第八十二話「誘惑」
「私にしませんか?」
結月は凛の胸の中でその言葉を聞く。
はじめは理解が追いつかなかった。
「朔のことは忘れて、私にしませんか?」
結月はどうしていいかわからず、胸の中で聞き続ける。
いつの間にか涙は止まっていた。
凛は結月が落ち着いたのを見ると、そのまま結月を押し倒した。
「──っ!」
結月は突然の出来事に赤面する。
「私は結月さんが好きです。朔の婚約者になったあの日、突飛な子が来たと思いました。しかし、次第にあなたの真摯な態度や行動に惹かれました。朔に一途に、ひたむきに心を寄せるところもかわいらしく、好きです」
凛は片方の手で結月の両手を押さえながら、片手でゆっくり頬をなでる。
「なんで朔のことが好きなんだろうって何度も思ったよ」
凛の細く長い指が、結月の唇をなでていく。
「俺じゃだめか? 結月」
「──っ!」
結月の鼓動は激しくなり、凛の言葉に翻弄されていた。
「俺の気持ちは抑えようとしてた。幼なじみの婚約者だし。だけど、無理だ。悲しんで苦しむ君の姿をもう見たくない」
「凛さん……」
その瞬間、ふすまが一気に開く。
廊下には朔の姿があった。
「朔っ!」
「朔様っ!」
朔は結月の上にかぶさる凛を見て状況を確認すると、二人の傍に近づく。
「凛」
一言幼なじみの名前を呼ぶと、凛を起き上がらせ、殴りかかった。
「──っ!」
「朔様っ!」
朔は結月のもとに近寄ると、結月を抱きかかえ、部屋を飛び出した。
廊下をすたすたと歩く朔。
「朔様っ! おろしてください!」
結月の声に耳を傾けない。
やがて、朔の自室に着くと、結月をゆっくりと畳におろした。
「あの……なぜ……」
「なぜ抵抗しなかった」
「え?」
「お前は凛が好きなのか?」
「違います! 私は……」
「私はなんだ」
結月の脳内に朔と侍女の口づけの場面が思い出される。
(朔様の想い人は、あの侍女の方……ならば……)
「はい、私は凛さんが好きです」
「……そうか、それは邪魔した。出て行っていいぞ」
「…………はい」
結月は朔の部屋を出て、自室に戻る。
「う……うぅ……」
自然と涙が出た。
結月は経験したことがないほどの胸の痛みに襲われる。
涙を拭うその腕には、抱きかかえられた朔のぬくもりがまだ残っていた──
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