さりげなく癒して【4】
さりげなく癒して
【4】
「大丈夫ですか!?」
エントランスの花壇を手入れしていた老人が、気付いて駆け寄って来た。
ここの管理人らしい老人は、瞳子を見るなり目を見開いた。
「緑川さん! どうしました!?」
「救急車を!」
祐貴が叫ぶと、老人は頷いて踵を返そうとした。
「待って……」
それを引き止めたのは瞳子だった。
「大丈夫……ちょっと、目眩がしただけですから……」
瞳子は弱々しい声でそう言った。
「だって……!」
祐貴が言うと、瞳子は祐貴のトレーナーの腕をぐっと掴んだ。
「部屋で、横になれば……楽になるから……」
躊躇う祐貴を、瞳子は縋るように見詰めた。
ややあって、祐貴は吐息をついた。
「わかりました……」
そう言うと、瞳子はほっとしたように、腕を掴む力を抜いた。
「ありがとう……鍵……バッグの中に……」
声が途切れて、そのまま瞳子は祐貴の腕の中で意識を手放した。
とーこさん……
立ち上がろうとした祐貴は、思いついてまた座りなおし、ポケットから携帯電話を取り出した。
ボタンを押して、耳に当てる。
相手はコール四回で出た。
「もしもし、博之さん? よかった、いてくれて……」
「何だ? 祐貴か?」
電話の相手、関博之は近所の病院の雇われ医者である。祐貴とは同郷で、祐貴の兄と博之は仲の良い幼馴染であった。
祐貴が大学進学と同時にこちらへ出て来てからは、兄代わりのように、いろいろと気にかけてくれている。
「突然で申し訳ないんだけど、往診、頼めないかな……。知り合いが倒れたんだ」
様子を訊いて来る博之に、祐貴は、過労だと思う……と告げた。
「女の人だから、看護婦さんも一緒にお願い。うちの近所のコンビニ、知ってるでしょ? あの向かいのマンションで……」
祐貴は管理人を振り返った。
「緑川さんの部屋番号は?」
「701です」
事の成り行きを心配そうに見ていた老人は、考える様子もなく即答した。
「701号室。……うん……申し訳ない……。出来るだけ急いで」
祐貴は電話を切ると、瞳子を抱きかかえて立ち上がった。
瞳子は寝室のベッドで、あれからずっと眠り続けている。
祐貴はその傍らで、瞳子の手を握り、動く事を忘れたかのように座り込んでいた。
博之はあの後まもなく看護婦を伴って現れた。
看護婦は祐貴を部屋から追い出すと、てきぱきと瞳子の着替えをし、化粧を拭き取った。
博之の診察によると、やはり過労が原因との事で、注射を打ち薬を用意してくれた。
明日また診に来るから……と言い置いて、博之は帰って行った。
瞳子の職場の方には、病院から診断書をファックスで送ってもらう手はずになっている。
「とーこさん……」
祐貴はそっと、その名を呟いた。
初めて見る素顔の瞳子は青白く疲れた顔をしていたが、それでもなお美しく、化粧で作り上げた顔よりも随分とあどけなく見えた。
職場で仕事をしている瞳子は、常にきりりとしていて、どこにも隙がない。
吾妻も話していたように、敵は少なくないのだろう。
それに呑まれてしまわないように、柔らかい表情を覆い隠すように、いつもしっかりめにメイクをして鎧を纏っているのだろう。
常に、ひとりで何かと闘っているのだろう。
こんなに可愛いひとが……
祐貴にはそれが痛々しくて、切なくてならない。
白く冷たい瞳子の手。
それを包み込む自分の手に、祐貴はやんわりと力を込めた。
暗く冷たい深みを漂っていた瞳子は、優しい何かが、自分をそこから掬い上げようとしているのを感じた。
穏やかに包み込むような心地良さは、自分の右手から広がる温かみがもたらしている事に気付き、瞳子の意識はその正体を探ろうと動く。
誰かが……私の手を握ってくれている
とてつもなく、優しい手
お母さん……?
違う……。こんなに大きくないもの
とてつもなく優しい、大きな手
おじいさま……?
違う……。おじいさまの手は、もっとごつごつしていた
そう……それに……
二人とも、もういないの
私は、ひとりになってしまったんだもの
瞳子は母親と二人で生きてきたのだった。
優しくて気丈な母は、働き者だった。
瞳子を守り育てるために、身を粉にして働き続けた。
片親だからと、瞳子に不自由をさせたくない……。それが母の口癖だった。
そんな母を見て育った瞳子には、夢があった。
大人になったら、自分が働いて、母に楽をさせてやりたかったのだ。
幼い頃から、生活のために母は働き詰めで、もちろんずっと瞳子は鍵っ子だった。
今度は自分が働きに出て、母には家にいてもらいたい……。
心配事は夕食の献立くらいで……という、のんびりとした生活を、母にさせてやりたい。
そして、おかえり……と、笑顔で迎えてもらいたい。
平凡でちっぽけだが、どうしても叶えたい夢だった。
瞳子が奨学金制度のある高校に合格し、母との幸せを掴む一歩を踏み出した矢先――
夢はある日、無残に引き裂かれてしまった。
瞳子を守ってくれた唯一の母。瞳子が守りたいと思ったただひとりの母は、交通事故で呆気なくこの世を去ってしまったのである。
二人で暮らした古く狭いアパートで、訪れる人もまばらな葬儀を執り行った。
ひっそりと慎ましく生きてきた母娘に似合いの、小さな小さな葬儀だった。
そのはずだったが――
にわかに外が騒がしくなり、何事かと瞳子が窓から外を窺った。
アパートの前の狭い道には、道全体を塞いでしまうような大きな車が止まっていた。白い手袋をした運転手が恭しく後部ドアを開けると、場違いな程、きちんとした身なりの老紳士が車から降り立ったのだ。
それが瞳子の祖父であった。
母は、資産家の娘だったのである。
瞳子の父親との恋を反対されて、家を飛び出して行ったきり、行方が知れなくなっていたのだと、老紳士は泣いた。
そして、母に生き写しの瞳子をしっかりと抱き締めて言った。
お前は私の孫娘だ……。
私に、たったひとり残された肉親なんだよ……と。
母の死亡事故の新聞記事が、瞳子と祖父を引き合わせたのだった。
祖父はありったけの愛情を瞳子に注いでくれた。
瞳子もまた、母の分まで……と、祖父に愛情を返した。
母を失った寂しさは拭いきれなかったが、それでも、穏やかな優しさに満ちた生活が、瞳子を癒してくれた。
しかし、その祖父も、五年前に他界した。
瞳子は今度こそ、本当にひとりぼっちになってしまったのだ。
とーこさん……
囁くような声が呼ぶ。
それは確かに自分の名前だが……誰もそんな風に自分を呼ばない。
しかし、そこに、母や祖父の羽の下で味わったような安らぎを感じ、瞳子の意識は掬い上げられるまま、ゆったりと浮上した。
そっと開いた目を、何度も瞬かせ、瞳子はようやくそこが見慣れた自分の寝室である事を認識した。
複雑な長い夢を見ていたのだろうか……。
自分はいつものように、ただ普通に目覚めただけ……。
一瞬、そう錯覚した。
いつものように、見慣れた天井がそこにあり、これが日常だと告げているように思われたのだ。
しかし――
唐突に、安堵したような吐息が、瞳子の耳を掠めた。
「よかった……気が付きましたか……?」
労わるように、そっと声が掛けられる。
何度か聞いたことのある声だった。
瞳子はピクリと反応し、次いで自分でも嫌になる程ゆるゆると首を巡らせた。
「……早瀬……くん……」
祐貴はそこで、ほっとしたように笑顔を見せた。
「心配しました……。気分はどうですか?」
そう訊いて来る祐貴が、自分の右手をしっかり握っている事に気付いて、瞳子は赤くなった。
さっき自分を包んでくれた暖かい感覚は、祐貴がもたらしたものだったのだ。
しかし祐貴は勘違いをした。
「顔色も戻りましたね。さっきまで青白かったのに、急に頬に赤みが差して……」
嬉しそうに言われて、瞳子は布団を引き上げると、顔を半分隠してしまった。
そ、そうじゃなくて……。
「あの……手を……」
おずおずと言われて、祐貴は一瞬ストップモーションになった。
はっと我に返って、慌てて瞳子の手を解放した。
「すみません……っ……俺……」
次の言葉が出ない。
何を言っても、瞳子にいやらしく取られてしまいそうで恐かった。
「ずっと……ついていて下さったの……?」
まるで助け舟を出すように、瞳子の方から口を開いた。
祐貴は弾かれたように顔を上げた。
「あ……はい。管理人さんに同行してもらって、ここへ運びました」
そして、思わずくすっと笑う。
「救急車はいやだって、緑川さん、わがまま言うから」
瞳子は布団の中に半分隠した顔を更に赤らめた。
「ごめんなさい……」
素直に謝る瞳子が可愛くて、祐貴はまたくすっと笑った。
「ずっと眠っていたからお腹すいたでしょう? キッチン、お借りしていいですか? 俺、何か作りますね」
祐貴が言いながら立ち上がると、瞳子は慌てて布団から顔を出した。
「そんな……! ご迷惑かけられないわ」
瞳子が言うと、祐貴はニヤリと笑った。
「今更遅い」
あ……と、固まってしまった瞳子に、祐貴は、うそうそ……と笑ってみせた。
「早瀬くん……」
寝室を出ようとしている背中に、瞳子が声を掛けた。
ん? と、振り返った祐貴に、瞳子は感謝の瞳を向ける。
「ありがとう……」
そっと告げると、祐貴は穏やかに微笑んで、部屋の扉を閉めた。
もう何時間も瞳子の家にいるのに、今、初めて踏み込んだリビングで、祐貴は呆然と立ち尽くしていた。
管理人と共に瞳子を運び込んだ時、取りあえず入り口から順番に扉を開けてみた。
書斎、衣裳部屋、そして次に寝室を見つけたので、祐貴はずっと瞳子について寝室で過ごしていたのだ。
途中、一度手洗いを使ったが、それ以外の部屋には入っていなかった。
「デカイ……なんて部屋に住んでんだ……!」
思わず声に出して呟いてしまう。
天井が吹き抜けになっているリビングダイニングは、合わせて30畳はあるだろう。ナチュラルな雰囲気の、落ち着ける部屋にしつらえてあった。
部屋の南面の履き出し窓の向こうには、ここがマンションの一室である事を忘れてしまうような、広い庭があった。工事をし、土を入れて、庭木も芝生も植わっている。
ダイニングは、使いやすそうなキッチンに続いていて、カウンターで間仕切りがしてあった。
その上、リビングとダイニングの境目には――
「ら……螺旋階段……」
祐貴は口をぽかんと開いたまま、美しいフォルムを描く、白い螺旋階段を見上げた。
どうやら上はロフトになっているようだった。
祐貴は思い出した。
そういえば、エレベーターで上がって来たとき、七階のフロアーには玄関の扉がひとつしかなかった。
ワンフロアー全部、瞳子さんの……
いや……ツーフロアーだ……!
祐貴は建物の外観を思い浮かべた。
てっきり八階建てだと思っていたマンションだったが、エレベーターのボタンは七階までの表示しかなかった。
それに、この吹き抜けを見れば、ワンフロアーでは不可能な事くらいわかる。
管理人が部屋番号を即答したのにも合点が行った。
とーこさん……
もしかして、これって……身分違いの恋~~~~!?
祐貴は頭を抱えて、その場に座り込んでしまったのだった。
つづく




