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カルテに書けない よもやま話  作者: いのうげんてん
6章 私の医療あり方論
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<2-2> 『ターミナルケア』 その2 ハードとソフト

<2-2> 『ターミナルケア』 その2 ハードとソフト 神奈川県保険医協会講演録


⑧ ハードとソフト 


挿絵(By みてみん)

      ホスピス病室


 緩和ケア病棟のハード面は今まで話したような感じです。つまり部屋の大きさは1ベッド当り8平米なければいけません。大体6人の大部屋を3人で使うという感じでとらえてくださると、およその見当はつくかと思います。個室は全体のベッドの半数以上なければなりません。例えば20ベッドでしたら、10ベッド以上なければいけません。それに家族控室とか談話室が備えられている事というような、ハードの面からの規定があります。更にマニュアルがないといけないといういろいろな条件があります。


 しかし本当はハード面よりソフト面、ホスピスマインドという言い方で表現しますが、ソフト面を大切に考えるべきだと思うのです。別にああいう施設がなくとも普通の病院でもホスピスマインドを実践することはできます。あるいは前線の診療所やいろんな所でできないことはないと思います。そのソフト面についてお話します。


 ソフト面は4つあると思います。


 そのうちの一つに、まず基本的にこういう考え方を持たなくてはいけないという原則があります。それは延命への挑戦という考え方ではいけないというものです。少しでも生かそうと、今の医療は、1分でも2分でも、1秒でも長く生かそうとしますが、死は敗北という発想ではいけないのです。死は決して敗北ではないのです。


 人間は生きて死んでいくというのが自然の摂理ですから、死も一つの摂理としてとらえようではないかという考え方を、基本に持たなくてはいけないと思うのです。そうでないと、どうしても最後になって延命延命というふうになって、あわてて気管切開したり、人工呼吸器につないでしまったりします。ですから、考え方の基本として中にいる医療者は勿論のこと、患者さん・家族にしてもそういう考えを持っていないとホスピスのケアはやっていけないと思います。


⑨ あるがままに


 これは一つの例ですが、38歳の女性であります。下行結腸ガンでしたが、この人は宗教がありましたので、治療を全然しなかったのです。手術をすれば最初の時点では助かったのでしょうけれども、新興宗教でしたので特殊の考え方がありました。一切人工的なことはしたくないと言われて、時間が経つにつれて大きくなりまして、腸閉塞を起してきて最後に私どものホスピスに入院してきました。


 最後まで「点滴はしたくない。まさに自然に生きたい」と言われます。極端な例ですので、私の言っていることと少し違うのですけれども、ここに一例としてあげさせてもらいました。ところがだんだん衰弱してこられまして、意識がなくなりましたら、今度は家族の方が点滴をしてくれということになるのです。非常に興味深いのは、本人はいやだと言っていても、本人の意識がはっきりしなくなりますと、家族が注射をしてくれといって、最後まで本人の意思がつらぬかれないことが多いということは、現場にいる医療者のみなさんはご存知だろうと思います。


 本人の意識がなくなって、家族が「もう少し生かしてくれ」、「息子が遠い所にいる、だから到着するまでなんとか生かしてほしい」と家族は言ったのです。それで家族が願うならば「そうしましょう」と、イノバンを点滴の中へいれて点滴を開始しました。そうしましたら、又血圧が上がってきまして本人の意識が返ってきたのです。本人はびっくりしまして、「何をやっているのだ。点滴はするなと言ったではないか。だから抜いてほしい」と懇願しました。その人は点滴を抜きまして、安らかに亡くなられました。極端な例ですが、私には強烈な印象として残っています。死というものを自然の摂理として、このようなとらえ方をすることもあるのだということで一つの例として、話させてもらいました。


⑩ インフォームドコンセント


 ニ番目は今、新聞などで、インフォームドコンセントとか、インフォームドチョイスという言葉が報道されていますが、これは充分説明を受けた上で本人の合意を得るということ。一方的にこうしましょうというのではなくて、充分説明をして本人の合意を得た上ですべてやりましょうという意味であります。アメリカでは患者の権利意識がものすごく強いですから、インフォームドコンセントは当たり前のようになっています。日本ではこのインフォームドコンセントということがホスピスでは言われていますが、アメリカは普通の医療でも、検査でもインフォームドコンセントをしなければいけないような現状であります。それが当然と言えば当然なのですけれども、そういう一例をお話しましょう。


 76歳の男性で胃ガンでありました。この方は尊厳死を希望しておられまして、「何もやってくれるな」ということでした。だんだん枯れるようになってくるのです。今は枯れるように死んでいくのがいいのではないかという事が「死の臨床」のところでは言われ始めていますが、もう少し点滴したら楽になるのではないかと思ってしまうのが医者の考え方なのです。ずっと食べられないので餓死していくような様を見るにしのびないという気持ちで、患者さんに「点滴をしたら楽になりますよ」と言うのです。


 しかし、この人はわりと頑固な人で「やりたくない。私は尊厳死がいいのだ」と言います。回診する度に1本の点滴をするのに3日間本人と話し合いました。家族はいませんでしたので本人との交渉でして、1本の点滴をするのに3日間かかりました。そうして本人がやってみると、「なるほどこれは楽だ。点滴をすると最後の脱水状態とか、身体のだるさの面で楽になる」ということが分かって暫くやられました。


 食べられるようになって点滴は中止しましたけれども、普通の治療病棟でこのような事をしていたら手遅れになりますので、ドクターの一方的な判断で点滴をやります。ホスピスケアにおいては、本人が納得して合意してくれたときに初めて点滴をするのだというので、1本の点滴をするのに3日間本人と話し合い、説得してやるというような、非常に手間のかかると言いますか、そういうケアが必要になってきます。


 私は最近、真のインフォームドコンセントというのがあるのだろうかと思っています。恐らくみなさんもそう思っておられるかもしれません。これは、もともと医療訴訟の多いアメリカで、後で訴えられないための手法として出てきたものですから、インフォームドコンセントが日本人において本当に成り立つのかどうか疑問です。


 なぜかと言いますと、たとえば患者さんにいろいろな治療法を説明して、「どうしますか」と言ったときに「お任かせします」、というのが殆んどなのです。「これはしてください。これはやってくれるな」といういわゆる本人の選択は日本人は殆んどしないのです。あるいはできないのかも知れません。「先生にお任かせします」というのが、殆んどの状況です。


 一方インフォームを与える側のドクターはどうかと言いますと、自分の主観をどんどん出すわけです。一つの例をとりますと、胆石などは切った方がいいと外科のドクターは考えます。内科はなるべく切らないで何か悪さをしたときでいいでしょうといいます。インフォームする側にも見解の相異があります。ドクターの専門によって言う情報が違います。受ける側も又そいう状況ですから、果たして両者のところで真のインフォームドコンセントが成り立たせられるだろうかと非常に私は疑問を持っています。そこで考えたのがキュァ・アンド・ケアという方式なのです。私どものホスピス病棟ではそれを実践しています。


⑪キュア・アンド・ケア方式


 キュアはドクターの専門分野、ケアはクウォリティ・オブ・ライフ、つまり生活の質の専門家であるナースの分野だということで、両方が合意をしてやろうということです。ですから、ナースは患者の代弁者だという考え方です。


 普通はどこの病院でも治療病棟ではピラミッドです。ドクターが一番トップにいて、その指示のもとにナースが動いていくわけです。ところがホスピスはケアが優先され、ケアが主体であるならばそれと同じではいけないということで、キュアとケアを平行にしてやろうと、横並びで両方の合意でやっていくことを考えたのです。患者さんにいろいろ説明しても、「お任かせします」と言うのならば、もっと医療を理解して患者さんのことをよくつかんでいるナースと話し合おうということでキュア・アンド・ケアということを考えたのです。


 例えば点滴をするのに、「あの人に点滴をすべきかどうか。化学療法をするときにそのマイナス点はどうだろうか」話し合います。ナースが患者の代弁者となって、「IVH (完全静脈栄養)をすれば生活に制限がくるのではないか。外泊ができなくなるのではないか。お風呂に入りにくいのではないか」などと、生活の質の面でナースが反論をするのです。ドクターは生理学的に考えるのです。「栄養が不足してこういう状況だからやった方がいいのではないか。それをやったためにこういうことも起り得る」など、両者で議論し合い、やった方がプラスになるときにはやろうということです。これも非常にひち面倒くさいやり方なのですが、そういうことをしていくのがホスピスケアだということで現在もやっているわけです。


⑫日本型ホスピス


 私が3年間ホスピスをやってきましたけれども、その中で日本独特のホスピスというもの、それを日本型ホスピスと言っていますが、日本人に合ったホスピスというのが必要ではないかと感じているわけです。


 その一番目でどうしてもホスピスというのが有名になればなる程、死に場所というイメージがついてきます。どこのホスピスも同じことがあるのです。数年経つと、あそこへ行くと死ぬという、死に場所という暗いイメージ。日本人にとっては死というのは非常に暗いです。「4」という番号をつけないとか、死という言葉に暗い響きがあります。死に場所というイメージがつくと、途端に生きたがらないというか、入りたがらなくなります。病院で治療を受けて、ホスピスの適用になった人自身が、そこへは行きたくないという現象が起きてくるのです。


 これではなんのためにホスピスをつくったのかということですので、そのイメージからどう脱却するかが課題です。死に場所でなく、健やかに最期を生きる場所だというイメージでホスピスをとらえてくれたらいいのですが。あそこへ行くと最後だから行きたくないというようなマイナスイメージからいかに脱却するかという方策が必要だと思います。


 日本人の考え方がそうだからだと思います。アメリカに行ってホスピスを研究している先生に話を聞いてみますと、アメリカ人というのは割とあと2 週間でダメだとなったら退院していくと言うのです。そういう人が多いようです。ドクターにしても、「あなたはもうやることありません。だから退院するか、ホスピスヘ行かれた方がいいですよ」と言って、そこへ行かせるという、割とドライなものだと聞いています。ちなみにホスピスの数は、日本でホスピスと言い得る施設は14カ所です。イギリスではその10倍位あるようです。この間の「死の臨床研究会」でたしか150 ~160 と言っていました。アメリカは1,700 カ所位です。


*追記)

緩和ケア病棟入院料届出受理施設:380施設 7905床(2021年11月1日現在)

出典:https://www.hpcj.org/list/relist.php#hokkaido



 二番目は宗教の扱いです。宗教者の方に失礼かもしれませんが、宗教も一つの救いの手段として使ってみたいと思います。ホスピスそのものが宗教をバックにして歴史的に来ています。現在の日本でも、その6分の5の施設に宗教がバックにあります。なんとか宗教をホスピスの一つの精神的なケアに使えないだろうかというのがテーマであります。


 日本人の信仰は重層信仰と言うらしいです。正月は神社に参って、お盆はお墓参りをして、クリスマスではキリスト教の歌をうたっています。宗教があるのかないのか分からない。それを重層信仰と言うらしいです。そういう日本人にとっての独特の宗教観、あるいはそれをうまく利用できないだろうかというのが一つのテーマです。会堂で説教していただいて、イヤホーンで聞いて、本人が納得し興味をもって、本人が宗教をぜひ聞いてみたいとなったら、直接その説教者に話を聞くというような方法を考えたのです。


 私が3年間やってきて、関心をもたれて宗教的な悟りを開かれた人はどの位いたかなと思いますと、殆んどいなかったような気がします。一人洗礼を受けたいという人がおられました。もう一人はお坊さんから話を聞いてお坊さんにみとられて亡くなられた人がおられました。その2人位です。


 この間接的な方法、これを私たちは宗教的インフォームドコンセントという言い方をしています。全てホスピスではインフォームドコンセントでいくのだから、宗教だけがインフォームドコンセントではないというのはおかしいという考え方で、あくまで情報提供して、本人の自発的な意志で宗教を本人が選ぶという、宗教もインフォームドコンセントというものをつらぬこうという考え方でやっています。


 しかしそれだけでは何か弱いような気がします。この3年間で2人位の人にしか宗教的な関心をもたれなかった。しかしスタッフの中ではそれでいいのではないかという人が多いです。日本人の信仰は、先程の重層信仰だから、日本人の死に方というのはそういうものではないでしょうかというのが、我々のスタッフのおおよその意見です。


 私の個人的な感じではもう少し強く、たとえばお坊さんがずっとベッドを回診するとか、僧衣を着て回ると縁起がよくなくていやだというかもしれませんから、白衣を着て回るとか。牧師さんがチャプレンとして病室をずっと回るとか。もう少し人間的ふれ合いがないと患者さんも打ちとけてくれないのではないか。イヤーホンだけで聞いていて、牧師さんに告白する気持ちが出てくるかなと思うと、少し弱い気がして、もう少し積極的にすべきではないかと今ちらっと思っています。


 三番目に本人が望めば治療も行いましょう。アメリカではホスピスは本当の意味の死に場所です。治療する余地はありません。苦痛をとってケアをしてくれる所へ移りなさいという感じなのです。日本人は決してそういう所へは行きません。最後まで逆転ホームランを願うという感じがあります。最初のところで3年間フォローした方をご紹介しましたが、あの方も、こちらがやらなくてもいいのではないかと思うくらい、「最後までやってください」という感じです。苦痛は与えてならないですし、QOL という先程の生活の質を落としてもいけないですけれど、それが保てるのなら最後まで治療もやりましょうという考え方と言いますか、そういうふうなものでないと日本人の要求に応えられないのではないかと思います。


(1991年12月)


〈つづく〉



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│いのうげんてん作品      

│               

│①著作『神との対話』との対話

│ 《 あなたの人生を振り返る 自分の真実を取り戻す 》

│②ノンフィクション-いのちの砦  

│ 《 ホスピスを造ろう 》

│③人生の意味論

│ 《 人生の意味について考えます 》

│④Summary of Conversations with God

│ 『神との対話』との対話 英訳版

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