第四話 風呂と時間
新菜は浴室の鏡に写った自分の左腕を見た。今はバンドを外している。
「つけっぱなしも不衛生だし、って思ったけど、いざ外してみると暴発が怖いわね」
ナイロンタオルを泡立て、左腕から念入りに洗い始める。暴発の危険を押してまで外したのだ。それに見合うだけきっちりしなければ。
固い腕に締まった胸元から腰、細い足と順繰りに洗っていく。小さな頃から上にばかり育って、脂肪どころか筋肉もつかない。空手をやる上でも筋力不足は響き、食事にタンパク質を増やしてもらったりしたがあまり効果は実感出来ていなかった。それでも、習い始めに体重がさらに落ちていっていたのに比べれば、遥かにまともな体つきになってきている。
――一応標準なのよね、これでも。下限ギリギリだけど。
超能力がどんな影響を見せるのかわからないが、食事は三回きっちり取ろうと思う新菜だった。
風呂から上がり、短い髪を乾かして、本を読んで携帯をいじっていた新菜は、時計が十二時を回った頃、床についた。
比較的早くまどろみの向こうへ落ちて二時間。
「ほんとに寝なくていい、って言うか寝れないのね」
ぱっちり目が醒めた新菜は、枕元の時計を見て思った。
そのまま寝返りを打ちながら布団の中で静かにしていたが、やがてなにもしないで布団にいるのに耐えられなくなり、のっそり起きだして観念したように机に向かう。
読書灯の下で机にぐたっと上半身を預けながら、新菜はどうしたものかと考えこんだ。
――春休みの宿題でも終わらせとこうかしら。
始業式まであと数日ある。明日から一日一教科終わらせて新学年を迎えようという算段を捨てて、新菜は鉛筆を走らせ始めた。
「……よく考えたら明日は一日潰れるじゃない」
途中、算段が崩壊していた事に気づいて手を止めた新菜は深くため息を付いた。
――ま、修正効くうちに気がつけてよかったかしらね。
新菜は気を取り直してプリントに目を落とした。
学年が変わるため、宿題の数はそう多くなく、深夜四時にはすべてが終わった。
しかし、まだ起床時間まで三時間ある。
「端末まだ触ってなかった」
新菜は本棚に置かれたビニール袋から、端末とパッケージを取り出す。
箱には日野電子社製の一般に出回っているスマートフォンの型番が書かれており、一見すると正規品だ。
が、箱を開けた途端に新菜は愕然とした。
――説明書が手書きって……。
本来端末が入っているであろう蓋を開けたところにあるくぼみに、四つに折った小さな紙が入っており、そこにはフェルトペンで書いたような「改造端末使用説明書」という太字の表題。その下には「改造・剣野灯」とわざわざ書いてあった。自意識過剰なのか生産者責任を追うという意図なのか、ともかくこの端末が、日野電子社のスマートフォンを剣野灯なる人物が改造して作ったものだと嫌でもわかる説明書だ。
取り出して開くと、スイッチの入れ方、搭載機能、諸注意、「異常時の連絡は土地の元締めに」という趣旨のQ&A等が書いてある。各項目はかなり簡潔だが、そもそも機能が通話とメール、グループ通話と簡易チャット、連絡先登録機能と動作モード・設定程度しかないらしく、使うのに困りそうな雰囲気はなかった。
――肝心のスイッチが入れられれば、だけど。
スイッチの入れ方は、下部のホームボタンに親指を乗せ、パワーを込めると書かれているが、そもそもパワーとは何なのか、いまいちわからない。
――力って超能力よね。でもあたしが超能力を使ったら爆発するわけだし、超能力を使うのに必要なのはバイタルって紬は言ってたし……
諸々考えあわせたが、そもそもバンドをしていれば危険はないと紬は言っていた。具体的なことは開けて今日の午後に聞くとして、とりあえずスイッチが入るか試す程度は問題無いだろう。
新菜がホームボタンに親指を当て、力を込めてみようと考えると、すぐに端末の画面がバックライトで淡く光り、初期化処理が始まった。
作動する瞬間に背筋に嫌な寒気が走るのは、バンドを巻く時と同じだった。超能力に関わる物を扱う場合の身体の反応なのだろう。
――超能力って、案外自然と扱えるのね。
ふと思い、そもそも今起きていられる事が既に超能力の恩恵だと思い出す。紬は自然と身構えるようなものと言っていたが、確かに自然に起きだしているという事は、図らずも超能力を使っている事になる。新菜の平均睡眠時間は七時間だったのだが、新菜は紬の話通り二時間で目を覚ました。超能力のおかげで生活時間が五時間伸びる事になる。
「千五、六、七、八百二十五時間……だから……えーっと七十六日分……」
一年で何日分時間が増えたか計算してみて、想像以上の効果が出る事に気づく。
「そりゃこんな物も用意できるわね。自由な時間が年に二ヶ月以上もあればなんでも出来そうだわ」
言葉の割に、新菜の顔はのほほんとしていた。
結局、新菜は電波状態を確認してから一通り弄り倒してみて、使い心地が自分の携帯と大差ないことを確認してから、端末を財布の類を入れる引き出しにしまった。これで、出かける時は大体持っているかチェック出来る。
空が瑠璃色から白い光の濃さを増してきた頃、新菜は時間つぶしに限界を感じ、早く起きたという体で部屋を出る。
とりあえず電気をつけて、居間のパソコンを立ち上げて時間つぶしの方法を探る。
――図書館にでも通おうかしら。
幸い時間はたっぷりとある。足りなくなる心配はよほどの事がない限りしなくていい。
――これで、もう少し自由が聞けば言うこと無いんだけどね。選択肢が増えるし。
起き出してきた母親におはようを言いながら、新菜はため息を付いた。
第四話となります。次回更新は12/02予定です