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カルテに書けない よもやま話  作者: いのうげんてん
6章 私の医療あり方論
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<1-2> 『患者中心の医療-ホスピス』 横浜市民講座講演録 その2 医療の三つの柱

 私は常々、「患者中心の医療」を声高に叫んでいます。


 私のいう「患者中心の医療」は、三つの柱から成ると思っています。

 

 「人間医療」、「自然医療」、「社会医療」の三つの柱です。これらは勝手に私がネーミングしたものですから、辞書を調べても出てこないと思います。


 その内容を少しお話しします。



〓人間医療〓



 人間医療とは、どういうことか。これは大体お分かりになるかと思いますが、患者さんの人間性とか個性を尊重しようというのが「人間医療」です。

 

 どうしても病院というところは「3時間待ちの3分間診療」などと言われて、流れ作業になるんです。これはもうマスプロというか大量生産方式です。サーッとやらないと終わらないという制約があるから、そうなってしまうことは止むを得ないかもしれません。

 

 けれども、大量生産方式でやっていますと、患者さんを一人の「人間」と見ないで、「物」と見てしまうという習性が、知らず知らずのうちに医療者にはついてしまうのです。

 

 私の知り合いが(医療者ではないのですが)、私の勤めていた病院に入院した時に、「お前の病院は、なんという病院だ」と、びっくりして言いにきました。

 

 何がそんなに驚いたかといいますと、入院したと思ったら、看護師さんがパパッと来て、彼のパンツをサッと下げてね、局部をポッと持って、導尿っていうんですが、管をチョッチョッと入れて、チューブとパッと繋いだ。これにはびっくりしたというのです。

 

 一般の社会ではそんなことは許されないでしょう。パッパッと来て人のパンツを下げるなんてね。こんなことやられたら、皆さん警察に訴えるでしょう。

 

 ところが、それが当たり前のようにどこの病院でもやられているんです。それは、いけないという意味より、相手は物じゃないんだ、同じ人間として恥ずかしさもあれば、恐怖心もあるから、一言「こういう意味で、こんなことをやりますよ」という説明があれば、安心、納得できるのです。

 

 しかし、忙しくてそういう時間がないと、パーッと来て、パッパッパッ、ハイ、という感じになってしまうんです。

 

 そんなことをその知人が言っておりましたのを聞いて、確かに医療者として、「人間医療」は大切なんだなというふうに思ったのです。

 

 あるいは外来診療ですね。やっぱりそれも流れ作業でしょう。次から次へこなさなきゃいけないんです。そうすると、風邪ひいた、肺炎かなと、胸を聴診する。そういう時など、

 

「ハイ、胸開けて!」


と、こういきますね。すると、大体中年の人とか、人間を長くやっている人は、こうバーッと胸を開けて下さいますけれど、若い人はちょっと恥ずかしそうな顔をして、ためらいます。


 そういうのを見た時、私は、


「ああ、いいですよ、脱がなくても。ブラジャーはとらなくて、ちょっと下着だけ上げて下さい」


 医学の教科書では、そんなことはやるなと書いてあります。しっかり診ないといけないという教えなんです。しかし、やりにくいけど、私達がちょっと努力すれば、ブラジャーの下からもぐらして聴診するとかやればできることだと思います。ブラジャーしたままでは絶対駄目だよということではないんです。

 

 ただ、そんなのがあると面倒なのは間違いありません。何もなきゃパッパッで終わるのが、こっちから入れたり、あっちから入れたり。時には、ブラジャーがきつく締めてあると聴診器が抜けなくなってしまうこともあったりします。

 

 面倒臭いという思いはありますが、相手が人間だと思ったら、相手の顔を見てね、ちょっと恥ずかしそうな顔をしていたら、「ああ、いいですよ、それならこれで結構ですよ」と、そういうふうにやってあげる。それも一つの、人間性を尊重することになるんじゃないかと思います。

 

 それと、外来で私達は、患者さんも背もたれのある椅子を使っています。普通皆さんが行かれた病院では、患者さんには丸椅子、ドクターには背もたれが付いて、いかにも仰々しい威張ったような椅子が置いてあります。

 

 私達はそういうことはやめようと考えました。同じ人間なんだから両方とも背もたれのある椅子を使っています。


 非常勤で外から来る医師はその意味がちょっと分からないので、

 

「こんな背もたれがあると、背中を診る時に見にくい」


と言って怒るんですけれど、そんなこともないんです。ちょっと手を延ばせばいい訳ですから、決してそれはやりにくくはないし、聴診が不正確になることもないのです。


 患者さんを人間と見るというちょっとした気づかいが、私達は大切なことだと思ってそういうようなことをしております。

 

 それが私のいう「人間医療」なのです。



〓自然医療〓



 次は「自然医療」です。


 人間が、神からもらったー神からもらったと私は思っていますけれども、自然からもらったでもいいですが、その自然の生理にかなった生き方をする、つまり体には体の一つの原理というか、生理があるんですね。その生理に適ったように生きていくことが本当の意味の健康であるし、病気にならない秘訣でしょう。

 

 ですから、医学が今、治療、治療というように治療医学に走っていますが、本当はもっと、人間が生まれ持った命を、健やかに営ませていくためにどうしたらいいだろうかという生理学あるいは自然医学っていう研究が必要なのです。

 

 胎内にいる時にどういうことをしたら、健やかな出産で健康な子供を産むことが出来るかとか、あるいは子供の時にどういう生活をし、どういう食事をしたら、大人になってから病気になったりしないか。また大人になってからも、どういう生活をすれば健やかな老後を過ごせるかという、そういう、自然の生理に適った医学というのが、私は大切であるというふうに思います。

 

 それを「自然医療」といっているのです。

 

 さらに、誰しも人間は死んでいくのですから、健やかに死んでいくための医学という「死の臨床」ということも、医学の非常に大切なテーマじゃないかと思うんです。

 

 今までの医学というのは、死とは医学の敗北だというような考え方をしていたんですね。つまり、医療は病気と医者の闘いで、患者さんが死んだら医者は負けた、医学は負けたというような、死は医学の敗北であるというような考え方をしておりましたけれども、はたしてそうだろうか。

 

 もちろん、患者さんが若い人であればそうでしょうが、歳老いて死んでいく場合、あるいは癌患者さんの終末期の時においては、そういう死の臨床ということも、研究されなければならないと思うのです。

 

 それを具現化したのがホスピスなのです。ホスピスというのは、先ほども言いましたように、患者さんの生活の量より質を大切にするところです。点滴をしたり、酸素をやったり、おしっこの管を入れたりして、ただ延命するということは目指しません。スパゲッティーのようにいっぱい管がからんでいるースパゲティー症候群というんですが、ホスピスでは極力そういう状態を作ることを避けます。

 

 本当にこの人が治るという時はもうスパゲティーであろうが、はるさめであろうが、うどんであろうが(笑)なんでもいいんです。どんどんやっていく。しかし、もうこの人は先が見えている、もうこの人は治りませんという時になっても、管だらけにしているのは、いかにも非人間的だと思います。だからそういう時は、死も一つの生命の摂理であるととらえ、健やかで安らかな死を迎えていくための医学を私達は研究しなければいけないのです。それが医療者の努めだと思います。

 

 ホスピスは、そういうことを目指しています。治療して治してほしいという人ももちろんいます。それもやりますけれども限界があります。苦痛とか悲しみの中にある時に、白い壁で囲まれた病室に独りいて、心はやすらぐでしょうか?

 

 やっぱり家族が来たり、時には家へ帰ったりした方が、短い最期の時には有意義になるんですね。そういう風に過ごさせてあげたいというのがホスピスの精神です。それが私の言います「自然医療」ということなのです。



〓社会医療〓



 三番目は「社会医療」です。

 

 人間というのは、もちろん患者さんもそうですが、一人ではない。家族もいれば、友人もいます。会社の同僚もいるし、あるいは地域社会の中に生きている、そういう社会的な存在ですから、患者さん一人だけを相手にしていてはいけません。その人が家庭に帰って、あるいは職場に帰って、社会的に生きられて初めて病気が治ったと、そういうふうに私は思うんです。ですから、社会的なアプローチが必要になる訳です。

 

 医療者はどうしても病院内だけを医療の場だと、病院内だけが自分達の働く場だという意識を持ってしまいますけれども、そうではなくて、やっぱり必要なら外へも出ていく。地域全体が自分達の現場であると私は思います。

 

 先日、路上に倒れていた人が入って来られました。その人Aさんは、この5、6年の間に、自分の会社が倒産したあげく離婚し、自分一人になってしまいました。日雇いで働いて、体力が続かず、駅で倒れていたというんです。

 

 救急隊も放っておけませんから、救急車で搬送してきました。栄養失調気味で、足が硬直し動かないんです。衣服は汚れて、いかにも行き倒れの様子でした。


 運よくその人はよくなってきました。リハビリも一生懸命にしました。その間は生活保護をもらっていたんですけど、元気になると、Aさんが、

 

「僕はもう働きたい。生活保護はありがたいけど、自分の生活は自分でやりたいんだ。今ちょうど仕事が来てるから退院させて欲しい」


 こう言ってきたんです。

 

 「ああ、そりゃよかったですね。退院していいですよ」

 

 胸をなでおろしました。無事に退院できたのです。

 

 Aさんは、是非来てくれというところへ就職できて、退院していったのです。

 

 もしAさんが、体が治ったからって退院しても、どこも行くところがなくて、結局浮浪者みたいになってしまったら、医療はむなしい限りです。

 

 私達もそこまでは患者さんの面倒をみることは出来ませんが、私達の意識としては、やっぱり退院して、その人がちゃんと社会の中で生きていけるようにするというのが本当の「治す」ということだと思うのです。

 

 社会医療というのは、社会の中で生きている人間という視点で患者を見ようというものです。それは病院だけではできません。社会的なネットワークが必要になるのです。

 

 患者中心の医療というのは、この「人間医療」「自然医療」「社会医療」の三つをいうと、私は思っています。


〈つづく〉




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│いのうげんてん作品      

│               

│①著作『神との対話』との対話

│ 《 あなたの人生を振り返る 》《 自分の真実を取り戻す 》

│②ノンフィクション-いのちの砦  

│ 《 ホスピスを造ろう 》

│③人生の意味論

│ 《 人生の意味について考えます 》

│④Summary of Conversations with God

│ 『神との対話』との対話 英訳版

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