第1話 彼氏にするなら、とは言わない
「拓海さん、今日ひま?」
水瀬美月から電話がかかってきたのは、金曜日の午後7時を少し回ったころだった。相沢拓海は会社を出たばかりで、駅へ向かう人の流れに混じって歩いていた。
ネクタイを少し緩め、左手には仕事用の鞄。週末を前にした街には、どこか浮ついた空気が漂っている。
「ひまって言い方、もうちょっとないの?」
『じゃあ、お忙しいでしょうか』
「急に他人行儀だな」
電話の向こうで美月が笑った。その声を聞いただけで、拓海は自分の口元が緩んだことに気づいた。
「で、どうした?」
『奈緒さんたちと飲むんでしょ?』
「なんで知ってんの」
『奈緒さんから聞いた』
「俺を通さず連絡取るくらい仲良くなったなら、自分で奈緒に聞けばいいだろ」
『行ってもいい?』
拓海は足を止めた。横断歩道の信号は赤だった。
向かい側では、仕事帰りらしい男女が楽しそうに話している。
「来たいの?」
『うん』
「じゃあ来れば」
『やった。どこ?』
店の名前を伝えると、美月は「あとでね」と言って電話を切った。それだけだった。
拓海は暗くなったスマートフォンの画面を一度見て、ポケットへ戻した。信号が青になる。
歩き出しながら、小さく息を吐いた。こういうところなんだろうな、と自分でも思う。
美月から連絡が来る。嬉しい。
会いたいと言われる。もっと嬉しい。
だから断る理由などない。それだけのことだった。
店に着いたときには、すでに三人が座っていた。
「遅えぞ」
久保田亮介がビールを片手に言った。
「まだ7時半だろ」
「俺は7時15分に来てる」
「知らんがな」
拓海が鞄を置くと、向かいに座っていた藤崎奈緒がメニューから顔を上げた。
「美月ちゃん来るって」
「知ってる」
「あ、連絡あった?」
「さっき」
奈緒が妙な顔をした。
「何?」
「別に」
「その顔で別にって言われてもな」
「ほんとに別に」
奈緒はそう言ってハイボールを飲んだ。拓海は追及しなかった。
奈緒とは長い。言いたいことがあれば、そのうち向こうから言う。
拓海が生ビールを頼んで10分ほどすると、店員に案内されて美月がやってきた。
「お疲れさまでーす」
その瞬間、拓海以外の男二人が入口を見た。拓海はそれに気づいたが、何も言わなかった。
薄いベージュのブラウスに黒いスカート。肩まである髪は少しだけ巻かれている。
特別派手な格好ではない。それでも目立つ。
美月は昔からそうだった。本人が何かをしなくても、人の目を引く。
「美月ちゃん、こっち」
奈緒が自分の隣の椅子を引いた。
「ありがとうございます」
「大学帰り?」
「そうです。今日4限までだったんで」
「若いねえ」
「奈緒さんだって若いじゃないですか」
「27を大学生と一緒にしないで」
「俺ら全員まとめて刺されたな」
亮介が言うと、テーブルに笑いが起きた。美月も笑った。
そのあと自然に拓海を見る。
「拓海さん、何飲んでるの?」
「ビール」
「また?」
「一杯目くらいいいだろ」
「この前、健康診断で何か言われてなかった?」
「何も言われてない。お前が勝手に俺を不健康にしてるだけだ」
「お腹」
「うるさい」
美月が笑う。亮介がそのやり取りを見ながら言った。
「なんかお前ら、付き合ってるみたいだな」
拓海は反応しなかった。美月も笑ったままだった。
「ないない」
ほんの一瞬も迷わなかった。拓海はビールを口に運んだ。
別に初めて聞く言葉ではない。
「拓海さんとはそういうんじゃないから」
美月は悪意なく続けた。
「じゃあどういうの?」
別の男友達が聞いた。美月は少し考えた。
「なんだろ。親戚のお兄ちゃん?」
「誰がお兄ちゃんだ」
「じゃあ、お父さん?」
「5歳しか違わんだろ」
また笑いが起きた。拓海も笑った。
美月も笑っている。だから、それでよかった。
少なくとも、その場では。飲み会は2時間ほど続いた。
大学の話、仕事の話、亮介のくだらない恋愛話。美月は最初こそ奈緒と話していたが、途中から全員に混じっていた。
拓海の友人たちは基本的に美月を歓迎している。当然だろうと拓海は思う。
美月は美人だから、というだけではない。人見知りをしないし、年上の中で変に遠慮しない。
かといって礼儀がないわけでもない。だから連れてきやすかった。
「美月ちゃん、彼氏いないの?」
亮介が聞いた。
「いないですよ」
「マジで?」
「そんな驚きます?」
「いや、いると思うだろ普通」
「今はいません」
亮介がちらりと拓海を見た。その視線の意味くらい分かる。
拓海は焼き鳥を一本取った。
「じゃあ俺とかどう?」
「亮介」
拓海が言った。
「何?」
「お前、先週まで別の女追いかけてただろ」
「もう終わった」
「早えな」
美月が笑った。
「久保田さんは無理です」
「なんで?」
「なんか信用できない」
「会って2回目でそこまで分かる?」
「分かります」
「拓海、お前この子に何吹き込んだ?」
「何も言ってねえよ」
笑いながら答えた。実際、何も言っていない。
亮介がどういう男かは、美月が自分で見ればいい。それに、美月が誰を好きになるかは美月が決めることだ。
拓海が決めることではない。店を出たのは10時前だった。
奈緒は反対方向。ほかの二人も駅で別れた。
拓海と美月だけが同じ路線だった。改札を抜け、ホームへ降りる。
金曜の夜だから人が多い。美月が拓海の少し後ろを歩いていた。
「美月」
「ん?」
「こっち」
人とぶつかりそうになっていた美月を、拓海がホームの内側へ入れた。
「ありがと」
それだけ。電車が来た。
混んでいたので二人とも座れず、ドアの近くに立った。美月が吊り革につかまりながら言った。
「今日楽しかった」
「ならよかった」
「拓海さんの友達、面白いね」
「ろくなのいないだろ」
「奈緒さん好き」
「俺も好きだよ。友達として」
「わざわざ付けるところが怪しい」
「10年以上何もない人間を今さらどうしろってんだ」
美月が笑った。しばらく電車の音だけになった。
拓海は窓へ目を向けた。黒いガラスに二人の姿が映っている。
自分と美月。並んでいる。
亮介が言ったように、知らない人が見れば恋人に見えるのかもしれない。拓海はすぐに窓から目をそらした。
「ねえ」
美月が言った。
「ん?」
「久保田さんって、本当に女癖悪いの?」
「俺は何も言ってない」
「その答え、ほぼ言ってるじゃん」
「本人に聞け」
「やだよ」
「じゃあ気にすんな」
美月が少し黙った。それから、
「拓海さんって、私が誰かと付き合ったらどうする?」
と言った。拓海は美月を見た。
「どうするって?」
「だから……寂しい?」
軽い口調だった。けれど拓海はすぐには答えなかった。
美月がこちらを見ている。
「そりゃ寂しいだろ」
「やっぱり?」
「でも、お前が好きな奴と付き合えるならいいんじゃない」
美月が眉を寄せた。
「何それ」
「何が」
「普通、好きな人取られたら嫌じゃないの?」
拓海は少し笑った。
「取られるって、美月は俺のじゃないだろ」
美月が黙った。
「それに」
拓海は続けた。
「俺が好きだからって、お前が俺を好きになる義務ないし」
「……そうだけど」
「だから、お前が好きな奴と付き合えばいい」
そこで話を終わらせた。美月は何も言わなかった。
次の駅で大勢が降り、車内が少し空いた。二人並んで座った。
しばらくして、拓海の肩に何かが触れた。美月の頭だった。
「おい」
「眠い」
「家まで寝るなよ」
「着いたら起こして」
「俺、お前より先に降りるんだけど」
「じゃあ降りないで」
「なんで俺が一駅余計に乗るんだよ」
「お願い」
拓海はため息をついた。
「分かったよ」
美月は目を閉じたまま、小さく笑った。
「やっぱ拓海さん優しい」
拓海は答えなかった。肩に美月の重さを感じながら、流れていく窓の外を見ていた。
翌週の火曜日。拓海は仕事帰りに奈緒と二人で食事をしていた。
もともと奈緒から仕事の相談があると言われていた。話が一段落したころ、奈緒が突然言った。
「拓海」
「ん?」
「あんた、まだ美月ちゃん好きなの?」
箸が止まった。
「まだって何だよ」
「そのままの意味」
「好きだよ」
拓海は隠さなかった。奈緒には昔から知られている。
「告白しないの?」
「一回してる」
奈緒が目を丸くした。
「いつ?」
「半年くらい前」
「初耳なんだけど」
「言ってないからな」
「で?」
拓海は水を飲んだ。
「振られた」
「……そう」
奈緒が思ったより静かになった。
「なんて?」
「そこまで言わなきゃ駄目?」
「言いたくないならいいけど」
拓海は少し迷った。
「大切な人だけど、恋愛の好きじゃないって」
奈緒は何も言わなかった。
「まあ、その通りなんだろ」
拓海は笑った。
「俺だって分かってるし」
「何が?」
「美月が俺をそういう目で見てないの」
奈緒はテーブルの上のグラスを指で触った。
「だったら、なんで今もあんなことしてんの?」
「どんなこと?」
「この前だってそう。美月ちゃんが来たいって言ったら連れてきて、帰りも一緒に帰って」
「方向同じだから」
「そういう話じゃない」
奈緒の声が少し低くなった。拓海は黙った。
奈緒はしばらく拓海を見ていた。
「私さ」
「うん」
「あの子、嫌い」
拓海は本気で驚いた。
「美月を?」
「うん」
「なんで?」
奈緒が小さく息を吐いた。
「本当に分かんない?」
「分からん」
「美月ちゃん、あんたが自分を好きなの知ってるんでしょ」
「知ってるよ」
「それであの距離?」
拓海は眉を寄せた。
「何が悪いんだよ」
「悪いって言ってない」
「嫌いって言っただろ」
「言った」
奈緒は目をそらさなかった。
「付き合う気はない。でも暇なら拓海。寂しかったら拓海。困ったら拓海。飲みに行きたかったら拓海」
「奈緒」
「最後まで聞いて」
拓海は口を閉じた。
「あんたなら断らないって分かってんだよ、あの子」
「美月はそんなつもりじゃない」
「分かった」
即答だった。拓海が黙る。
「分かってるよ。たぶん美月ちゃん、本当に悪気ない」
奈緒は水を一口飲んだ。
「だから余計にムカつくの」
「何だよ、それ」
「悪気があって利用してるなら、ただの嫌な女じゃん。でもたぶん違うでしょ」
奈緒は少しだけ声を落とした。
「あの子にとって、あんたが優しくするのが普通になってるんだよ」
拓海は何も言わなかった。
「拓海なら来てくれる。拓海なら聞いてくれる。拓海なら怒らない。拓海なら自分を嫌いにならない」
「……」
「それって、あんたには結構きついことなんじゃないの?」
拓海はしばらく黙っていた。自分でも考えたことがないわけではなかった。
美月から電話が来れば嬉しい。頼られれば嬉しい。
会いたいと言われればもっと嬉しい。そのたびに、もしかしたらと思う自分がどこかにいる。
それでも翌日になれば、二人の関係は何も変わっていない。
「俺が勝手にやってることだから」
ようやく拓海は言った。奈緒が眉を寄せた。
「だから美月を悪く言うなよ」
「ほらね」
「何が」
「そうやって全部、自分で引き受ける」
奈緒は呆れたように笑った。
「そこがあんたのいいところなんだろうけど、私は嫌い」
「俺まで嫌われた」
「拓海は好きだよ」
「雑だな」
「友達としてね」
「それ、今日一番聞きたくない言葉なんだけど」
奈緒が吹き出した。拓海も笑った。
話はそこで終わった。店を出て奈緒と別れ、一人で駅へ向かう。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。取り出す。
美月だった。
『拓海さん』
その下にもう一通。
『今電話できる?』
拓海は立ち止まった。奈緒の言葉が頭に残っている。
――暇なら拓海。――寂しかったら拓海。
――困ったら拓海。画面を見つめる。
もう一度、スマートフォンが震えた。
『ちょっと聞いてほしいことある』
拓海は数秒だけ迷った。そして電話をかけた。
呼び出し音は一度で途切れた。
『もしもし』
「どうした?」
美月の声が聞こえる。それだけで、さっきまで考えていたことの半分がどうでもよくなった。
『今日さ、ちょっと嫌なことあって』
「うん」
拓海は駅へ向かって、また歩き始めた。
『長くなるかも』
「いいよ」
『拓海さん、明日仕事でしょ?』
「まだ11時前だろ」
『……ありがとう』
「で、何があった?」
美月が話し始める。拓海は黙って聞いた。
奈緒の言ったことが間違っているとは思わなかった。たぶん、正しい。
それでも。好きな女が自分にだけ聞かせる弱い声を、今はまだ手放せなかった。




