4.
待ち合わせ場所の中央改札に近づくと、その外で既に待っているリリカと目が合った。
少し余裕を見て家を出たので、約束の時間まではまだ二十分近くある。どれだけ楽しみなんだ、と呆れる気持ちもあるけど、まあ、悪い気はしない。
私が改札を出るやいなや、リリカが駆け寄ってきた。その姿に、つい小型犬を連想してしまう。
「いつから待ってたの?」
「あ……いえ、でも、一時間は待ってませんよ?」
「楽しみか」
「当然ですよぉ、初デートですもん」
そんな会話をしながら、リリカの先導で最寄りの出口へ向かう。
リリカと出会ってから二週間ほど。休みが合った(というか、しびれを切らせたリリカが合わせた)ので、デートに出かけようと誘われた。これまでも、私の昼休憩や仕事終わりに合わせて食事を一緒にしたことが三度あったが、それは彼女の中ではデートにカウントされないらしい。
休日にお出かけと聞いて、リリカの元気なイメージから、体力を要求されるアクティヴィティを警戒したが、提案されたのは水族館だったので、私としても、それならいいか、と承諾した。
なぜ水族館なのか? 私のそんな疑問に対し、リリカ曰く、水族館は『お約束』だから、とのことだ。フィクションにおける一般的なデート・シチュエイションとしてももちろん、百合作品に限定して見ても、なぜか定番化しているらしい。
わざわざそういう場所を選んだということは、リリカの中に多少なりとも何らかの“期待”はあるのだろう、とは思う。
だけど。
――もしマンガなら、魚の群れとか書くのは大変だろうなぁ。それとも今はそういう作業はAIでこなしてしまうのだろうか?
水族館がお約束、と聞いて、最初に浮かんだ感想がそんなものだった私では、たぶん彼女の期待には応えられないのだろうな、とも思う。
ただ――。
「あ、あそこですよ!」
駅からさほど歩かないうちに、目的地に到着した。
入り口を指さして私を振り返るリリカの表情は、まだ中に入ってもいないのに、本当に楽しそうで。
この顔が曇るわけじゃなければ、まあ良いか――そんなことも、思った。
「ペンギン、かわいかったね」
「うくっ!」
「……それは、どういうリアクション?」
「……普段カッコいいミナギさんが、ペンギンを見てメロメロになっているギャップで萌え死にそうになった瞬間を思い出して、私の心臓が上げた悲鳴です」
「……私はそれを聞かされて、どう反応したら良いの……?」
「いえ! もう、聞き流していただいて!」
水族館をたっぷり堪能した後、少し遅いランチをしながら、そんな会話をした。良く目が合うとは思ったけど、私ばかり観察していたのだろうか。まあ、それでも、リリカなりに楽しんだのは間違いなさそうだった。水族館であった必要性には若干の疑問が残るが。
とはいえ、私も事前の期待以上に楽しむことができた。最初の方こそ、展示されている生物よりも、演出や設備、それを実現する技術なんかに対する感心の方が大きかったりもしたけれど、それはそれで楽しかったし、比較的シンプルな展示だったペンギンやアザラシなどは純粋にそのかわいさを堪能できて、とても楽しめた。ペンギンやイルカのショウ・イベントもさほど待たずに見ることができたし、その内容も満足いくものだった。休日に少し早起きしただけの甲斐は十分にあったと言える。
ただ、それも――。
「ありがとう、リリカ。今日、誘ってくれて」
「ええっ! いえ、そんな、私のわがままに付き合ってもらっただけなのに!」
「ううん。私一人じゃ、今日みたいには楽しめなかった。こうして過ぎてみれば、リリカがすぐ隣で楽しそうにはしゃいでいてくれたから、私もその空気に感化されて、より楽しめたんだ、って解る。そういう、一人じゃできない楽しみ方がある、って知れただけで、私にとって、すごく価値のある時間だった」
そう、隣にリリカがいたから。
でなければまだ、いや、もしかしたらずっと、それは気付くことのできないことだった。それは本当に有り難いことだと、自然に思えた。
「それなら……、良かったです」
そう言ってはにかむリリカは、かわいらしい、と思う。
それでもやっぱり、私の中で、胸が高鳴るとか、ときめくとか。あるいは、手を繋ぎたい、キスをしたい、そんな接触欲求が生まれることは、ない。あってもせいぜい、頭を撫でてあげたい、というくらいのものだし、それだって、そうしたらリリカがどんな反応をするだろうか、という好奇心が先行したものにすぎない。
リリカに好感、あるいは好意とまで言って良い感情を持っているのは……確かなのだろう。今日のことで、今までよりまた少し、彼女を私の懐の深くへ迎え入れたような感覚もある。
その好意が、友愛や親愛のままなのか、それともいつか恋愛に変わることがあるのか。それは、私にはまだ、理解も、判断も、できない。想像もできない。
だけど。
リリカと付き合う、という選択は、私の世界を、少し、広げた。
……リリカが、広げてくれた。
それはきっと、独りでは、極めて得がたいことだ。
今日、それを実感したことで、彼女と恋人関係――いや、恋愛感情の向きが一方的であるのなら、パートナーシップというほうがしっくりくる――を続けていった先で、私はもっと、まだ私が知らない私を見いだせるかもしれない、そんな期待感も育った。
その未来の“私”が、どのようなものか、やっぱりまだ想像もできないけれど。
私の隣に、変わらずリリカがいてくれる――そんな未来なら……、存外悪くない。そう、思えた。
週に一度か二度ほどは、一緒に食事や買い物をして。
月に一度は、デートに出かける。
そんなリリカとの交際の日々は穏やかに積み重なって、もう、半年以上が過ぎた。
その記念、というわけでもないのだろうけれど、この日はリリカが初めて私を自宅に招いた。お互いの住居が一駅分しか離れていないことは既に知っていたが、リリカにはずっと遠慮のようなものがあったそうだ。そして、私にはわざわざ彼女を自宅に招くという発想自体が無かった。
リリカが住む部屋は、間取りこそ違うが、私の住居と同じく一K(風呂トイレ別)の賃貸マンションだった。家賃はこちらの方が高いのは、地理的な理由よりは、女性専用物件という点からなのだろう。
そんなリリカの部屋に通されて、腰を落ち着けた。部屋の中は物が少ないわけではないが、綺麗に整理されていて気持ちが良い。ベッド脇に並ぶぬいぐるみが彼女の可愛らしさを象徴しているようで、自分の部屋の無機質さを思い返し、女性の端くれとして、ちょびっとだけ申し訳ないような気持ちになる。
半年を超える交際期間は、私にとっては、新記録だな――リリカの入れてくれたコーヒーを飲みながら、そんなことがふいに思い浮かんだので、深く考えずにリリカに伝えたら。
「新記録? ということは…………、旧記録が……ぐぅっ! 聞きたい、けど、聞きたくないぃ……!」
思いがけず、煩悶懊悩させてしまった。
「いや、でも相手は男性だよ?」
「男性!?」
「あー……。いや、でも、二人だけだから……」
「二人も!?」
フォロゥのつもりが、追い打ちをかけてしまった。
「なんか……、ごめん」
「いえ……。ミナギさんはビアンというわけじゃないんですし……。それに、それだけ美しいのですから、二人は決して多い数では……!」
リリカは自分にそう言い聞かせるように、苦悶の表情で声を絞り出した。
これは、多少意図的に大仰なリアクションをして見せているけれど、言葉自体はかなりの割合で本気だ――そう思えた。
リリカは元々感情表現が豊かだけど、この半年間の付き合いで、なんとなくではあるけれど、そのくらいの機微はちゃんと判断できるようになったのではないか、自分ではそう思っている。
そう、彼女のそれが、嫉妬のような感情から来るものだろう、という判断は、できる。
だけどやっぱり、共感は、できない。
嫉妬、という感情が、私にも無いわけではない……と思う。ただ、歳を重ねるにつれて、他人の能力や環境などになにかを思うことは減ってきたとも思う。
私は、他人への関心が薄いのだろうか? ――それは、以前に何度も考えたことだし、今でも否定まではできない。恋愛感情を抱かないことだって、それが理由(のひとつ)と考えれば、一応の納得はできるのだから。
だけど。
私は、誰かとの関わりを深めることから、逃げていたのではないか? ――リリカと付き合ううち、彼女への思い入れが深まっていることを自覚していく中で、そんなことも、思うようになっていた。
誰かとの別れのとき、誰かに裏切られたとき、私の心に生じる傷の深さは、その人との関係の深さだ。私はどうしてか(もしかしたらそれは、幼い頃の“ワンちゃん”との別れのせいかもしれない。でも、それだけだろうか?)そう感じていて、だからきっと、無意識に恐れていた。恐れているから、逃げていた。
私は、自分にさほど自信が無い。リリカが事ある毎に私を褒めてくれるうち、不意に、それが自覚された。
それはきっと、私が人を愛するということを想像できないから。私が、人に愛されるということを、想像できないから。
恋愛感情を知らないということは、頭で考えていた以上に、心の内では劣等感になっていたのだろう。
そして、その劣等感は、じわじわと育ち、心を蝕み続けていた。
半年と少し前。私が、自分探しなんていう思春期めいた行動に駆り立てられたのは、心が声なき悲鳴を上げ始めていたからなのかもしれない。
――リリカと付き合うことで、そういうことに、気付けた。リリカが、気付かせてくれた。
事実、それに気付くと、それまでよりも心が軽くなったような気がする。
それは、探していた“自分”の、いくらかを見つけたからだろうか? ――違う、とまでは言わない。だけどそれは、大きな理由でもない。
きっと。
私が人を愛することを、想像できないままでも。
私が人に愛されることは、少し、想像できるようになったから。
だって。
リリカが私の元を去って行くとき。私は、悲しさや寂しさを感じるだろうか? ――いつか考えたそんな疑問は、今では、きっと大きな悲しみや強い寂しさを覚えるだろう、という確信に近い。
そして、そんな未来が、できることなら来なければ良い、という想いが、私の心にはもう、確かにあった。
そう、それが恋愛でなくたって、人を大切に想うことは、できる。
恋愛感情を知らないままでも、リリカの想い全てに共感できずとも、今の二人の関係を大切に思うことは、できるのだ。
――そう理解すれば、恋愛感情を知らないことは、もう、劣等感にはなり得なかった。
「リリカはさ……、性欲はあるの?」
それは、過去の交際話の流れから出た質問だったけど。
「……ホワッ! いえっ! 今日はそういう目的でお招きしたわけではなく!」
「えっ……、ああ……、ちがくて。別に……牽制しようとか、非難しようとかじゃなくてさ。……単純に、知りたいというか」
私にとっては一つの流れでも、リリカにとってはいきなりだったのか、彼女の想定外の反応に、思わず苦笑しつつ弁明した。
元カレたちはもっと早くそういう関係を求めたから――というのは、さすがに口にしない。先ほど追い打ちをかけたばかりだ。私に死体蹴りめいた趣味は無い。
「それは……、ありますよ……」
少しの間を置いて、リリカがそう答えた。
「対象は女性だよね? 好みのタイプなら誰でも?」
「ミナギさんに出会ってからはミナギさんだけですぅ!」
「そうなんだ……。……私、オカズにされてる?」
「しょうがないじゃないですかぁ!」
言ってから、ちょっと生々しいか? とは思ったけど、リリカは恥ずかしがりながらも律儀に答えてくれる。まあ、――幸か不幸か私には今まであまり縁が無かったので確証はないのだけれど――一般的には女子の下ネタは“エグい”とまで言われているし、このくらいなら、かわいいものだろう。
「あれは? ネコとか、タチとか」
「今この状況がなんかもうネコじゃないですかぁ!」
リリカの反応が新鮮で、なんだか楽しくなってきた。本当に私には攻めっ気があるのかもしれない。
「道具とかは使うの?」
「その時の気分とか状況によりますけど!?」
「あるんだ……」
「誘導尋問!」
「それはちょっと違うでしょ……」
――そんな、色気なんて全然無い下ネタ会話は、もうしばらく続いたけれど。
最後には、リリカが、とても大きな勇気を出したのが、分かったから。
私は、それを、拒まなかった――。
リリカの荒い呼吸が落ち着いたかと思ったら、そう間を置かずに、それは寝息に変わっていた。
寝付きが良い、というのは新しく知る彼女の一面だ。それが、元よりそうなのか、体力を使った直後だからなのかは、これから知れていくのだろう。
リリカが私を気遣いながら、とてもがんばってくれていたのは分かった。それは純粋に嬉しいと思えた。だからこそ、私も彼女の欲求を引き出しながら、できるだけのことはしてあげたつもりだ。
だけど、それで私の中のリリカへの気持ちに、特別な変化があったかといえば、なかった、と思う。
リリカにデリケートな部分を触れられることに、不快はなかった。だけどそこには、フィクションに描かれていたような、特別な“ときめき”とでもいうものも、なかった。元カレたちに身体を許したときと同じように、ただそういう行為だという理解があっただけ。
包み隠さずに言えば、これまで経験した中では一番、良かった。
だけど、それで私が気付いたのは、これまでに関しては妊娠の可能性というものが無意識にブレーキになっていた、ということ。それは相手が嫌いということではなくて、よんどころない事情によって自分の意志や想いと関係なく未来が決定されてしまうこと、それをこそ無意識に忌避していた、そんな理解だ。
だから、相手が女性であることは全くの無関係ではないけれど、じゃあ私が女性に対してより強い性的な興奮を覚える性向なのかと問われれば、やっぱり首を傾げる。
そもそも私の中には、この快楽に依存する人間や、それを求めて犯罪まで犯す人間がいる、という事実と、それに対する嫌悪感、このインスタントに得られてしまう快楽を二人の関係性に於いて“特別”にすること、あるいは“拠り所”にすることへの抵抗感、そういったものも心理的なブレーキとして依然存在している。
だから今回は、一つブレーキが減った分だけ先へ進んだ、単にそれだけのことだと思える。
一方で、それは、リリカが私にとって“特別”な存在であることを否定する材料でもない。
だって、元より大切に思う気持ちに変化などなくても、それが恋愛感情でなかろうと、それは“特別”に違いないのだから。
私がどんな人間であろうとも、その“私”を、リリカは変わらず好きだと言ってくれる。
私が自分を知ろうと知るまいと、私がリリカを大切に想う気持ちは、もう簡単に揺らぐものでもない。
二人の関係は、恋愛感情がなければ成立しないものではないし、ましてや、性的な接触がなければ繋ぎ止められないようなものでもない。少なくとも、私にとっては。
その事実の前では、私がどういった指向の人間であるかなんて、大したことないように思える。
いや、大したことない、というよりは――もう、どうでもいいこと、だ。
こんなことを声高に叫んだら、本気で悩んだり苦しんだりしている人たちからは総スカンを食らうかもしれない。
だから、これは私だけに通用する、私だけの結論でいい。
その結論に普遍性などなくとも、私は今、自由を感じている。自分を型に嵌めようとしていたことを、馬鹿馬鹿しく思っている。
何なら、私のこのリリカへの親愛の情が、一般的にはそうと認められなくとも、これが私なりの恋愛感情だ、と決めつけてしまったっていい。私が感じている自由とは、そういうものだ。
「うぅ……カロリー……」
謎の寝言と共に、リリカが身じろぎした。
そういえばさっき、私と体重がほとんど変わらないと知ってショックを受けていたっけ――その時のことが思い起こされて、思わず笑みがこぼれた。
BMIで見ればリリカの方が健康だ、という私のフォロゥも焼け石に水というくらいに落ち込んでいたけど、よくそこから色気のある展開にもっていけたものだ。そんな、感心とも呆れともつかないことを思いながらリリカの頭をそっと撫でると、うなされていた寝顔がほころんだ。
――こんな二人の夜を幾度も重ねていけば、いつか私は、一人の夜にリリカを想って震えるのだろうか?
そんな自分は、やっぱり想像できないけれど。
そのことが私の心に影を落とすことも、もう、なかった。
最後までご覧いただき、ありがとうございます。
もし、この作品が、あなたの費やしてくださった時間に対して、少しでもお返しできるものがあったなら、幸いです。
そうであっても、なくても、この作品への感想とまでは言わずとも、評価やリアクションだけでも残して頂けますと、当方、大変喜びますので、宜しければ一手間、よろしくお願いいたします。
……ちなみに、上記文中に落丁などは決してありませんので、ご理解よろしくお願いします。




