厄介事襲来
永禄3年6月、西暦1560年6月に史実通りの戦いが起こった。桶狭間の戦いと後世で誰もがその名を知る、後の戦国の世を変える一大イベントが完了したのだ。上洛を目指す今川治部大輔義元が田楽狭間にて織田家に打ち取られた。
俺は前もって三雲家に依頼し、その戦の詳細を確認していたため、誰よりも早くにその情報を手に入れる。持ち帰られた情報は父承禎入道も同席で聞く事となり、既に結果を知っていた俺は驚かなかったが、父承禎入道は言葉を失う程に驚愕していた。
海道一の弓取りと謳われ、駿河、遠江、三河の三カ国を領する大大名が、尾張半国も治めきれていない小豪族に打たれたのだ。身分で言えば、足利家一門である今川家が、守護代の家臣である織田家に当主を討たれた事となる。
この時代に来て、改めて思うが、織田信長という人物は、己の才覚と努力も然る事ながら、時代にも恵まれていたのだろう。足利一門と云われてはいても、その足利自体に力は既になく、その当主を討ったにも拘わらず、その武勇、武功を讃えられる事はあっても、糾弾される事はなかったし、その敵討ちとして四面楚歌になる事もなかった。
尾張の北には美濃があり、そこを現在統治している斎藤家は元々の出自が不透明である。現当主である斎藤義龍には色々と逸話があるが、主家であった土岐家を追放して美濃を掌握している事に変わりない。伊勢を領しているのは北畠家であるが、実際は南伊勢の掌握に留まっており、北伊勢は小豪族達の集まりであり、そこには我が六角家の縁戚となっている者達も多い。
今川義元を失った今川は三河での求心力を失い、三河の岡崎城には松平元康が入場して独立を静かに表明している。いずれ、三河から今川軍は全て撤退する事になるだろう。
桶狭間後、織田信長が警戒するのは、尾張国内勢力と美濃斎藤家ぐらいなものだったのだ。
この駿府の巨星の消失は、東海地方から近畿地方を激震させた。珍しく六角家にも武家伝奏である勧修寺言中納言殿を通じて朝廷から御下問があった。ここ最近、無償の献上を続けていた為に、朝廷としても頼りやすかったのだろう。
『この先の世の行方』についての御下問であったが、歴史を語る事は出来ない。東海地方の勢力図に変化はみられるが、それは今日明日の事ではない。世の安寧の為、京の安寧の為、微力ながら尽力致しますと答えておいた。
正直、この時代の武家伝奏は名ばかりの役職という印象が強かった。幕府と朝廷との橋渡しは、近衛家などの将軍家の外戚であった有力公家が行う事が多い。その他の大名達と朝廷との関係は、この時代の公家は貧乏である為、下向という形で銭の無心に行くという感じだと記憶している。
実際、信長はここから尾張を完全に統一しなければならない。史実だと、信長が尾張統一を果たすのが1565年であり、ここから5年の月日が掛かる。六角家が近江を完全に掌握し、外に出て領土を広げるには些か短い期間だ。
何とか北伊勢までは完全に掌握し、織田の西進を防ぐ防波堤を築きたい。家格で言えば、圧倒的に六角家の方が織田家より上だが、戦国武将、戦国大名としての格は圧倒的に向こうが上だ。濃尾を信長が手中に収めれば、正直対抗できる気がしない。
何とか国力を高める施策を色々と考えねばと頭を捻っていた時に、先触れが届いた。
また面倒な人間が観音寺城に来訪した。
観音寺城の謁見の間には、二人の男が座っている。畳を敷いた一段上の場所にいる俺を不遜だとでも言うように睨みつける二人に辟易した溜息が零れそうになった。
一人は幕臣一色式部少輔藤長。丹後国守護一色家の傍流の家系であり、現在は御供衆に列せられる人間である。
「して、此度の御用向きは?」
家臣一同揃い、父承禎入道もいる。この頃の父は、俺の横に座るのではなく、家臣達と同様に一段下に座るようになっていた。六角当主が誰であるのかを自らが示すかのように、隠居として求められない限りは口を挟まないようになっている。
先日元服し、大原次郎左衛門尉高定となった弟の次郎もこの場に一門衆として列していた。史実では次郎の名は『義定』と伝えられていたが、既に将軍家に『義』の字を返上している以上は使用出来ない。どうした物かと父に相談し、先々代である雲光寺様と曾祖父である六角高頼から一文字ずつ拝借し、『高定』とすることにした。
「此度は、公方様よりの命をお伝えに参りました」
一色式部少輔が仰々しく話し出す。将軍からの命だと言えば、本来は上意である為、上座下座の入れ替えをしなければならない。だが、その言葉を聞いても俺だけではなく、家臣一同微動だにしなかった。
その姿に一色式部少輔の表情が変化する。『無礼者!』とでも叫んでくれれば対処のし甲斐もあるのだが、流石は足利義昭の不興を買ってまでも鞆へ追いかけた男だ。神経が図太いというか、図々しいのだろう。
「式部少輔殿、命とおっしゃられたのか? そのお言葉に責任を負われる御覚悟はおありであろうな」
「…言葉が過ぎましてござる」
『将軍家としての命令だと? てめぇ、それが独断だった時は覚悟しろよ』とやんわりと伝えれば、暫しの時間の後、今までの言葉を否定し、謝罪する。
簡単に覆すのであれば、最初から嘘など口にするな。自分の立場を上にしようと考えるのは悪い事ではないが、既に六角家中で一色式部少輔という人物は信用するに値しないという評価で確定してしまった。その評価は今後覆る事はないだろうし、この場の交渉が既に最下限からのスタートになってしまっている。彼は初手から失態を犯したのだ。
「お初にお目に掛かります。若狭武田治部少輔信豊が三男、武田右衛門佐信景と申します」
先程から一色式部少輔の後ろに控えていた男が声を出す。本来、俺から声を掛けるか、式部少輔から紹介されない限りは口を開けない筈だが、ここまでの一色式部少輔の失態に今自分から口を開かなければ、何もすることなく謁見が終わってしまうと焦ったのだろう。
武田右衛門佐信景か、現在若狭から追い出されている武田信豊の三男であり、今若狭守護として当主になっている武田義統の実弟であったな。若狭武田は色々とややこしい。
まず、武田信豊の正室は、我が祖父六角定頼の娘であり、父承禎入道の姉である。つまり俺の義理の叔父に当たる。その武田信豊と定頼の娘との間には二人の男児がある。それが、現当主の義統と目の前にいる信景であった。俺にとっては従兄となるのだろう。その他に腹違いの兄弟が二人おり、若狭武田家はこの代で家督争いが何度も勃発している。
現在は、原因である父信豊を近江に追い出した義統が当主となっているが、史実通りに進むと、このまま若狭武田は弱体を続け、最後には朝倉家に若狭を全て奪われてしまうだろう。
「従兄殿であったか。息災で何より」
「右衛門督様に於かれましてもご健勝のこと、お慶び申し上げます」
この信景だが、史実では最後まで六角家と縁があった。史実では、朝倉に吸収された若狭武田と織田家に追われた六角家の生き残りとして、何故か甲斐武田の滅亡と共にするという結末を辿る。文献に残っているだけで定かではないが、恵林寺にて六角次郎及び武田五郎が発見されて殺害されたとされていた。
そう考えると、何か放ってはおけない気持ちになる。だが、現在の若狭に手を出すのは時期早々であるだろう。まだ武田義統の力が残っており、逸見昌経の反乱が起きてから朝倉を頼るようになるまでは手を出したくない。
だが、それも1561年と云われているから、もう1年を切っているのか。
しかし、厄介なのが、現当主である武田義統の正室であろう。この当主は俺の従兄に当たるのだが、その従兄の妻が足利義晴の娘となる。つまり、この武田義統は足利義輝と義兄弟という事になるのだ。面倒この上ない。
「若狭ではご苦労も多いかと思うが、伊豆守殿はご健勝か?」
「…はっ、本日はその事について、右衛門督様へお願いしたき儀があり、罷り越しましてございます」
面倒事は確定だろう。
現状、近江の平定後の調整をしている最中であり、城代に任命した家臣達も仕事の割り振りなどに苦心している最中である。築城した城の城下町の整備はまだまだ途中で、正直新城での徴兵などは不可能であった。
この状況で国外への出兵などほぼ不可能に近い。それは、正直六角家でなくても解る内容なのだが、将軍家の阿呆共は自分の事しか考えていないからこの時期に面倒事を持ってくるのだろう。若狭武田家もそれとたいして変わりない。
「その儀とは?」
「しからば、それは某からお話致そう」
得意気に一色式部少輔が口を開く。どうして、こうも幕臣達は癪に障るのだろう。武家というよりは考え方が公家に近いのだろうか。そのくせ、武士の誇りのような物を口にするからややこしい。
「現若狭武田家当主である伊豆守殿は、公方様の妹君を娶られており、云わば公方様の義弟となられます。また、先代である治部少輔信豊殿のご嫡男であるにも拘わらず、治部少輔殿は四男である三郎に家督を譲ろうとなされました。嫡流への家督相続は正道であり、ましてや公方様の義弟となられている嫡男を廃嫡にするなど以ての外」
「…それで?」
何やら表情を変えながら力説しているが、正直全く興味がない。従兄とはいえ、一度も会った事が無い叔母とその息子など、現代人の感覚で言えば他人と同じだ。今まで交流など無いのに、金に困って無心に来た親戚のような感覚だろう。良い感情を持つ訳がない。
まぁ、叔母の方に関しては、この時代であれば会いたくとも会えないというのが正確な話であり、遠方へ嫁げば、親の葬儀にすら参列出来ないのが当たり前と考えれば、そこまで悪く言う必要はないのかもしれない。
「…伊豆守殿の家督相続の正統性に関しては、六角家としても幕府と志を同じくされていると公方様は考えておられます」
雲光寺様の息女であり、父承禎入道の姉から生まれた嫡男が伊豆守義統と目の前で平伏する右衛門佐信景であり、治部少輔信豊が家督を望む三郎信由は腹違いとなる為、六角とは関りがない。であれば、血族である義統が家督を継ぐことが望ましいと考えるのが、この時代の当然なのだろう。
だが、血族が継げば、その場所を攻め取れないというのもある。どちらかと言えば、義統が家督争いに敗れ、弔い合戦の名目で若狭に攻め入った方が六角にとって利があるだろう。それこそ、目の前の右衛門佐信景に一城でも与え、他の地域は六角家臣で押さえて完全に六角領にしてしまった方がよっぽど良いのだが、そのような事はお目出たい幕臣達では考えも付かぬだろうな。
「して、公方様と若狭武田家は、某に何をお望みなのでしょう?」
「しからば、六角家には若狭への出兵を頂きたい。近江に追放された治部少輔殿に与する逸見駿河守が三好と手を組み、若狭国に松永軍を引き入れるとの噂もございます。松永軍も加われば、如何に武勇優れる伊豆守殿と言えどもかなり苦しい状況になるでしょう。ここは六角家のご助力を頂きたく、公方様が某を遣わせました」
要は義弟である義統が危ないとか、若狭国が荒廃するとかではなく、これ以上三好が大きくなるのが嫌だから、六角を使って邪魔したいという事だろう。そもそも、自力で何とかできず、他家の力を借りなければならないとなれば、この時代その場所の所有権を主張する事など出来ない。今回の戦いで義統は、勝とうが負けようが、若狭国の領有をいずれ諦めなければならなくなるだろう。
雲光寺様や、父承禎入道の時であれば、幕府からの用命とあらば、二つ返事で了承し、その恩賞などを強請る事はなかったのかもしれないが、既に六角家当主は俺だ。ただ働きなどご免被るし、生半可な恩賞では納得が出来ない。果たしてこの馬鹿共は出兵するのにどれだけの銭と米が必要なのかを理解しているのだろうか。六角が出兵する以上は二千、三千の半端な援軍では面目が立たない。となれば、費用も甚大になるという事だ。
「ふむ。六角に若狭へ出兵せよと?」
「左様にございます」
何様だ? ああ、将軍様か。本当に苛立つ。虎の威を借る猫とはこの事だな。足利家でございと家名を持ち出して偉ぶり、陪臣たちには会う事さえも渋る人間達のくせに、自分達の事となれば、今や丹後一国も碌に統治できない一色家の分家の分家の分際で、佐々木源氏六角家当主に向かって、『左様でございます』だと?
苛立ちが自然と顔に出る。それを察したのか、控えている六宿老達の顔色が瞬時に変わった。この一年で、六宿老達は皆、俺を主君として認めるようになったが、それと同時に俺の怒りが昔のような只の癇癪ではない事も悟っている。恐怖政治をするつもりはないが、『ああ、やばいわ』という感覚を持つようになったという感じだ。
「御断り致す」
「…は?」
「我が六角家は近江の統一を果たしたばかり。今は国内を治める時であり、国外に出兵する時期にあらず」
俺の言葉に父承禎入道は目を瞑り、蒲生下野守、後藤但馬守の二人は眉を顰める。平井、三雲、目賀田の三人に表情の変化は見られず、進藤山城守は俯いて表情が見えない。
少しはっきりと言い過ぎたかもしれないが、本音を言えば、もっと言ってやりたい。『何の見返りもない手伝い戦などやっていられるか!』と。現在の足利家にも、国内を乱している若狭武田家にも、六角の出兵に報いる物を何一つ用意する事が出来ないだろう。精々何の役にも立たず、むしろ足枷にしかならない幕府の役職ぐらいなものだろうな。
「公方様の命を愚弄なさるのか!?」
「式部少輔殿、其方は先程、命ではないと明言された筈だが?」
一色式部少輔の顔が真っ赤に染まる。怒りに震えているのだろう。だが、正直何をどうする事も出来ない。正直、今の足利将軍家は六角と敵対するならば、完全に三好と和睦するしかないのだが、それは絶対に不可能であろう。
三好としても六角と敵対するならば、存亡を賭ける戦いになると理解している筈だ。今までの六角は三好を滅ぼすつもりがなく、また機内に領土を広げるつもりもなかった為、精々京を取り戻す程度でしかなかった。その為、一度京を手放しても、いずれまた戻せる程度にしか考えていなかったと思う。だが、将軍家と手を組んで六角討伐のような形で近江に攻め込むならば、全力で六角は抗うだろう。河内の畠山などは三好憎しで加勢する事はないだろうし、丹波の波多野にしても将軍に味方する事はあっても三好と共に歩む事はない。
将軍家との和睦に必要な細川晴元の処遇も定まっていない今、足利家は六角を敵には出来ない筈だ。
「しかし、式部少輔殿の申す通り、若狭に三好が入る事は好ましくありませんな。朝倉が動く可能性を考えると、それも厄介。しかし、越前を通らなければ我らが若狭に入るのは難しいが、式部少輔殿、その辺りは考えておられるのか?」
「高島郡から若狭へ入る事も可能かと存ずる」
「はっ。我らに幾山も越えて若狭へ入れと?」
本当に凄いな。何の見返りも用意せず、険しい山を幾つも越えて援軍を出せだと。命令を出すだけで誰もが額を付けて従うとでも思っているのだろうな。あの山々を超えて若狭に入るのに、何日の日数を要すると思っているのだ。ましてや数千の兵を従えて山を越えるのだ。この時代の山はまだまだ未開拓であり、危険な動物達が数多くいる。狼、熊、猪、それらが生活する圏内で夜を超し、山道というよりも獣道を歩き続けなければならない。馬鹿にするにも程がある。
現代でこそ、この高島郡と若狭を結ぶ道は『鯖街道』として有名であるが、この時代はまだまだ道が舗装などされていない。本当に足利は面倒事しか持ってこない疫病神に近いな。平穏を乱しているのは、足利ではないのか?
「高島から山を越えて若狭に入ったとして、熊川の沼田氏は三好に通じてはおりませぬな?」
「そ、それは…。しかし、沼田氏は外様詰衆を担っております」
そんな程度も調べていないのか。それでよく軽々しく命を出したな。確か、沼田氏は1569年に若狭武田家臣である松宮玄蕃允清長によって城を追われた筈。松宮は武田義統の家臣であり、武田義統は足利義輝の義弟である。その義弟が幕臣に名を連ねる沼田氏を攻めさせるというのも奇妙な話であり、松宮の独断となれば、それだけ幕府が軽んじられている証拠にもなる。
だが、最後の可能性として、沼田氏が他家に靡いていたという可能性だろう。そうであれば、この時点で靡いている可能性も否定出来ない。山を越えた先に三好軍が居たら六角家は全滅に近い。
「解り申した。高島郡から若狭に向かい、逸見駿河守を牽制致しましょう。その上で伊豆守殿と治部少輔殿の和睦を仲立ち致します。和睦が成り立てば、逸見駿河守も矛を納めざるを得ず、尚も松永軍を若狭に引き入れるようであれば、逆臣として討つ事も可能となりましょう」
「誠でございますか。伊豆守殿と治部少輔殿の和睦からの正式な家督相続は公方様の願う所。右衛門督殿のご決断に公方様もお喜びくださいましょう」
自身の役目が果たせたと安堵したのだろう。六角家にこの問題を持ち込む事を公方に直訴したのがこの一色式部少輔なのか、それとも面倒事として押し付けられたのかは分からないが、幕臣達はどうしてこうも他者を侮る事が出来るのだろう。この戦国の時代では官位や幕府役職などで己の身を護る事など出来ない。降りかかる火の粉は払うという事が正当化される時代に、よくもまぁ、他者を蔑む事ができるなと思う。
だが、これは俺にも言える事だな。六角義治としての期間が長くなる程、六角家当主という地位に慣れ、周囲に対する傲慢な振る舞いが出ているかもしれない。元々の義治が短慮なところがあったために皆に見逃して貰っていると考えれば、やはり少しは自制しなければならないだろう。
「稲刈りを終え、年貢徴収を終えた後、出兵致しましょう」
「ふむ。致し方ないでしょうな。公方様にもそのようにお伝え致します」
「右衛門佐殿には、思う所はあろうが、治部少輔殿に和睦の件の内諾を貰い、お連れして欲しい。話は通しておく故、出陣までは平井加賀守がいる船木にてお待ち頂きたい」
「畏まりました。主伊豆守も、父への存念はありましょうが、仲立ちをお願い出来るのであれば和睦を承諾致しましょう」
いや、正直、伊豆守義統の承諾など別に必要ないのだ。嫌だと言われれば六角は手を引き、面目を潰されたとして大義名分を得るだけなのだから。だが、ここはそんな気持ちをおくびにも出さず、仰々しく頷きを返した。
先程までの苛烈なやり取りとのギャップに、周囲の家臣達の落ち着きがないが、六宿老達の表情は何も変わらない。もう慣れたか。
一色式部少輔と武田右衛門佐が広間から退出した後、いつも通り評定衆達との話し合いが始まる。最近評定衆に新たに加わった田屋石見守にも観音寺城の曲輪に館を建てる許可を出し、本貫である田屋城と観音寺城での生活を交互に行っている。
「実際、不愉快な話だ」
「御屋形様…」
完全に幕府からの使者一行がいなくなったのを確認し、控えている三雲対馬守に目配せをした際に頷いた事から、ようやく俺の口から不満を吐き出す。咎めるように後藤但馬守が口を開くが、周囲の誰もが俺に同意のようであった。
「これは、雲光寺様と儂の行いの結果であるな。命令すれば唯々諾々と従うと思われておられるのだろう」
「本来、幕府の仕組みとは御恩と奉公にて成り立っている。幕府が土地を与え、それに報いる為に奉公する。そして奉公が実ればまた新たな土地を与える。それが御恩と奉公の仕組みだ」
「しかし、今の幕府には土地がない」
「そもそも、この近江とて、室町公方から与えられた土地ではなく、長年六角の近江統一に横車を入れて来たのは足利幕府である。土地が無ければ銭でも良い。銭もなければ礼儀でも良い。そんな何かしらで六角の奉公に報いようという動きもないのだから、要は舐めているのよ」
父承禎入道が今までの六角の行動が原因だと口を開くが、俺はそうではないと思っている。世の流れからしても、既に幕府の統制など出来ていないのだ。幕府政所執事の伊勢氏がいるが、それは幕府という形式を残すための動きしか出来ておらず、日本全土の統制など土台不可能である。
それを足利将軍家が理解していないのだ。我が六角家は南近江を支配していた時、南近江の豪族達を束ねている。六角定頼の時代から盟主としての立場から主君としての立場に明確に変化しており、豪族達の本貫地の自営は認めているが、上納は貰っているし、家臣達の揉め事になれば、六角が手を伸ばした。
それが足利には出来ない。江戸時代まで進み、皆が戦を知らない時代になれば別だが、独立独歩の守護達が各地にいるこの時代に、最早将軍の命ほど有名無実な物はないのだ。
「今回も勿論、無償労働だ。如何に親族といえども若狭武田が謝礼を出すべきであるが、そこに考えが及ぶのであれば、幕府を通さず自ら来ているだろう。自国の統制も出来ず、他家の介入を乞うのであれば、本来は若狭半国を差し出す必要さえある。六角が静観すれば、朝倉を頼るしかなく、これ幸いに朝倉は若狭を手中にするだろう」
「そうなれば、厄介ですな」
「それは朝倉も同じ事。六角との防波堤である浅井は消えた。若狭も六角に落ちれば、朝倉は一向宗と六角に挟まれる事になる。なんだかんだと邪魔をしてくるだろうな」
浅井は親朝倉であった。浅井独立を支援したのが朝倉である為、その影響もあり、浅井家中には親朝倉の家臣が多かったのだ。史実で織田信長を裏切った浅井長政に関しては、それだけではなく、色々な感情が憶測を呼ぶが、家中の親朝倉に抗えなかったというのも要因の一つだと思われる。
そんな浅井が滅び、北近江全土が六角の領土となった為、六角と朝倉の領土は接する事になった。俺が塩津浜に城を築き、そこに親族である中務太夫賢永を入れるのも、国境を護る兼ね合いがあるからであり、それは朝倉も同様だろう。金ヶ崎には朝倉一門が既に入っているが、国境となる疋檀城の防備は今まで以上に強固にしている事だろう。
出来る事なら、疋檀城を落とし、敦賀まで行って城を築きたいが、それは流石に無理であろう。六角にはまだ、近江の防衛を残したまま朝倉全軍と戦う力はない。
「我らが高島郡から若狭に入れば、おそらく朝倉は近江を覗く動きを見せる筈」
「しかし御屋形様、対馬守殿の動きにて情報を遮断すればよろしいのでは?」
「ある程度は出来ような。だが、京の阿呆共を抑える事は出来まい。あの阿呆共の事だ。既に朝倉にも話を持って行っている可能性もあるし、まだならば、六角の了承を餌に朝倉さえも動かそうとし兼ねない」
朝倉の諜報を眩ます事は可能だろうが、幕臣共の使者などを殺す事は出来ず、文などを届けられては情報など筒抜けだ。また、六角が動くと言っているのだから、朝倉も公方の命に従えと使者を送る可能性さえもある。そうなれば、こちらの情報など逐一伝わるだろう。
そして、今回の件でもし朝倉が約を違えて近江に攻め込んで来たとしても、幕府がそれを咎め、領土返還や損害賠償の仲介など出来る訳もなく、六角は泣き寝入りになるだろう。
「そ、それでは」
「塩津浜には予定通りに中務太夫賢永に入ってもらい、若狭守にも兵を率いて入らせる。朝倉が近江に入ってくるようであれば、小谷の蒲生左兵衛大夫にも兵を出させよ」
おそらくではあるが、朝倉が近江に入る事はないだろう。一向宗との和睦もしくは同盟関係でもない限り、朝倉は多くの兵を動かす事は難しい。とてもではないが、単独で六角と戦をする事は出来ないのだ。
「俺が兵を率い、高島郡から若狭を覗う。ただ働きは性に合わぬ故、熊川の沼田でも調略致すか」
「されど、沼田は幕臣に名を連ねております。中々に難しき事かと」
「名誉では腹は膨れぬ。今の熊川城主は沼田弥七郎統兼だったか? 確か外様詰衆であったような…」
「御屋形様、熊川を領しているのは沼田弥七郎で相違ございませぬが、あれを城というには些か…」
この1560年には、まだ熊川城は築城されていないのか?
ああ、築城したのは沼田清延だったかな。流石に若狭までは解らぬな。この沼田氏の出身で、後の津軽為信の家老にまでなった沼田祐光という人物がいたような、いなかったような。その姉が細川藤孝の嫁だったような。
「ならば、俺が城を築城するか」
「若狭国でありますぞ? 流石の御屋形様といえども…」
磯山城、今津城、塩津浜城、今浜城とこの一年強で立て続けに築城をした事によって、家臣達の間で俺は築城狂いのように噂されている。家臣達の顔にも『ええ、またか?』のような表情が垣間見えた。
「築城して、そこに沼田を入れるのでございますか? 沼田も幕臣でございますぞ?」
恩に感じないか。確かに、将軍家からお褒めの言葉はあっても、何一つ恩賞はなく、敵対すれば邪魔なだけの城になる。
熊川周辺だけ恩賞として貰って、沼田一族には近江で所領を与えるか。若狭熊川から高島郡へ延びる道は、後世では鯖街道として名を馳せる程に利用者が多かった道だ。若狭小浜で水揚げされる海産物の塩漬けなどを京へ運ぶ道として重宝された。
出来る事なら後の事を考えて、この道を整備したい。越前の一部である敦賀を取れれば、この道の利用価値も半減するが、それまでは必要な道だろう。
「但馬守、治部少輔殿と伊豆守殿の和睦に関する使者の役目を申し付ける。その際に熊川に寄り、沼田氏現当主の為人、家族構成、思考、願望など大まかで良い故、探って欲しい」
「はっ。武田右衛門佐殿が若狭に戻られるのに同伴させて頂き、後瀬山へ赴きまする」
若狭から三好軍が手を引くのは、畠山、六角連合軍と戦う為であったように記憶している。この世界では、俺が足利と距離を取っている為におそらく畠山との連合軍は成立しないだろう。とすると、いつまでも三好は若狭から手を引く事はなく、若狭が三好に取られる可能性もあるという事になる。
若狭に三好の勢力が出来るのは、足利家でないが好ましくない。それならばまだ朝倉の方が良いかもしれない。朝倉と共同で三好を追い出すのもありといえばありだろうが、その後の若狭領有権で揉める事は間違いないだろう。
「もし、治部少輔殿と伊豆守殿の和睦がなって尚、逸見某が兵を引かないようであれば、その時は纏めて潰し、居城を奪う。その居城を武田に返還する対価として熊川地区でも所望しよう」
「確か、逸見の居城となれば、砕導山城と高浜城となります。海に面した交易の盛んな場所と思われますが、その対価に山奥の熊川とは、些かお人が良すぎるかと」
俺の言葉に、三雲対馬守が意見を口にする。流石、ここ最近越前と若狭に人を出すようにしていただけはある。しっかりと居城の名と場所を把握していた。これだけでも諜報員となる忍びのような者達が必要になるのだが、この時代はまだまだ俗にいう草の者達の有用性は理解されず、評価が低い。
もう一つこういう家が家臣に欲しい。伊賀国を調略してみるか。仕事を依頼するのではなく、家臣として召し抱え、伊賀の土地を与えて開発を手伝えば、何とかなるか…
伊賀か、確か今はまだ仁木家が守護職にあるのだったか…。いや、今は若狭を何とかしなければ。
「まずは若狭へ入る経路の確保が肝要。海の側の地を手に入れても飛び地となり、費用も人も無駄になる。逸見某など若狭の影の一つでしかない。一つの影が無くなれば、すぐに次の影が現れる。その全てを除去する以外にあの国を統治する事は不可能だ」
「武田家では難しいとお考えで?」
「難しいのではなく、不可能だ。元々、若狭武田は丹後の一部すら領収する程に勢力を広げる勢いを持っていた。それを若狭に逃げ込んだ無能管領の願いを受け入れて丹波に攻め込み、守護代である内藤家に養子に入った松永弾正の弟に敗れた挙句に若狭に逃げ帰った。家臣達からはその方針に対しての追及を受けて治部少輔殿は隠居だ。要は舐められているのよ」
正直、まだまだ封建制度という程に主従関係が確立していないこの時代では、上に立つ者が舐められては終わりだ。相手を叩き潰して家ごと滅ぼすか、その者を殺すかしなければ舐められ続ける。そして、そんな蔑みの視線、態度は対処が遅れれば伝染し、蔓延するのだ。
この時代の若狭は、伝染病に掛かった動物のような物だ。病原体を全て駆逐しなければ、いずれ死に至る。
「三好の介入が無ければ、六角が海を手に入れる時は近い」
その俺の呟きに、周囲にいた評定衆達の顔色が変化する。ある者は青褪め、ある者は高揚し、唾を飲みこむ者もあった。
信長が尾張を統一するのにあと五年。美濃を含めた濃尾統一をするまであと七年。それまでに若狭、近江、伊賀、北伊勢までを六角領にしておきたい。
三好長慶が逝去するまであと四年と考えると、三好家の勢いを止めておく必要もあるだろう。この世界でも既に家督を嫡男である義長に譲り、居城の芥川山城を出て飯盛山城へ移っている。史実通りであれば来年には十河一存が死去、1563年には嫡男の義長も死去する。今を抑えておけば、三好は時代と共に自滅するだろう。
永禄の変が起きなければ、将軍擁立の大義名分もなく、織田信長の上洛の名目もなくなる。既に史実が狂い始めている以上、最早俺の頭に残っている史実の記憶も役には立たない事が多い。
悩みは尽きない。