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さりげなく癒して【10】




さりげなく癒して


【10】




 祐貴は多忙だった。

 現地に着くなり、やらねばならない事が山積みになっていた。


 打ち合わせをこなし、現場に顔を出し、夜には祐貴のための歓迎会が催された。

 常に誰かと一緒のため、瞳子に電話が出来ず、ずっと気になっていた。

 祐貴のために開いてくれた酒の席を断って逃げ出すわけにも行かず、途中、手洗いに立った時、漸く瞳子の声を聞く事が出来た。


 気分はどうか、食事はしたかと訊く祐貴に、瞳子はごく短い返事をする。

 本当はもっと話していたかったが、夜も遅くなっていたので、瞳子を休ませなくてはと思い、早々に電話を切った。

「明日の朝、また電話します」

 そう言うと、瞳子は、待っています……と、言ってくれた。




 やっと解放されてホテルに戻った時、電話を掛けたい衝動にかられた祐貴だったが、きっともう瞳子は休んでいるだろうと思い、諦めた。


 さっきの電話の瞳子の声は、なんだか寂しげに聞こえた。


 会いたいとか……思ってくれてるのかな……

 そんな風に考えて、胸が一杯になる。


「俺も会いたいですっ。とーこさんっ」

 思わず声に出して、祐貴はベッドにダイビングした。




 翌日の朝、約束通り、祐貴はホテルから連絡を入れた。

 すでに起きていたのか、瞳子はコール二回で電話に出た。

 待っていてくれたのだと思うと、それだけで祐貴の心が弾んだ。


 体調は良くなっていると答えた。

 朝食はこれからだと言っていた。

 声に元気がないのが気になったが、すでに頭の中がラブラブな思考回路になっている祐貴は、きっと瞳子が寂しがっているからだと思った。


 早く帰ってあげたい……。

 よ~し、頑張って仕事するぞ~。


 気合も新たに、祐貴はホテルを後にした。






 その日も一日中、馬車馬のように働いた。

 すでに日は落ちていたが、建築会社の事務所で打ち合わせは続いていた。

 そこへ、予定よりかなり遅れて、レストランのオーナーが現れた。


「すみません、早瀬さん……」

 オーナーは申し訳なさそうに言って、頭を下げた。

「私用で申し訳ないんですが、緊急に、どうしてもはずせない用事が出来てしまって……。今日もその件で遅くなってしまったんですが、明日と明後日、出掛けなければならなくなってしまって……」

「え……?」

 祐貴が訊き返すと、今度は建設会社の部長が続けた。

「施主さん抜きでは進められないところだし……早瀬さん、こちらは初めてでしょう? うちの若いのに案内させますから、二日間、観光でもしてゆっくり過ごされてはどうですか?」


 つまるところ、二日間、ぽっかりスケジュールが開いたという事らしい。

 祐貴は即決した。

「いえ……私も突然の代役で参りましたので、長期出張の準備が出来ておりませんでした。そういう事でしたら、一度戻って出直して参ります」


 オーナーは恐縮して済まながっていたが、祐貴にしてみれば逆に感謝したいくらいだ。


 その日の仕事を急ピッチで進め、当面しなければならない事を終えると、祐貴は最終の電車に飛び乗ったのだった。











 祐貴が帰らないと知った時から、瞳子の思考は、また暗く冷たい深みに沈み込み、彷徨っていた。


 漸く自分の気持ちを自覚し、躊躇う気持ちを手放そうとしていた矢先だった。


 しかし今、祐貴は側にいない。


 祐貴の気持ちを確かめずに離れてしまった事が、瞳子を不安にさせていた。

 祐貴だけは違うとわかっている。でも、愛されているという自信がないのだ。

 そう自惚れられる程、瞳子は幸せな女ではなかった。


 時折くれる電話でも、祐貴の声を聞いていたくて、自分の返事は短い言葉になってしまう。

 なんて可愛げのない女……

 どうすればいいのか、瞳子にはやり方がわからないのだ。


 もう二度と戻らない宝物を、諦めきれず探し続けるように、瞳子の心は寂しさと苛立ちとに苛まれ悲鳴を上げていた。


 祐貴は必ず電話で訊くのだ。

 食事はしたか、ちゃんと休んでいるか……と。


 心配させたくなくて、瞳子は嘘をつく。

 横になっても、目を閉じても眠れない。食事をする事も忘れていた。

 それでも嘘をつきたくなくて、その時は思うのだ。眠らなくては、食べなくては……と。

 しかしいつの間にか忘れてしまう。次に電話をもらってまた思い出し、すぐに忘れる。


 祐貴の手によって掬い上げられた高みへ、もう一度自分ひとりで泳ぎ着く術を、瞳子は知らない。

 元々漂っていた深みへ、また、舞い戻っただけなのだ。

 それだけの事なのに……なぜ、こんなにも苦しいのか。




 あの人はなぜ、私に優しくしてくれるの?

 わからない……

 あの人の事、何も知らない……

 知らないまま、あの人は行ってしまった。

 いつ帰るのかも言わなかった。きっと、あの人にもわからないのだろう。

 もしかしたら……もう、帰ってこないのかも知れない。


 でも、電話をくれるわ……。

 きっと、時々、思い出してくれるのね。

 あの人は知っているのかしら……

 それが、こんなにも嬉しくて、こんなにも悲しい事を……。


 どうして……?

 ひとりぼっちには慣れているのに。

 そう、私はずっとひとりだったのに。


 恋を……してしまったのね。

 あんなに、用心していたのに。


 そう……私は知っていたのに……。

 暖かい場所を知ってしまうと、それを失った時、どんなに苦しいかという事を……。

 だから、何にも期待する事無く、何も失わなくて済むように

 仮面を被り続けて生きてきたのに……。


 あの人は……そっと、忍び込んで来た。




 とーこさん……


 優しく呼ばれたような気がして、瞳子は顔を上げた。

 書斎のパソコンの前で、いつの間にかうとうとしてしまったようだ。

 ディスプレイにはスクリーンセーバーが揺らめいている。

 瞳子はマウスを操作して、ずっと見ていた画面に戻した。


 それは、祐貴が瞳子の会社に提出した履歴書であった。

 資料として自宅のパソコンでも見られるようにしてあったのを思い出し、それからはずっと、瞳子はここに座っていた。


 履歴書の写真は、こういった書類独特の表情のないものだったが、瞳子はこの顔がどんな風に微笑み、どんな風に喋るかを知っていた。

 しかし、時間が経つ程に、その記憶も薄れて行くのだろう。

 それがただ恐くて、瞳子は写真から目を離す事が出来なかったのだ。


 とーこさん……


 囁きが耳を打つ。

 知らず溢れてくる涙が画面を揺らめかせ、ぼやけてくる視界に不安を煽られて、瞳子はそっと、画面の顔写真を指でなぞった。











 特急で舞い戻ってきた祐貴だったが、そこから最寄りの駅までの電車はすでになく、タクシーを捕まえた。

 しかし、あともう少しという所で現金が底をついた。昼間、あまりに忙しくて、銀行に寄る時間もなかったのだ。

 どうせあと五分くらいだから……と、タクシーを降り、祐貴は走って瞳子のマンションへ辿り着いた。


 合鍵で中に入り、まず祐貴が向かったのはキッチンだった。

 とにかく喉がカラカラだったのだ。

 スーツの上着をダイニングの椅子に投げ出し、ネクタイを緩める。

 冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出し、キャップを捻ってごくごくと飲んだ。


 一息ついて部屋を見回し、久しぶりに帰ってきたような錯覚に、くすりと笑いを漏らす。

 手を洗おうとシンクに近付いて、祐貴は小さな違和感を覚えた。


 キッチンは綺麗に片付いていた。皿の一枚も出ていない。

 それなのに、シンクには水滴のひとつも残っていなかったのだ。

 夕食の後に片付けたなら、シンクがこんなに乾ききっているはずがない。


 祐貴はにわかに不安を覚え、踵を返した。


 瞳子は食事をとっていないのだとわかった。

 まっすぐ寝室に向かい、扉を開けた。

「とーこさん……?」

 しかし、ベッドは空だった。


 さっきは気付かなかったが、リビングのソファに瞳子が眠っていたのだろうかと思い、寝室から出た所で、書斎から薄く明かりが漏れている事に気付いた。

 書斎の扉はきちんと閉まっていなかった。


 隙間からそっと覗くと、明かりも点けない部屋で、パソコンのディスプレイだけが明るく光を放っていた。


 瞳子はそこで、食い入るように画面を見詰めている。

 その横顔が酷く思いつめて辛そうで、祐貴は息を呑んだ。

 いったい何を見て、そんなに辛そうにしているのか……

 祐貴は扉をもう少し開け、部屋に足を踏み入れた。


 画面が目に入った。祐貴は切なさに胸が締め付けられた。

 瞳子が見詰めていたそれは、祐貴の履歴書だった。


「とーこさん……」

 そっと呟くと、瞳子の目に涙が溢れた。

 瞳子は白い指で祐貴の写真をなぞり、はらはらと静かに涙を零した。











「なぜ……泣いているの……?」


 聞こえるはずのない声が、今度は気のせいなどではなく、確かに聞こえた。

 それでも自分の耳を疑いながら、瞳子はゆっくり首を巡らせた。


「……あ……」

 瞳子はゆらりと立ち上がり、両手で口元を覆った。その指先を暖かいものが濡らしていく。

 心が引き裂かれそうな程に会いたいと願った人が、そこにいた。


「ずっと……そこで、そうしていたの? 明かりも点けないで……」

 書斎の戸口に立つ祐貴が、静かに言って、明かりのスイッチを入れた。


 祐貴は言葉を失った。


 明かりの下に佇む瞳子を凍りついたように見詰めながら、仕事に出掛けた事を激しく後悔した。

 瞳子にあんな切ない顔をさせたのは、他の誰でもない、自分であると、祐貴はすでに自覚していた。


 しっかり支えてやれなかった自分の不甲斐なさを呪った。

 離れざるを得なかった状況の不運を呪った。

 湧き上がる憤りのやり場がなくて、祐貴の身体が震えた。


 たった二日足らずで、瞳子は別人のようにやつれてしまっていたのだ。




「……どうしてっ……」

 やっと搾り出した声が、乱れていた。

「どうしてあなたは、もっと自分を大切にしてくれないんですか!」


 責められるべきは自分の不甲斐なさなのに……と思いながら、裏腹の言葉が口をつく。


 初めて荒げた祐貴の声に、瞳子はビクっと身体を竦ませた。


「ごめんなさい……」

 呟く瞳子の声も震えていた。


 抱き締めようと祐貴が近付くと、瞳子は表情を凍りつかせて後ずさりをした。

「とーこさん……」

 瞳子は、いやいやをするように首を横に振った。

「お願い……私が悪いから……」


「とーこさん……?」

 祐貴が訝しんで更に近付くと、瞳子は激しくかぶりを振った。


「ごめんなさい……お願いだからっ……ぶたないで……!」

 ほとんど悲鳴のように言って、瞳子はかぶりを振る。涙の雫が光を放ちながら飛び散った。

「お願い……許して下さいっ……殴らないで下さいっ!」

 その瞳は祐貴を映していなかった。

 恐怖に支配され、瞳子はガタガタと震えていた。


 祐貴もまた混乱に逃げ込みそうな頭を懸命に繋ぎ止め、思考を高速回転させる。


 何が起こったのか祐貴にはわからなかったが、ただ瞳子は酷く怯えているのだ。

 恐怖心を取り除いてやる事が、今、何よりも必要なのだという事だけはわかった。


「殴ったりしないよ。大事なとーこさんを、どうして俺が殴ったり出来ると思うの? 大丈夫だから……とーこさん……」

 祐貴は近寄る事をやめて、ただ呼び掛ける。

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 自分を失っている瞳子は、泣きじゃくりながら繰り返す。


「大きな声を出してごめんね。怒ってないから……大丈夫だから……泣かないで、とーこさん……」

 瞳子の瞳は、こちらを見ながらも、映しているのは祐貴ではない。


「とーこさん……俺を見て。俺がわかる?」

 祐貴の必死の呼びかけに、瞳子は呟くのをやめて、光の弱い瞳を向けてくる。

「俺だよ……早瀬だよ。大丈夫、殴ったりなんかしない」

 瞳に光が戻り始めた。


「大丈夫だよ、とーこさん……。抱き締めてあげるから、おいで……」

 祐貴は手を差し伸べた。


「……あ……」


 気遣う表情。手を差し伸べる仕草――

 これまでに何度も出会った光景に、瞳子の瞳の焦点が急速に吸い寄せられた。


 祐貴にもそれがわかった。

 今、瞳子の泣き濡れた瞳がしっかりと自分を捕らえた事を感じ、一歩前に出る。

 瞳子も、おぼつかない足取りで、求める場所へと歩き出した。


 震えながら差し伸べられた瞳子の手を、祐貴はやんわりと掴む。

 そっと引き寄せて、力強く抱き締めた。






                               つづく


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