第1話 あの日へ戻る旅路
夕暮れに染まる街道。
リゼは両手で重たい荷物袋を抱えながら、一歩一歩踏みしめるように歩いていた。長く伸びる二つの影が、オレンジ色の路面を揺らしている。
すると、すぐ後ろから少年の声が聞こえてくる。
「リゼぇ……まだ着かないの……?」
リゼは歩みを止めず、肩越しに振り返る。そこには、自分の外套の裾を握りしめながら、トボトボと歩く一人の少年の姿があった。
「あと少しです。弱音を吐かないでください、先生」
「だって疲れた……お腹空いた……足痛い……魔物怖い……」
少年は、今にも泣き出しそうだった。
はぁ、とリゼの口から深いため息が漏れる。
——10年前。
17歳だった私は、王都の魔法学校で先生と出会った。
かつての先生は、大陸でその名を知らぬ者などいない存在だった。
風・火・水・地、四つの元素を司る最高位精霊すべてと契約した伝説級の術者。千年に一人の天才、『大賢者』と呼ばれていた。
聡明で冷徹。非の打ち所がないように見えて、どこか気だるげで、不真面目で——
だけど、誰より強かった。誰も先生には敵わなかった。
そんな大賢者が、今では石につまずいて転ぶ子供になっている。
「リゼぇ……」
「なんですか」
「おんぶ」
「先生。子供とはいえ、見た目は8歳くらいなんですよ? 重いです」
「えー!……ケチ」
少年は、むっと頬を膨らませてそっぽを向いた。
その幼い横顔を見つめていると、リゼの胸の奥がぎゅっと苦しくなる。
半年前、先生は突然この子供の姿になってしまった。強大な災いに巻き込まれたのか、それとも強力な呪いをかけられたのか。原因はわからない。
さらに先生の記憶も子供の頃に戻り、ほとんど失われてしまった。大賢者だったことも、どれほど強かったのかも、覚えていない。
……そして、私がどれだけ先生に憧れていたのかも。
「……行きますよ」
溢れそうになる感情をごまかすように、リゼは再び前を向いて歩き出した。
その時だった。
ぞわり、と肌を刺すような緊張感が走り、周囲の空気が一変した。魔力反応だ。——しかも、複数。
「先生、下がって!」
リゼは即座に荷物を放り出し、腰の杖を抜いた。
街道脇の鬱蒼とした森から、獰猛な唸り声を上げて黒い影が飛び出してくる。鋭い牙を持つ狼型の魔物——グレイファングだ。
その数、五体……いや、七体。知能が高く、連携しながら群れで狩りを行う魔物。
先生を守りながら、戦うには厄介な相手だ。
「ひっ……!」
少年が恐怖に顔を引きつらせ、リゼの外套をぎゅっと掴む。
「大丈夫です。私から離れないでください!」
リゼは精神を集中させ、杖の先から炎を放った。先頭の一体を爆炎で焼き払う。しかし、その隙を狙って別の個体が少年へと牙を剥いて飛びかかった。
「危ない!」
間一髪で風魔法を発動し、突進を弾く。だが、さらに死角からももう一体が迫っていた。
数が多い——
本来なら、決して苦戦するような相手ではない。けれど、小さな先生を守りながらの戦闘となると、思うように体が動かない。
「リゼ!!」
少年の悲鳴のような叫びが響く。
次の瞬間、肉を裂く嫌な音が響き、鋭い爪がリゼの肩を深く切り裂いた。
「っ……!」
熱い激痛が走り、体勢が大きく崩れる。
しまった——
視界が歪む中、一体が完全に無防備となった少年へと飛びかかるのが見えた。間に合わない。嫌だ。この子だけは。先生だけは——
「やめ……っ」
視界に涙が滲む。
心の中に絶望が影をさした、その瞬間だった。
ぶわり、と。世界そのものの呼吸が止まったかのように、空気が震えた。
ざわついていた森が、水を打ったように静まり返る。
さっきまで獰猛に牙を剥いていた魔物たちが、本能的な恐怖に駆られたようにガタガタと震え、後退し始めた。
「……え?」
リゼが目を見開く。
いつの間にか、少年がリゼの前に立っていた。
それは小さく頼りない後ろ姿。
しかし、その周囲には大気を歪めるほどの膨大な魔力が、激しい渦となって吹き荒れていた。
少年が、ゆっくりと振り返る。
その瞳と視線が交わった瞬間、リゼは息を呑んだ。
違う。いつもの怯えた子供の目じゃない。
静かで、底が見えなくて。そして——少しだけ、意地悪そうに細められた、あの頃の瞳。
「……まったく、泣き虫は変わらないな」
リゼの心臓が止まりそうになる。
「せ……ん、せい……?」
少年は小さく笑った。
懐かしい声。
からかうような、愛おしい口調。
ずっと、ずっともう一度聞きたかった、私の先生の声だ。
少年は魔物の群れに向き直ると、小さく片手を天へと掲げた。
『我が呼び声に応えよ』
紡がれるのは、並の術者では発音すら不可能とされる、古代語詠唱。
少年の頭上に、幾重にも重なる巨大な魔法陣が瞬時に展開されていく。
魔物たちが狂ったような悲鳴を上げ、夕暮れの空が真っ赤な血の色に染まる。大気が悲鳴を上げるように振動した。
リゼはただ呆然と、その小さな背中を見つめることしかできなかった。
『——来い。《 火蜥蜴 》』
轟音と共に、空間を割って巨大な炎の幻獣が顕現した。
国一つを容易く焼き尽くせる伝説級の召喚獣。
それが、子供の姿をした先生の隣で、畏怖を込めて静かに跪いている。
「——焼き払え」
冷徹な一言。
次の瞬間、爆発的な炎が夜の帳を飲み込んだ。
グレイファングの群れは、悲鳴を上げることすら許されず、一瞬にして光の塵へと姿を変える。
——圧倒的。理不尽なほどの蹂躙。
これこそが、世界最強と謳われた大賢者——ユノ・クロウの真なる姿だった。
嵐のような炎が収まり、静寂が戻る。
戦いが終わったその瞬間、ユノの身体からフッと力が抜け、ふらりと倒れ込んだ。
「先生!?」
リゼは痛みを忘れて駆け寄り、その小さな身体を慌てて抱きとめる。
腕の中で、ユノはきょとんとした顔でパチパチと瞬きをした。
「……リゼ? なんで泣いてるの?」
戻っている。いつもの、何も知らない子供の先生に。
「もう……もう……っ」
張り詰めていた緊張の糸が切れ、安堵と愛おしさで涙がボロボロと溢れて止まらなくなる。そんなリゼを見て、ユノは困ったように眉を下げて笑った。
その表情は、かつての先生のようでもあり、子供のようでもあった。
「……先生、ずるいです」
「え?」
「私が、先生をちゃんと、元の先生の姿に戻しますから……!」
ユノはどういう意味かわからない様子で、腕の中で不思議そうに首を傾げている。
リゼは溢れる涙を袖で拭いながら、小さなユノの身体を強く、強く抱きしめた。




