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江南の夢(不定期連載)  作者: 久慈川 京


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二条御所炎上



 六角の軍が二条通を越えると、三好軍が見えてくる。しっかりとした陣立。既に戦の準備は万端なのだろう。

 足利義輝が築いた二条御所は『二条』とは名ばかりで内裏のすぐ傍の一条通にある。通りを挟んだ先には帝がおわす内裏があり、燃え上がる二条御所の煙が内裏御所へ届いていた。この時点でかなりの不敬なのだが、三好家としては早急に内裏へ人を送りたかったとしても公家衆は三好よりも六角家寄りの者達が多かった為、内裏に人を入れる事が叶わず、流石に兵を向けるという事までは畏れ多く出来なかったのだろう。

 六角家として、まずは目賀田摂津守忠朝、目賀田淡路守貞政の親子に二千の兵を与えて内裏へ先行させている。宿老筆頭となった摂津守は朝廷への使者も兼ねている。参内が出来る官位ではないが、摂津守には何度か朝廷への献金の為に公家衆との交渉役を担っているため、話も通しやすかったのだ。

 朝廷も見返りを求めない六角家を最初は訝しく思い、警戒をしていたが、毎月必ず朝廷への献金、献物を行う六角家の姿勢にいつしか警戒感も薄れていた。余りにも見返りを求めない六角家に対し後ろめたさを感じたのか、官位の伺いなども来るようになったため、宿老達の嫡男への官位の無心を行った経緯もある。


「流石にここでの戦は避けたいな」


「三好への使者を送りますか?」


 ここは余りにも内裏が近過ぎる。ここで戦など行えば、被害は甚大であり、この中心部で暮らす者達も多いため、ますます京は荒れてしまう。

 高島郡の叡山の事もあり、出来るならば時間も掛けたくはない。三好側とてここで六角と全面戦争はしたくないだろう。兵数の差もほとんどない為、勝敗は時の運に近い。どこかの馬の嘶き一つで勝敗が変わるような博打を打つ場面ではない筈だ。

 必ず和睦に乗ってくる。叡山を動かしたのが三好なのだとすれば、確実に和睦を受け入れる筈だ。


「そうだな。六角家は朝廷の守護の為に山城に入った事。三好が二条御所の制圧にて満足し、摂津に退くのであれば、六角もまた近江へ退く旨を伝えよ。使者の役目を後藤但馬守に任ずる」


「承知致しました。但馬守殿へお伝え致します」


 今は既に隠居の身ではあるが、三好家からすれば未だに六角宿老家の一つだろう。しかも両藤の一つとなれば無碍には出来ない筈だ。使者は殺される危険もある役目ではあるが、この場面で六角家の重臣を殺すほど愚かではないだろう。もし、万が一そのような事があれば、六角家全軍をもって三好家を滅亡まで追い詰める。摂津、河内、和泉を奪い、大和を平定してから四国へ進む。少なくとも淡路までは絶対に奪う。


「ならば、摂津守の戻りを待つとしようか」


 陣幕の中で床几に腰を落とす。前方に見える黒煙が一つの時代の終焉を告げている。三好家は史実通りに平島公方を将軍として擁立するのだろうか。将軍を殺したとはいえ、史実とは異なり襲撃のようなものではなく、純粋な戦の最中の出来事である。

 義輝も死にたくなければ戦などに出なければ良いし、起こさなければ良い。わざわざ戦を起こし、前線に出たのだから本来は覚悟をしておかなければならないのに、最後の最後まで将軍は殺されないという理解の出来ない理屈を信じていたのだろう。

 戦の勝敗は武士の理であり、そこで討ち死にしたとしてもそれもまた時の運である。そう考えなければ、武士などやっていけないだろうし、戦などやっていけない。


「三好家は苦しい立場になりましょうな」


「ふむ。どんな理由があろうと、主殺しは主殺しだ。そして未だ当主が定まっていない状態であるとはいえ、主導した三好日向守長逸と三好右衛門大輔政康は風当たりもきつくなろう。自ら新たな将軍の擁立をするしかないだろうな」


 それでも史実より厳しい筈だ。史実では将軍弑逆は三好義重(後の義継)が主導者の一人とされている。だが、この世界ではまだ三好家の正式な後継者は定まっておらず、主殺しの主犯は三好長逸と三好政康の二人である事に間違いはない。

そもそも史実で後継者となった三好義重は三好長慶の末弟である十河一存の子であり、系譜で言えば三好宗家を継げる者ではなかった。だが、十河一存の忘れ形見となった子供を三好長慶は手元で養育する事を十河家家臣達に誓って引き取った経緯もあり、世子であった義興を失った折に引き取っていた十河一存の子を後継者へ指名したのだ。

 それは、他の有力家臣、特に三好長慶の二人の弟達の子供には不満であったろう。順序を考えれば、次男である三好実休の息子達がおり、その次にも三男の安宅冬康の息子もいたのだ。表立った家督争いはなくとも、陰険な家督争奪に向けての動きはあったのかもしれない。

 将軍弑逆の後、三好は三好義重派と三好三人衆派に分かれるが、将軍弑逆時に三好三人衆の一人である三好長逸も加わっていたことを考えると、三好義重は罪を押し付けられ、擦り付けられただけの神輿だったのではないかとさえ思えてくる。


「やはり、平島公方を…」


「うむ。流石に覚慶様を担ぎ上げる事はせぬだろう。大和を抑えた弾正忠がその身柄を抑えていたとしても、兄を殺された人間が神輿となると考える程、三好も浅はかではなかろう」


 史実のように将軍を弑逆した罪を全て三好義重に被せた三好三人衆は、義重との対立を深めてから平島公方である足利義親の将軍宣下へ加速させている。将軍を殺した罪を切り離し、帝から天盃を下賜された三好長逸を中心に新たな将軍を担ぐことで正当性を持たせようとしたのかもしれない。

 だが、今この場所で、三好長逸と三好政康に正当性はない。幾ら戦の最中とは言え、将軍を討った事実は変えようがなく、武家としての正当性はあっても、封建社会での正当性は皆無だ。そして、この場所に六角軍があり、帝への使者も既に六角が先んじて出している今、彼らが帝から天盃を賜る事はなく、足利義親を擁立するという大義名分も失われるだろう。

 史実では三好が分裂しようと、彼らの横暴を軍を上げて阻止できる勢力は、美濃と尾張を領する事になった織田家が台頭するまでなかったが、この場では既に百万石以上の大領を領する六角家があり、分裂した三好家では抗う事の出来ない存在となっているのだ。


「しかし、いずれは強引にでも将軍宣下を願い出ましょう。それが平島公方となるか、覚慶様となるかは解りませぬが…」


 隣から絞り出されるような声が出る。声のする方へ視線を向けると、馬淵兵部少輔建綱が腕を組みながら声を出していた。史実では観音寺騒動の折には親後藤派の筆頭として存在感を示していたが、この世界では俺と朝食を共にするほどの関係を築いており、宿老に次ぐ実力者となっている。


「どちらでも結構。だが、六角が京の横を抑えており、その六角が今の世に征夷大将軍は不要と唱えていれば、安易に将軍宣下など行えまい」


 周囲に沈黙が広がる。かなり重い沈黙だ。

 自分達が主君と仰ぐ者が『征夷大将軍など要らぬ』と唱えたのだ。それは驚きもするし、言葉も出ないだろう。聞き方によっては、『自分に主君は要らぬ』と言っているのと同義で、『自分こそが天下人だ』と言っているとも取れるからだ。


「そも室町に御所を開かれ早二百数十年、この日ノ本が落ち着いていた時など一度たりともない。各地での戦乱により民は疲弊し、落ち着きを取り戻したかと思えば将軍自ら争いを生み出す。それでは何の為の武家の棟梁なのかと思わざるを得ぬ」


「しかし、鎌倉殿より四百年近く、武家の棟梁がおられぬ時代はございませぬぞ?」


 鎌倉幕府を源頼朝が起こしてから既に四百年近くが経過している。四百年と言えばあっさりしたものだが、現代人の感覚で四百年となれば関ケ原の戦い近くまで遡るのだ。それほどの長い時間、日ノ本の武家という物が存在し、それを統括するための幕府という機関が存在していたという事になる。

 現代日本でいう西暦2020年前後と考えても、江戸時代が終わってから考えても未だ百五十年余りしか経過していないのだ。百五十年前にはまだまだ日本という国には武士がいて、頭に髷を結っており、月代を作っていたと考えると、この鎌倉からの室町末期までの四百年という年月がどれほどに長いか理解出来るだろう。


「その方らは今の近江の民が争いを望んでいると思うか? ようやく実りを齎し、銭が落ち始めた伊賀の民がまた荒地へ戻る事を願っていると思うか? 我らは武家であり、降りかかる火の粉は払わねばならぬ。自領を守る為に戦はするし、攻められる前に攻める事も必要であろう。それぞれが野心と野望を持つのは良いが、それでも民が安息を求めている事を忘れてはならぬ。民の安息なくては、我ら武家の食料、銭、衣服に至るまで揃える事は出来ぬ。武家は民の安寧を考えてこそ、領地を治める資格を持つのだ。それを脅かすのが武家の棟梁であり、幕府であれば、そのような物は要らぬ」


 再び場が静まり返る。皆が口を閉じ、固まったように動かない。この時代の武家にとってはかなり刺激の強い主張であったかもしれない。

 少し早まったかな。

 皆が今の幕府と幕臣、そして亡くなった足利義輝に不満を持っていた事は確かであるが、幕府という機関までをも否定していた訳ではない。四百年続いた、有って当たり前の機関であり、現代で『日本政府は最早無用。それぞれの自治団体で治めるべき』と口走ったようなものだからな…。


「御屋形様、後藤但馬守殿、目賀田摂津守殿お戻りになられました」


「通せ」


 誰もが口を塞ぎ、重い沈黙が続く中、朝廷への使者と三好への使者の両者が同時に戻って来たという知らせが届く。

 陣幕の中に二人が入って来る。二人とも甲冑姿ではある為、出された床几に腰かけ、深く頭を下げた。


「両者ご苦労。まずは摂津守から聞こう、首尾は?」


 後藤但馬守賢豊は既に隠居の身である事を考えれば、この場では目賀田摂津守を優先するのが正しいだろう。後藤但馬守にも不服は見られない。更に言えば、三好家よりも朝廷を優先させるのは当然といえば当然なのだ。


「はっ、此度、亡き公方様のご生母様とご正室様をお届けした誼を頼り、畏れながら(さき)の関白様へお目通りを頂きました」


「なに?」


 意外であった。前の関白となれば、近衛稙家の事だろう。史実では1566年には中風の悪化で亡くなっている。中風とは現代の脳卒中の事らしいが、実際は何かという事は解らない。ただ、死んだ日が日記として残っているのだから、その日付は確かだろう

 その人物が生きているというのにまず驚いた。俺がいる事で死んでしまった者がいる以上、逆に俺がいる事で生きている人間がいても可笑しくはない。だが、直接影響を与えていない所でその変化があるというのも何処か釈然としないものがあった。


「前関白様が申されるには、やはり参内は難しいとの事。無理にでも参内すればそれは他の公家衆が六角家へ悪しき想いを持ちかねぬと。公方様亡き今、それは六角家にとって好ましい事ではなかろうとの事にございました」


「ふむ。尤も至極だ。無理に参内する必要はないか。但し、今回の叡山とはこれまでとは異なる。前関白様には金蓮院准后様の御身の保護をご依頼申し上げよ。叡山を焼くような事はせぬが、それでも僧兵がいる以上、戦闘にはなる故と申し上げるのだ」


 現帝である『正親町天皇』の弟とされている『覚恕』は史実では次期天台座主だ。1566年の段階ではまだ座主に至ってはいない。現在の座主は応胤法親王と呼ばれる御方で、伏見宮貞敦親王の第五王子になり、皇族の一人ではある。

 その先代も親王家の子であり、歴代の天台座主は皇族が多かった。鎮護国家を謳っているのだから、皇族が座主になる事に違和感はないが、それこそ足利将軍家からも摂関家からも座主が出ていたのが、室町中期に入ってからは親王家や皇子が座主となる事が多くなっている。それほどにこの時代の皇家の貧困が酷かったのだと実感する。


「承知致しました。延暦寺侵攻への勅許を願い出る訳ではないのでございますな」


「そのような勅命が降りる訳がなかろう。だが、前関白がその辺りを気になされるのであれば、『兵を以て近江堅田、坂本の町を蹂躙するのであれば、それは最早僧にあらず。我ら同様の武家と見做し申す。武家には武家の慣らいにてお相手するのみ』とお答えせよ」


 武家と武家の争いに首を突っ込んできたのだ。それは武家として対処するべきだろう。もし、座主を含め別当や学侶などの指示によって衆徒や悪僧のような武装した僧侶達が動いているのだとすれば、織田信長のように延暦寺そのものをこの時代から抹消するしかない。

 六角家は延暦寺の寺領を横領してはいないし、寺領からの年貢徴収も邪魔してはいない。ただ、彼らの主力収入の一つである『私出挙』と呼ばれる高利貸しは六角家が原因で回らなくなっている可能性はある。堅田を抑え、坂本の城下町を広げ、船木の港や栗見の港を整備し、その作業による給金も支払う事で町全体に賑わいと活気が出ていおり、農地の収穫量も徐々に上がり始めた今の近江では、年利で50%を超えるような延暦寺の金貸しには手を出さなくなっている事は確かだ。

 そういう意味では収入源を奪われた報復を指示したとしても可笑しくはないのかもしれない。


「但馬守、三好はどうだ?」


「はっ、休戦に概ね同意を示されております。但し、三好日向守の参内を望んでおります」


「却下だな。将軍殺しの謀反人を畏れ多くも主上のおわす内裏へ通す事は出来ぬ。ここでの休戦の申し出は、この場所で戦を行う事は主上への不敬に当たる故の事。三好との戦闘を避けたい訳ではない」


 三好家は何としても参内し、自分達の正当性を訴えたいのだろう。史実ではこの三好の暴挙を止める事が出来る勢力が機内にはいなかった。六角家は浅井に圧され、南近江を守る事で精一杯であり、大和は混迷を極め、紀伊の畠山氏も度重なる戦で疲弊をしていた。だからこそ、史実のような弑逆という大義名分のない将軍殺しも正当化され、主殺しを行った三好家によって次期将軍が推挙されても誰も何も言えなかったのだ。

 だが、この時代は違う。足利将軍家との不仲は噂されても将軍の命に従って若狭出兵を行い、裏切られても報復も行わず、唯々諾々と従って来た六角家が所領百万石を越えて京の都の東を抑えている。それは三好が好き勝手を出来ない事を示していた。


「対馬守、先ほどの足止め勢の多くは摂津衆であったな。池田城の池田某、それに属しておる中川、荒木などに声を掛けよ。このまま三好日向守、三好右衛門大輔らと共にするのかと。今すぐでなくとも良い。いずれ答えを聞く事になろうとな」


「はっ」


 今すぐに摂津に攻め込む訳にはいかない。『主君殺し』の弔い合戦という大義名分はあるが、山城国を放置して摂津国へ攻め入るほど六角家の足元は盤石ではない。越前敦賀郡は六角中務大夫賢永を中心に大谷吉房や近江から移封になった小川祐忠によって着々と防衛施設が整備され、朝倉側も安易に木ノ芽峠や山中峠を越えられない状況にはなっている。

 だが、逆に言えば、朝倉家の南下する逃げ道を完全に塞いでしまったとも言えるのだ。こうなると、朝倉家としては敦賀郡を取り戻すために全勢力で敦賀郡を攻めるしかない。だが、後背には加賀一向衆が控えており、越前も元々一向門徒が多い為、城を空にすれば一向門徒に越前国自体を奪われかねない状態とも言えるのだ。まだ六角も一向門徒二万人を相手にする余裕はない。何とか朝倉には気張って貰いたい。

 また伊賀は大和と隣接しており、混迷を極める大和の影響がないとも言えず、北伊勢の東は心配ないとしても、南の北畠は虎視眈々と豊かになった北伊勢奪還を目論んでいるだろう。工藤長野氏に入れている間者からも北畠前当主である具教から、工藤家へ養子に入れた具藤へ使者が何度も送られているという報告が上がっている。


「二条御所を燃やした事が仇となったな。どうしても三好が引かないとなれば、心苦しいがこの場で一戦を交えるしかなかろう。叡山の糞坊主共には時間を与える事になるが、山城守と隠岐守がおれば、早々に崩れる事もなかろうて」


「畏まりました。再度、赴きます」


「但馬守、その場に喜三郎も連れていけ。三好日向守、日ノ本の副王を支えた大叔父にあたる人物だ。その気迫や雰囲気を直に感じられるのも成長に役立つだろう。いずれは壱岐守(後藤治豊)を補佐し、後藤家を支えて行かねばならぬのだ。副王の大叔父とはいえ、三好家家臣程度は軽くあしらえるようになってもらわねば困るからな」


「はっ、承知致しました」


「案ずるな、此度は警護として吉田和泉守重高と藤堂源助虎高を付ける。必ず帰って来い。もし身の危険を感じた際は逃げる事を優先せよ。六角本隊が必ず動く故」


「…有難き幸せにございます」


 ここで後藤親子を失うわけにはいかない。隠居の身とはいえ、後藤但馬守にはまだまだ働いてもらわねばならないのだ。まだ新当主となった壱岐守治豊は但馬守には遠く及ばない。父譲りの智謀と、早くに城主となった経験から六角家内であっても頭一つ抜けてはいるが、それでも宿老になるほどではないのだ。


「和泉守、源助、但馬守の事、頼むぞ」


「はっ、承知致しました」


「はっ、某の命に代えても御守り致します」


「命を懸けるな。其方もまた大事な家臣故、必ず帰って来い」


 吉田和泉守重高は、吉田出雲守重政の嫡男であり、日置吉田流弓術の正当なる後継者だ。我が父六角義賢によって一悶着も二悶着もあった吉田流弓術の継承だが、先年に無事に俺の義理の兄弟となって、日置吉田流弓術家伝の伝授が終わった。

 この吉田重高であるが、我が父承禎入道よりも十以上年上であり、既に現時点で五十を越え、六十に差し掛かっている。俺は父よりも年上で、自分よりも四十近く上の義兄がいるのだ。

 この日置吉田流弓術家伝継承に関しては、俺が目覚めた事によって、承禎入道は俺への継承を考え始めてしまった。それに気づいた俺が、吉田家との関係悪化を危惧し、早々に重高を養子に迎えるように父を叱責し、未だに健在である吉田重政へも進言する事で史実よりも早くに家伝継承が終わったのだと思う。重高は現六角当主の身でありながらこの件で奔走した俺に恩義を感じているらしく、遥か年下の義弟に並々ならぬ忠義を示すようになった。

 俺としては、六角家の重臣である吉田家の離反とならなかっただけでも安堵したものだ。


 もう一人は藤堂虎高。かの有名な藤堂高虎の父親である。元々は三井家に生まれでその後甲斐武田家に仕え、武田信虎から偏諱を授かる程に重用されたが、他国者である虎高への妬みにより武田家から出奔。近江に戻ってきて藤堂家に婿養子に入ったという。

 既に嫡男と次男である後の藤堂高虎も生まれている。浅井家滅亡と同時に六角家に帰順し、朝倉との戦いでは六角側に残った北近江衆の一人であった。

 その功に報い、藤堂虎高に犬上群に領土を与え、後藤壱岐守の寄騎として働いてもらっている。直接会って話せば、なるほど知勇兼備の男である事が解り、何故これほどの人間が浅井麾下では頭角を現さなかったのだろうと不思議に思うほどの男であった。


「全軍に伝えよ。最悪三好との戦になる故、気を緩めるな」


「ははっ」


 その後、再び内裏へ赴く目賀田親子と、三好へ向かう後藤親子を見送り、一人静かに考えに耽る。現状、叡山の僧兵達が坂本の町へ降りて暴れてはいるが、正直千人に届くか届かないかの話だ。以前の争いで叡山へ僧兵の解体を要求しているが、それに応じる事はなかった。それでも大人しくしてはいたので放置していたが、今回はそうもいかない。

 もし、三好が叡山を動かしているならば話は簡単だが、実際に北畠や朝倉が絡んでいれば、六角は北や南からも攻撃を受ける可能性もある。


「対馬守、父上には『坂本の事心配に及ばず。伊賀、北伊勢への警戒をお願い致す』とお伝えせよ」


「承知仕りました」


 危険なのは北伊勢だな。北伊勢は既にかなり潤っている。白子に築城していた城も完成し、その周辺の港町も出来上がりつつある。水揚げされた鮮魚の加工所なども六角家で運営し、周辺の漁師の家族を雇う事で領民達からもかなりの支持を受けていた。

 白子城は近くにある御座ヶ池周辺を農地として開拓を進め、今年の収穫はかなり期待できるだろうという報告も上がって来ている。北伊勢統治の最前線でありながらも、中心地になりつつあるのだ。

 それは伊勢国司であり、長年北伊勢の統治に動いてきた北畠家にとっては許せない事であろう。工藤長野家へ養子を出して乗っ取り、北伊勢侵攻の足掛かりを作った途端に六角が北伊勢に侵攻し、全てを搔っ攫ったのだ。


「…長嶋も忘れるな。狛、木村、建部、種村にも願証寺への警戒を怠るなと伝えよ」


「ははっ」


 今はまだ織田とは同盟中だ。史実でも織田側から一方的に同盟を破棄した事はない。織田信長という男は部下が無断で取り付けて来た約束は反故にする事を厭わないが、自身が約した事は守るという不思議な面があるようにも思える。

 そう考えれば、伊勢長嶋を支援するような事はしないだろう。もし願証寺の後ろ盾になるような事をするのならば、まだ美濃を取り切れていない織田家にとって悪夢のような事を仕掛けてやろう。

 落ち着いたら一度織田信長と膝を付け合わせて語り合いたい。日本一有名な戦国武将であり、戦国大名なのだ。その顔を見てみたいし、その声を聞いてみたい。出来る事ならば、その頭の中にある未来予想図を聞いてみたいし、それに対して意見してみたい。

 その時が楽しみだ。


「後藤但馬守殿、お戻りになられました」


 色々と指示を出し、考えに耽っている間にかなりの時間が経過していたようだ。

 三好家へ赴いていた後藤但馬守が戻って来た。護衛も含めて全員五体満足で帰還した事を見れば、交渉は無事に進んだという事だろう。


「但馬守、ご苦労であった。和泉守、源助も護衛大義であった」


「只今戻りましてございます」


「喜三郎も入るが良い」


 俺の勘気に触れたばかりの喜三郎は戻ってきた際に陣幕へは入らずに但馬守に制されたのが見えた為、そのまま陣幕内に招き入れる。但馬守を先頭に俺の前で膝をつき、帰還を挨拶を交わした後で本題に入る。


「して、首尾は?」


「明朝、明け六つに両軍順次退く事に同意頂きました。但し、三好軍が五条を越えてからの六角の移動となります事も承諾頂きました」


「ふむ。三好日向守、不満はなかったか?」


「日向守殿は黙して語らず。但し、右衛門大輔殿が三六会談時の誓紙を持ち出しました」


 三六会談か。後世では残りそうな名称だな。あの時の誓紙は六角家は三好家への軍事行動をしない旨を記してはいるが、それは所詮は三好長慶、義興親子が生きていた時の事。そして、あの約にはしっかりと但し書きがあるのだ。


「しかしながら、誓紙には『将軍家からの三好に対する軍事要請には応じない』との旨のみ記されております。此度は畏れ多くも主上の御身を御守りする為の出兵であり、それに対して三好が攻勢に出るのであれば六角家としても戦となる事已む無し。また、山城国を取る際には六角家も三好と争う旨も記されております。山城国に三好軍が居座るようであれば、これまた戦も已む無しとなりまする」


「うははははっ。但馬守、見事。流石は長年六角(むすみ)の一つを支え続けて来た宿老よ」


 此度の六角の出兵は足利幕府からの要請ではない。その証拠に我らは二条御所への救援には赴いておらず、二条御所ではなく、真っ直ぐ内裏へと向かっている。つまりは足利将軍家からの軍事要請で動いてはいないのだ。

 六角家は三好家と同盟を結んでいる訳でもなく、ましてや従属関係を結んでいる訳でもない。独立した武家である以上、必要とあらば戦になろう。そして、今がその時であるという事だ。


「喜三郎、父の仕事ぶり、しかと見て参ったか?」


「…はっ」


「これが六角の六角(むすみ)を支えて来た父の姿だ。浅慮、短慮ではいかぬ。俺もまた、偉大な父左京太夫義賢の大きな背中を見上げながら歩んで来たが、未だ越えられぬ。その方も精進せよ」


「…お恥ずかしい限り存じます。精進致します」


 父の背というのは、一生かけても越えられないものだ。収入や地位が上になっても、幼い頃に見て来た父の背中はとても大きく、自身がその頃の父と同じ年になれば、今の自分と父を比べてしまい落ち込む。例え周囲から見れば越えていたとしても、自分の中では大きなままなのだ。この喜三郎にとっても、六角の両藤と称えられた父の背中は遥か聳え立つ大きな物であろう。


「皆の者、話は聞いたな。明け六つには退陣出来るように支度を致せ。内裏の警備の為に摂津守を残すが、他は引き上げるぞ」


「御屋形様、山科郡は如何致しますか?」


「この状況でまだ三好への義理立てをするのであれば、望み通りにしてやれば良かろう」


 山科郡に城を持つ四手井氏などは三好側に付いていたが、今回の出兵時に恭順を示して六角家臣となっている。その他の小豪族などはまだ旗色を明確にしていないが、この時点でまだ曖昧であるならば、帰りがけに滅ぼすのも一つだろう。

 山科郡は元々は本願寺などの寺が多い場所であり、今の六角家にとってはあまり良くない場所でもある。その色を消す為にも山科郡にも城を築きたい。音羽川と安祥寺川の間にある栗栖野辺りが良いのかもしれない。また重臣達にあれこれ小言を言われそうだが。


「摂津守が戻り次第、伝えよ」


「承知致しました」


 足利将軍家が滅び、山城国は空白地帯となった。徐々に六角が山城国の掌握に出るか、それとも厄介な場所として放置するかは考えどころだが、取り合えず、近江との境である山科郡だけは抑えよう。

 さて、生臭坊主共と雌雄を決するか。




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― 新着の感想 ―
後藤さんに、即座に挽回の機会を与え名誉回復させました。 万座の中で称賛し、父親の威厳を確保し、自分を例に上げて励ました。 よい上司ですね。
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