<26> 名診誤診迷診-尊厳死
それは50代の女性患者さんでした。病気は肝臓に転移した大腸がんで、末期状態にありました。
肝転移による苦痛が強いため、ホスピスに入院してきたのです。
本人は熱心なクリスチャンで、最期の時には何もしないで自然に看取ってほしいという希望がありました。
入院して1カ月ほどして病状はさらに進行し、いよいよ最期の時を迎えようとしていました。
意識も薄らいで傾眠がちになってきたのです。
すると、「最期の時には自然に」という患者の意思を了解していた家族が、会わせたい人がいるからと、延命を希望してきたのです。
家族とスタッフで話し合いました。
延命治療をしないでほしいという本人の意思をどうするかを、みんなで話し合ったのです。
その結果、家族の希望を受け入れることにしました。
昇圧剤を入れた点滴を始めました。
しばらくして、意識がぼんやりながら戻ってきたのです。
さらに、自分の置かれた状況が分かるほどになると、腕に入れられた点滴の管を見て、悲しげな表情をして涙を流すのです。
「どうしてこんなことをしているのか。治療はしないと約束したでしょう」
そう訴えるように、スタッフや家族を見つめて首を振るのです。
家族は患者に近寄り、もう少し延命してもらうように説得を試みました。
患者は拒否しました。
そこで、家族の同意のもとでその点滴を中止することにしたのです。
昇圧剤の入った点滴を抜去すると、次第に血圧は下がっていきました。そして半日して亡くなられました。
その光景は、かつて見たことのない荘厳なものでした。
入院生活を通して最期まで自らの信念を貫いていくという、恐ろしいまでの信仰の力を、目の当たりにしたのでした。
その光景を少し脚色して、戯曲風に書いてみました。
『二つの命』ホスピスの日々
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登場人物
井石知子(49才) 希望が丘病院ホスピス病棟医長
高橋恵子(42才) 〃 ホスピス看護師長
高木静子(52才) 末期の肝転移のある大腸がん患者
高木誠一(55才) 静子の夫、検事
高木洋一(27才) 静子の長男
高木健一(22才) 静子の次男
第二幕第三場 尊厳死
舞台、明るくなるとベッドに静子が寝ている。
まわりを井石知子医師、高橋恵子看護師長、静子の次男高木健一が囲んで心配そうに高木静子を見つめている。高橋、静子の血圧を計っている。
健一 (いらだちながら)父さん、遅いなあ。何やってんだろう。母さんがこんな容態だと言うのに。
高橋 身内のかたには連絡ついてますね。
健一 は、はい。ただ、父は外出中で……。伝言頼みました。
高橋 じゃあ、お父さんには連絡ついてないかも……。
健一 (うなづく)……。(井石の腕にすがり)先生、父が来るまでお願いします。何とかもたして下さい。
井石 お母さんは、どんなことがあっても点滴は嫌だと言っておられました。
健一 点滴以外に方法はないんですか?
井石 こういう事態では……。
間─
皆、静子を囲んで、呼びかけたり、手を握ったりしている。
高橋 (静子の血圧を計り)血圧70の40です。
誠一、背広の上着を抱えて、息を切らして飛び込んでくる。
誠一 (興奮して健一に向かって)おい、静子がどうしたんだ!?(静子のそばに行き、手を取りベッド脇にひざまづく)
健一 父さん、母さんが……。(泣き出す)。こんなときに何やってたんだよ。
井石 突然、血圧が下がり、昏睡状態になりました。
誠一 昏睡状態?(静子の肩を揺すり)おい、静子、僕だ、分かるか。もう一度目を開けてくれ。まだまだ死ぬんじゃないぞ。
間─
井石 高木さん、奥さんのご意思で、もう何もいたしません。
誠一 (振り返って)何もしない!?こんな容態なのに!?
井石 はい、それが奥さんのご意思です。
誠一 静子の意思!?そんなことってあるか!あってたまるか!静子!僕だよ、もう一度目を開けてごらん。お願いだ。
高橋、静子の血圧を計る。
高橋 血圧60の30です。
井石 ……。
誠一 先生、もう一度意識を戻してやって下さい。お願いします。この通りです。(手を合わせる)お願いします。
健一 父さん、それは無理だよ。
誠一 無理だよ?!お前は何言ってんだ!(健一の頭を殴る)このままじゃ母さんが死んじゃうじゃないか。
井石 高木さん、奥さんは最期のときは静かに死なせてほしいと言っておられました。
健一 そうだよ、父さん。母さんはいつも自分の生き死には自然でありたいと言っていたよ。だから、今の今まで苦しくても点滴一本だってしなかったじゃないか。母さんの意思を無視する気なの!
誠一 うるさい!お前は黙ってろ!父さんは、母さんにまだ話すことがあるんだ。(井石に向かって、床に正座し)先生、お願いです。点滴を打ってやって下さい。もう一度だけ、家内と話をさせて下さい。洋一にだって、会わせなきゃあ。この通りです。この通りです。(床に頭をつける)
健一 父さん!
井石 (誠一に歩み寄り、肩に手をやる)高木さん、頭をお上げ下さい。分かりました。点滴をしてみます。(高橋に向かって)師長、生食500にイノバン5筒入れて点滴して下さい。
高橋 はい、分かりました。
高橋、点滴を持ってきて静子の腕に注射する。
全員、ベッドを囲み、静子の顔を見いっている。誠一は、静子に呼びかけている。
看護師が入ってくる。
看護師 高木さん、洋一さんからお電話です。
健一 僕が出る。(走って外に行く)
誠一 静子、死ぬんじゃないぞ!
間─
健一 (走って戻ってきて)兄さんが横浜駅に着いたって。
誠一 母さん、聞いたか。洋一がもうすぐ来るぞ。頑張るんだ。
健一 母さん!
間─
健一 あ、母さんの目が動いた!
誠一 ほんとうだ、目が動いた!先生、見て下さい。
井石 (うなづく)
誠一 静子、僕だ。分かるか、静子!
間─
高橋 (静子の血圧を計り)血圧80の40です。
間─
洋一、走って入ってくる。健一から様子を聞いて、静子のそばに行く。
洋一 (静子の手を握り)母さん、洋一です。今戻りました。
誠一 そら、洋一が来たよ。洋一はまたすぐアメリカに行ってしまうんだから、よーく見ておくんだよ。なかなか会えないんだからなあ、静子、よーく見ておくんだよ。
高橋 (静子の血圧を計り)血圧60の30です。少しづつ下がっています。
誠一 (もどかしそうに)先生、意識が戻るようにできないんですか?
井石 残念ですが……、これ以上できません。
誠一 もっといい薬、ないんですか!意識を戻してやって下さい!
健一 父さん、もうよそう。母さんがかわいそうだよ!
誠一 うるさい、お前は黙ってろ!
洋一 父さん!
間─
誠一、無言のまま肩を落とし窓の方にゆっくり歩み寄り、うつむいて泣く。
井石 以前、静子さんが、自分が亡くなったとき、皆さんに渡して下さいと、このノートを私に預けられました。そこにお別れの言葉が書いてありました。
井石、朗読する。舞台は暗くなり幻想的な雰囲気となる。誠一にスポットライトが当たる。井石の声が途中から静子の声に変わってゆく。誠一、その言葉を聞きながら、苦悩する。
どうぞ私のために悲しみの涙は流さないで下さい。
自然であることを愛し、そのように生きて来た私の人生。あなたと語り合い、人々の平和を祈り合って過ごして来た日々……。
私がどれほど自然のままにあることを愛したか、あなたはよく知っていて下さいます。あなたの愛にしっかりと包まれて生きて来た今日まで……、幸せでした。
私は自然の懐へ帰って行きます。この旅立ちの時、同じようにあなたの愛で私を送り出して下さい。
私は生きて来たように、死んでゆきます。喜び、感謝しつつ死んでゆきます。幸せな死を迎える妻のために、あなたの愛の限りを込めて、喜びの唄をうたって下さい。
あなたの愛に心から感謝しています。
スポットライト消え、舞台明るくなる。
強い風の音。
誠一、井石のところに行き、ノートをもらう。お別れの言葉を黙読し、ノートを胸に抱き締め、静子の傍にとんでゆく。静子の手を取る。
誠一 (泣き叫ぶように)静子、僕が悪かった。君とこれでお別れかと思うと、僕は耐えられなかったんだ。分かったよ、君の気持ち分かったよ。こんなにも長い間、君といっしょにいながら、君のほんとの気持ちを分かってやれなかった自分が恥ずかしい。……。許してくれよ、静子。もう頑張らなくていいんだよ、もういいんだ……。
井石 高木さん。
誠一 (井石を見る)先生……。
井石 (ゆっくりうなづく)
間─
井石 点滴止めていいのですね?
誠一 (静子の手を両手で握り締め自分の頬にあて、小刻みにうなづく)
井石 (ハンカチで涙をぬぐいながら)師長さん、点滴を止めてあげて下さい。
高橋 はい。分かりました。(静子に一礼して、点滴の針を抜く)
誠一 (いとおしそうに静子の顔を撫でながら)静子、もういいんだよ。頑張らなくていいんだよ。お前が言ってたように、やっと病気から自由になれたんだ。もう何物にも束縛されずに済むんだよ。静子……。痛かったろうな。痛かったろうな。(同じ言葉を繰り返しながら、点滴をしていた腕をさする)
健一 母さん!(静子の体に抱き付く)
洋一 母さん!(静子の手を握る)
誠一、静子を抱き起こす。
スポットライト、静子を抱いた誠一に当たる。
賛美歌312番が流れる。
窓の外では雪が舞っている。
(終)
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〈つづく〉
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│いのうげんてん作品
│
│①著作『神との対話』との対話
│ 《 あなたの人生を振り返る 》《 自分の真実を取り戻す 》
│
│②ノンフィクション-いのちの砦
│ 《 ホスピスを造ろう 》
│
│③人生の意味論
│ 《 人生の意味について考えます 》
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