諸共引き倒す。通らぬ道理に容赦など要らぬ。泥を撥ね、水妖は前肢で男の腕ごと槍を叩き折った。雨音に混ざる悲鳴。
「人の子ごときで湍水が静まると思うか! 俺の腹すら収まらぬものを湍水が欲しがると思うか! ――村中の首でも足りん、揃えて湍水に沈めてやる!」
地を揺さぶるようなその声に、村人は震えおののいた。身内の体を掴み、寄り集まって固まった。水妖は体中の鱗を逆立て、それらを睨み据えた。猛る水妖の前に、その中から干からびたような老人が出て言う。
「静まりたまえ、河伯よ。幼子を置きざりにしたことについては謝ろう。しかし、そなたは咎の身。命を取ればさらに責は重くなり、刑は延びようぞ。ここは引いてくれぬか」
「屑が、刑などいくらでも伸ばすがいい! てめぇらの命をかき集めたところで、俺にとってはほんの一睡ばかりだ」
水妖はぎり、と歯を噛み合わせた。
「しかし、あれがてめぇらにここを教えたのなら、殺せばあれは俺をなじるだろう。何もできん泥人形共め、餓鬼はどこだ。迎えに行く」
村の端の堂、と声が返り、水妖は踵を返して、走り出した。ぬかるむ道を滑るように駆けた。傍らの湍水はかつての河原をとうに超え、土手を削り、木々を押し流している。水妖の後を追うように、河は近い家から呑みこんでいった。




