さりげなく癒して【7】
さりげなく癒して
【7】
博之は昼休みを利用して往よ診に来てくれた。
いつ仕事に復帰出来るかと訊いた瞳子に、博之は苦笑して、しばらく仕事は忘れなさい……と言った。
「食事をきちんととって、ゆっくり身体を休める事です」
ぴしゃりと言い渡されて、瞳子は素直に頷くしかなかった。
病院へ戻る博之を見送りがてら、ついでに買い物をして来ると言って、祐貴は出かけて行った。
「戻って来るまで、ちゃんとベッドで寝ていて下さいね」
釘を刺すことは忘れない祐貴だった。
瞳子は布団を首まで引き上げて、深い吐息をついた。
戻って来るまで……
その言葉に、どこかほっとしている自分がいた。
博之と共にエレベーターに乗り込んだ祐貴は、博之がニヤニヤ笑いながら自分を見ている事に気付いて、赤くなった。
「な、何をニヤニヤしてるんだよ、博之さん」
拗ねたように言いながら、一階のボタンを押す。
博之の言いたい事は、だいたい予想がついていた。
「別に……」
そう言って目を逸らされて、祐貴はぶんむくれた。
博之はくすくすと笑った。
「何だよ……ひとりで嬉しそうにして……」
祐貴は恥ずかしくていたたまれない気持ちになる。
博之は大人だ。
もうすっかり大人の祐貴が、博之の前ではどうしても昔に戻り、子ども扱いされてしまう。
今も博之は、大人の余裕といった感じで、笑って見せる。
「いや……祐貴のそういう顔、久しぶりに見たなと思って……」
祐貴は、ちぇっ、と舌打ちした。
博之は、祐貴の八つ上の兄と同級生で、田舎の家も近所であった。
優しくて、頭が良くて、かっこよくて――博之は小さい頃から、祐貴の憧れの人だった。
大学に合格して祐貴が田舎から出て来ると、すでにこちらで医者になっていた博之は、兄代わりとして、いろいろと面倒を見てくれるようになった。
離れていると思っていた歳の差も、祐貴が大人になった事で、精神的には随分と近付いたようで、時々会ってはいろんな話をするようになった。
そして、なぜ博之が医者になったのかを、祐貴は知った。
「俺の大切な人だ」
照れたような笑顔で、博之は祐貴に恋人を紹介した。
詩織と名乗ったその女性は、華奢で美しい小柄な人で、祐貴に優しい微笑を向けて頭を下げた。
中学生の頃からの付き合いだと言うが、そうは見えない程、ふたりは初々しかった。
博之はいつでも詩織を守るように寄り添い、壊れ物を扱うように気遣っていた。
詩織はいつも微笑を絶やさず、しかし、どこかそれが悲しげに見えた。
深く想い合うふたりの姿は美しかったが、祐貴は複雑な気分だった。
そのツーショットを見られるのは、病院の中だけだったからだ。
詩織は、その命の期限が長くない事を告知された身体だったのだ。
その頃の祐貴は荒んでいた。
信じる事、愛する事を、すっかり忘れてしまった時期だった。
女と見れば、憎しみをぶつけるかのように抱いた。
相手には困らなかった。
寄ってくる女は後を絶たなかった。祐貴の方は、誰でも良かったのだ。
それはただ、若い欲望を処理するだけの行為だったからだ。
先のない恋愛に、俺は溺れたりはしない。
虚しくなるだけじゃないか。
祐貴の目には、博之の愛し方は、とうてい理解出来ないものに映った。
見映えのいい、遊び上手な女ならいくらでもいる。
その時楽しければそれでいい。
見返りは求めない。
その代わり、自分からも与えない。
心まで売り渡すのはごめんだった。
博之には博之の愛し方があるように、自分には自分のやり方がある。
心の壁を何かに引掻かれるような感覚があったが、それに気付かぬ振りをして、祐貴は女を渡り歩いた。
しかし、いつしか心の引っ掻き傷は、祐貴を翻弄するようになっていた。
遊んでも遊んでも、満たされない日々が続いた。
イライラと荒れたり、どっぷりと沈み込んだり……感情の操作が出来なくなった時、なぜかいつも思い出すのが、博之と詩織の満ち足りた微笑みだった。
無性にふたりに会いたくなって、祐貴は度々詩織の病室を訪れるようになった。
詩織の病室に流れる穏やかな時間は、神聖で暖かい愛情に溢れている。
雲間から光が射すように、引っ掻き傷から滑り込んで来る優しさが、祐貴のささくれ立った心を、時間を掛けてゆっくりと癒した。
いつの間にか、祐貴は遊び相手を求めなくなっていた。
虚しい行為に溺れていたのは自分の方であると、漸く気付くゆとりが心に生まれた。
博之のように、自分もいつか深く大きな愛情で、誰かを包み込む事が出来るだろうか。
ただひとり、本気で愛する人に出会う事が出来るだろうか。
そうなりたい……
ふたりのように、すべてを与え合い分かち合える、穏やかで満ち足りた恋がしたい。
回り道をしながら、祐貴がやっと、その思いに辿り着いた時――
詩織は眠るように天に召されて行った。
崖っ淵へ向かって歩いていた。
いつかこの手から離れてしまう事はわかっていた。
それでも……守ってやりたかったんだ。
いつでも冷静で大人だった博之が、そう言って初めて祐貴の前で泣いた。
私たちのように、愛し合いながら引き離される人達を、一組でも多く救ってあげて……。
約束よ。
守れなかったら、いつか向こうで会っても、しらんぷりするんだから。
息を引き取る間際、詩織はそう言って微笑んだという。
普通の恋人達のような、当たり前の付き合いは出来なかった。
けれど、確かに俺は詩織からたくさんの幸せをもらった。
すべてをささげてもいいと思える程深く、詩織を愛した。
約束は必ず守る。出来るだけの努力をする。
いつか再会した時、あいつにまた微笑んでもらえるように……
俺は詩織を忘れない。
ずっと……覚えている……。
時間は掛かったが、詩織の死を乗り越えたとき、博之はそう言った。
そして――
今も笑顔を絶やさずに、医者として人の命を支えている。
近付いたと思っていた精神年齢は、また大きく引き離された。
博之は、祐貴がきっとずっと追い付けないだろう程に、大人だった。
エレベーターが一階について止まった。
扉が開いて、二人はホールへ出た。
「ありがとう……。博之さん、お昼休みだったのに悪かったね」
祐貴が言うと、博之は笑顔を向けた。
祐貴が、敵わない……と思う、大人の男の微笑みだった。
博之はひとつ吐息をついて、言った。
「やっと、見つけたんだな」
短い言葉だったが、博之のその言葉は、互いの心に深く入り込んだ。
祐貴にも、兄代わりとして祐貴を見守って来た博之にも、そして今は亡き詩織にとっても、感慨深い意味のある一言だった。
祐貴は、かつて博之が詩織を紹介してくれた時のように、照れたような笑顔を浮かべた。
「うん。俺の……大切な人だ……」
口に出して、その感動に語尾が震えた。
博之は小さい子供を撫でるように、祐貴の頭をくしゃくしゃと撫でると、軽く手を上げて踵を返した。
病院への道をゆったりと帰って行く博之の背中を、祐貴は言葉にし難い想いを一杯にして見送った。
博之の姿が見えなくなるまで、その場に立ち尽くしていた。
つづく




