アンジェリク・その3
エティエンヌはアンジェリクの手厚い看護のおかげで徐々に回復していった。
ぼくは、まだエティエンヌのそばに近づこうとはしなかった。部屋の前をこっそり、彼に
気付かれないように歩いたりした。時々、アンジェリクの楽しげなおしゃべりがドアの隙間
から漏れてくると、覗いてみたくなったけど、エティエンヌと目が合うのが怖くてやめた。
しばらくすると、二人の笑い声が部屋から聞こえてくるようになった。あんなふうに、僕
といる時、エティエンヌは笑ったりしなかったのに。という思いが僕の胸の奥をしめつけた。
アンジェリクのピアノと歌にもどことなく、以前とは違う艶が出るようになってきて、短く
なってしまった彼のステージを残念がっていた人達にも新鮮な喜びをもたらしていた。
「トマ、いよいよアンジェリクは彼に夢中だぞ。」
とイヴが皿洗いに忙しい僕の横にきてそう囁いた。
「そのようだね。部屋でもいつも楽しそうだよ。あんなエティエンヌ、見たことなかった。
アンジェリクはとてもチャーミングだから。だから、だからさ・・・。」
と皿洗いの手を止めずにいっていると、知らない間に僕の頬に涙が零れ落ちていく。
イヴはそれに気づくと、僕に皿洗いをやめさせ彼の部屋につれていった。
そして、僕を長椅子に座らせて、自分も僕の横に座った。
「もういい加減、自分に素直になったらどうだね?エティエンヌに会おうともしないそう
じゃないか。」
「だって、僕には、そんな資格ないからだよ。僕は彼を裏切ったんだ。彼の元恋人と彼を
裏切ったんだ。彼は純粋で誇り高い人だよ。だから僕を許したりはしない。」
それだけいうと、ますます泣けてきて涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった。
「ほら、顔がぐしゃぐしゃだぞ。」
とイヴがハンカチを貸してくれた。そして、
「前にもいったが、じゃあ、何故彼はあんな体で君を探し出したんだ?」
「探し出したって、エティエンヌが?」
「そうだよ。診療所もしめて毎日、君の家の前で君が現れるのを待っていたそうだ。そして
ほら、一度荷物を取りに帰ったことがあっただろう?あの時に私達をつけてきていたんだ。
それと、私達は君のお母さんの友達とも連絡をとりあっている。」
「ヴァンサン?」
「心配していたよ。だが、お母さんから目が離せない状態で、身動きがとれないそうだ。」
「ママ・・・。病気なの?」
「心の病だ。自殺を何度も繰り返しているらしい。」
「なぜ?ギリシャにいったんでしょ?僕のパパの国に。それも突然に。その時の恋人も僕も
投げ捨てて、一人でギリシャにいったんだよ?もう一年以上になるよ。ママにあってないの。
僕はママに捨てられたんだ。」
「それには、訳があるんだ。」
「どんな?」
そう聞くと、イヴは少し言いよどみ、僕の肩を引き寄せ抱きしめながらしばらく黙っていた。
「あまりにも激しい恋に落ちることは災難と同じじゃないかと思う時があるよ。その愛のせいで
その人が苦しんでいるようにしか見えない時があるからね。だが、人は恋に落ちる。誰かに恋焦
がれる。幸せな恋をする人もいるさ。でも時に苦しみ、不安、それに、情欲が駆り立てる我を忘
れる混乱の只中に突き落とされる人もいる。あまりにも深く熱すぎる恋情はとても厄介だ。」
とイヴは空中をみつめながらいう。
「それとママとどういう関係があるの?ママは確かに、パパに捨てられて自殺未遂をギリシャで
おこした。でも、僕がおなかにいるって知って、とても喜んで生きる勇気を取り戻したってきい
てるけど。」
「そう。君に恵まれた事で君のママは生きていく力をもてたんだ。だが、子供はどんどん
成長する。そして、その子は自分がどうしても忘れる事のできない人に日々似ていく。心の
傷が少しずつ、開いていったんだ。」
僕は、頭を殴られたような気分になった。僕は茫然としてイヴをみつめていた。
「トマ、お母さんを恨んだりしてはいけないよ。」
そういうイヴの言葉と同時にドミニクの言葉が僕の中で鳴り響いた。
『怯えてた・・・』
「ママは僕に怯えてたんだ・・・」
と僕は震えながらつぶやいた。イヴが慌てたように僕の肩をさらに強く抱き寄せ、僕の震えだし
ている手をもう片方の手で握りしめてくれた。
「ママを怯えさせたのは君ではないよ。トマ。君のパパとの激しすぎた恋のせいだ。」
そういって僕を慰めようとしているようだったけど、イヴの話す声がどんどん遠くになっていく。
ただ、僕の心臓にナイフが突き刺さってドクドクと血が流れているイメージが僕の頭の中で旋回
していた。
その夜、僕はイヴとアンジェリクに両側から支えられて帰路についた。
アンジェリクは食事を用意してくれたけど、喉を通らなかった。イヴとアンジェリクが何か
僕に言ってるようだったけど、それも聞こえなかった。ただ二人が心配そうな顔をしている
事だけがわかった。
その日から、僕は、部屋から出られなくなった。一人、部屋の隅で膝を抱えて過ごした。
ある夜、窓に冬の到来を告げる初雪がみえた。
僕はそれをぼんやりと眺めていた。すると、部屋の扉が開く音がした。
アンジェリクがまた食事を無理やり食べさせにきたのかと思って、僕は膝に顔を押し付けて
眠っているふりをした。
そして、アンジェリクにたたき起こされると思って身構えていると、その人物は僕の前に
坐ったようだった。僕が不審に思って顔をあげると、エティエンヌがそこにいた。
「トマ、会いにきてくれないから、私から来たよ。」
と、優しい笑顔を湛えてそういった。




