観音寺帰城
萩が倒れてから二日が経った。今は時折辛そうにはするが、それも子供が出来た事によるものだという喜びからなのか、笑顔で受け止めているようだ。俺の頭に残っている拙い知識にある『妊婦の足元を冷やしてしまうと逆子になる』という物に従い、よねに萩の腰元から下を常に暖かな布などで覆うように指示を出している。外を散歩する時なども着物の下に下半身を覆う物を着用させ、家にいる時は下半身に外襦袢を掛けさせた。
あの後、すぐに観音寺城へ使いを走らせ、萩の懐妊と俺が暫く栗見に駐留する旨を伝えると、その返答として六宿老の一人である平井加賀守本人が飛ぶように栗見に入り、萩と俺に祝いの言葉を述べている。
だが、それよりも前に使いを出している幕府からの使者は、二日経過した今も尚、この栗見に姿を現してはいない。細川兵部大輔藤孝、もう少し使える人間かと思っていたが、所詮は腐った室町幕府に仕える幕臣の一角という事なのかもしれない。
「御屋形様、此度の慶事、観音寺城でも大きな騒ぎとなっております。特に大殿などは祝い酒だと山城守殿や摂津守殿を巻き込んで大騒ぎしておりますぞ」
「父上は澄酒が飲める口実が出来て喜んでいるだけではないのか?」
先程まで萩との会話を楽しんでいた平井加賀守が喜びの笑みをそのままに観音寺城内の事を報告している。進藤山城守賢盛と目賀田摂津守忠朝は父と年齢が近い。両名ともに先代である父親の跡を継いで宿老の立場におり、苦楽を共にしたという意味では父承禎入道にとっては他の宿老達よりも上なのだろう。
しかし、萩の懐妊がここまで観音寺城で喜ばれるとは考えていなかった。もし、萩が男子を産めば今の所はその子が嫡子となり、六角宿老の中でも平井家の力が一段上になってしまう。家中でもそれを良しとしない者が多いだろうと予想していたのだが。
「加賀守、いや義父上、一つ申しておく」
「これは御屋形様、如何なされましたか?」
平井加賀守定武。俺の祖父である六角定頼の時代より家臣として力を発揮し、父六角義賢の時代では六宿老の中でも一、二を争う実力者であった者。人の好さや優しさのみでその地位に就ける訳はなく、彼もまた欲望渦巻く六角家中で力を蓄えて来た一人なのだ。
六角嫡子の外祖父としての権力を欲していても不思議ではない。もし、平井家がそれを欲していたとすれば俺とは対立する未来が待っているだろう。妻の実家を優遇する事に異論はないが、それでも妻の縁者だからと言って高い地位を与える事をするつもりはない。
その辺りは史実の織田家は上手くやっていたのだと思う。信長の嫡男である信忠は生駒家の娘が母であるが、その生駒家は馬廻りとして仕えてから各地で奮戦してようやく長島城城代に任命されるというようにしっかりと軍功を上げており、軍功に対しての見方が縁者という事で甘くはなっていても、突然織田家中枢に飛び出て来る事はなかった。
「お萩が男子を産めば、その子が六角家嫡子となる。其方は嫡子の外祖父となろう。まぁ、此度の子が女子であったとしても、俺はお萩以外を娶る気はない故、いずれは嫡子も産まれて来る筈だ」
「お話を遮るような形となり、お詫び致します。御屋形様がお抱えになられておるご懸念、理解しておるつもりにございます。この平井加賀守定武、例えご嫡男の外祖父となろうとも、変わらず一家臣として六角家に尽くす所存。既に我が嫡男である弥太郎高明にもその旨を話してございます」
流石は六角六宿老筆頭格の一人。俺の考えなど百も承知であったか。
実際の腹の内までは解らぬまでも、俺が妻の実家というだけで他家よりも重用するという事がないと理解している事は確かであろう。
「ある程度の厚遇は出来る。俺の愛妻の父母や兄妹なのだ。それに無体を働くような事はせぬ。だが、六角家という傘の下、平井家だけを優遇する訳にもいかぬし、我が子にもそれをさせることは出来ぬだろう」
「御屋形様のお言葉、この加賀守、真に嬉しく思うております。このようなお話を直に下さいます事こそ、御屋形様がこの加賀守を思うてくれての事と理解しておりまする。我が嫡子弥太郎にも、これからの六角家では実力を示す事が肝要である事を伝え、今は船木の発展に努めさせております。正直にお話すれば、娘の萩はあのままであれば尼寺へ入るしか道はございませんでした。それを御屋形様がお救い下さり、あの娘に子を宿す喜びも与えて下さりました。これ以上を望めば、天罰を受けてしまいます」
平井加賀守が朗らかな笑みを浮かべる。彼はこの戦国の時代には珍しい程に娘に愛情を持っている人物だったのかもしれない。武家の中には娘が産まれても興味を示す事無く、婚姻の道具としてしか見ず、嫁に送り出すまで会う事もなかったという者さえもいる時代だ。
その時代で、娘の事に対してここまでの笑みを浮かべる事が出来るのだから、その言葉は本心だと信じても良いのかもしれない。いや、俺が信じたいのだろう。
「弥太郎に官位を賜れるように手配をする。いずれ其方の『加賀守』を引き継ぐのだ。後藤但馬守の嫡男が『壱岐守』を名乗っているのだから、其方の嫡男は『隠岐守』が良かろう。懐妊祝いだ」
「有難き幸せに存じます」
後藤家の嫡男が名乗っている官位は従六位下に当たる『壱岐守』である。流石にそれより上の官位となれば、それに対してとやかく言って来る輩が出て来るだろう。父親である後藤賢豊が名乗っている『但馬守』も平井定武が名乗る『加賀守』も同じく従五位下の官位であるのだから、嫡男同士も従六位下で良いだろう。
壱岐は九州大陸と対馬との間にある離島である。ならば同じく離島であり出雲の北にある隠岐の官位が良いのだと思ったのだ。
それを考えると三雲家先代当主である三雲定持も従六位下の『対馬守』である。彼もまた宿老の一人であるのだから、従五位下の官位を持っていても可笑しくはなかった筈。やはり甲賀者の出身であり、佐々木一族ではない事が原因なのかもしれない。
もう少し功を上げれば、現当主である新左衛門尉賢持に『対馬守』を与えよう。現六宿老の嫡子達は従六位下で揃えるか。目賀田摂津守の嫡子も元服は既に数年前に済ませており、俺よりも年上であったように思う。これにも従六位下の官位を与えよう。この時代はまだ離島と言っても良い『淡路守』が良いかもしれぬ。
「御屋形様、某の願いを一つだけお聞き届け頂けますぬか?」
「…申してみよ」
先程まで殊勝な物言いをしていた加賀守の願いとなれば、かなりの無理難題の可能性を感じ、少し身構えてしまった。
真っ直ぐ俺を見ていた加賀守が座り方を改め、畳に手を付き深々と頭を下げる。所謂土下座のような姿勢に俺の警戒心が増して行くのを感じた。
「奥方様がお産みになられる御子が男子であれ、女子であれ、お会いするご許可を頂きたく…」
拍子抜けだ。まさかの孫に会わせろという嘆願だった。確かに先程も加賀守の言動から娘である萩への愛情は疑う余地がない。そんな愛娘が産んだ子であれば、遠い未来であれば爺馬鹿になる程に愛おしい存在であろう。
だが、実の孫であっても六角嫡子となる男子であれば、外祖父とはいえ頻繁に会わせる事は出来なくなるだろう。それこそ、周囲の家人から苦情が来る。
「当然だ。嫡男となれば、其方だけではなく定期的に家臣達と会う機会を作らねばならぬだろうが、女子であれば、何を憚る事無く会いに来てくれ。ただ、其方と俺で溺愛してしまえば、恐ろしく我儘な娘になりそうだな」
「気を付けまする。御屋形様もお気を付け下され。先程、奥方様よりお聞きしましたが、『娘であれば二十までは嫁に出さぬ』と申されたそうで。それでは行き遅れになってしまうと奥方様がご心配しておりました。良き縁を見付けるのもまた、親の務めにございまする」
「そうだな。良き縁を探す事もまた親の務めか」
平井加賀守の中では、萩の一度目の縁である浅井家は完全な失敗なのだろう。だが、それは加賀守の責任ではなく、六角家当主であった六角義賢の責なのだ。それを敢えて口にせず、誤りであった事も口に出さない。今が萩にとっても、加賀守にとっても良き縁だと思っていればそれで良いのだろう。終生そう考えて貰えるように生きて行かねばならぬな。
まだ生まれてもおらず、男か女かも解っていない子供の将来について語っている二人は、親馬鹿に爺馬鹿以外の何物でもないだろうな。
「ふふふ。父も爺もうつけであるな」
「これはこれは。確かに未だ産まれもせぬ子の嫁入りまで語るなど、うつけの誹りを受けても仕方ございませぬな。初孫でもございませぬのに、失礼仕りました」
二人で暫し笑った後、平井加賀守の表情が真面目な物へと変わるのを見て、俺も居住まいを正す。ここから先は政の話となろう。
一度白湯の代わりを持つように小姓へ伝え、それが届くのを待って口を開いた。
「して、室町よりの使者殿は未だに観音寺城か?」
「はっ。使者である細川兵部大輔殿は、この栗見にすぐにでも出立しようとされておりましたが、他の二人が騒ぎ立てましてございます」
「誰だ?」
使者は細川兵部大輔一人ではなかったか。進士や摂津が来る訳もなく、他に来るとすれば何度か訪れた事のある蜷川だろうが、蜷川であれば騒ぎ立てなどする筈もない。兄の三淵藤英でも来たのか?
「使者は細川兵部大輔殿の他に、一色式部少輔殿、大館陸奥守殿。正式な使者のお役目は大館陸奥守殿が担っておいでにございます」
大館陸奥守晴光。
姉が前将軍である足利義晴の側室となり、足利家でも重用されていた人間である。長尾景虎や北条氏康のような大物との交渉の責任者に抜擢されるなど、武家とのやり取りを得意としていた人物のようだ。有職故実に長じており、その見識は朝廷との橋渡しとしても重宝されていたが、義輝の代に入り、朝廷との関係が変わって来た事もあり、幕臣の中でも力を落として来ている。
「騒いでいるのは二人か?」
「どちらかというと一色式部少輔殿でしょうな。大館殿はかなりのご高齢の為、栗見までの道中は辛いという申し出にございます」
確かに、大館陸奥守の正式な年齢は解らないが、少なくとも六十は過ぎているだろう。この時代であれば生き字引のような年齢であり、京の室町から観音寺城へ来るだけでもかなりの徒労であろう。
一色式部少輔は、自身が幕臣である事、足利一門である一色家の出自である事、その一色家が侍所所司に任ぜられる四職の筆頭である事が自身の拠り所であり、それ故に他者を下に見て優越感を覚える事で何とか自分を保っておるのだろう。
「ならば、観音寺へ戻らねばならぬか?」
「畏れながら、お願い申し上げます。使者の方々はおそらく逗留を続けられると思われます。この二、三日は事情がおありの為、室町も納得せざるを得ないでしょうが、これ以上待たせれば不敬だと騒ぎ出しましょう」
信じられないな。何故ここまで自分本位で動けるのだろう。どうせ頼み事なのに、頼もうとする相手の都合などお構いなしに来て、相手の事情を汲む事無く自身の都合を押し通そうとする。未来の営業職であれば、一発で解雇される類の人間だぞ。
この状態で会っても、俺の心象など最悪を通り越しているという予想が出来ないのだろうか。しかも高齢の為に栗見まで来る事は出来ない。観音寺城まで来て貰っただけでも有難く思えというような態度で何を俺に頼もうと言うのか。正直、三好家に頑張って貰って足利など潰して欲しいわ。
「明日の朝、ここを立つ。加賀守には申し訳ないが、お萩の事を頼む。養生し、動けるようになれば、観音寺まで戻って参れ」
「承知致しました」
「間違っても、お萩を連れて粟田郡へ戻ろうなどとはするなよ。お萩を俺の元へ戻さねば謀反と見做すぞ」
「ふふふふ。しかと承知致しました」
その後、萩の部屋に行き、明朝に俺が観音寺城へ戻る事を伝え、萩は状態が落ち着き次第に父である平井加賀守と共に観音寺城へ戻るように話す。無理はせずとも良い故、まずは観音寺城下に入り、ゆっくり休んだのちに登城するようにとよねにもしっかりと伝えておいた。
明朝、まだ日も登り始めたばかりの薄暗い道を辿り、観音寺城へと進む。観音寺城には既に先触れを出しており、先日の襲撃も伝えてあったため、俺の出立時には五百の兵が栗見の港町の入り口で待ち構えていた。
半日で着く距離の為、大袈裟に感じたが、彼らからすれば主君が襲撃にあったという事自体が恥であり、当初は数千の兵を準備するという話さえ合ったのだ。
五百の兵達を率いていたのは、三雲新左衛門尉賢持
「御屋形様、今回の襲撃ですが、室町が裏におる事は間違いございませんが、御屋形様の行動及び日時などは伊庭氏が絡んでいたようでございます」
「伊庭? 既に竜光院様(六角高頼)の時代には没落している筈だが…。未だにこの近江におるのか?」
「…その後ろには修理大夫様がおるようでございます」
「なに? それこそ天敵に近かろう。伊庭は修理大夫殿の祖父である亡き近江守様(六角氏綱)に何度も反乱を起こしておった筈だ。敵の敵は味方だとでも言うつもりか?」
伊庭氏は百年ほど前にあった六角家の家督争いに乗じて近江守護代として力を有した一族である。その力が大きくなり過ぎ、六角高頼の時代に粛清され、俺の祖父である定頼の時代には近江の伊庭地区に一部が暮らす程度になっていた筈だ。
まさか、この時代になって欲を出すとは。
「それは伊庭氏の総意なのか?」
「いえ、伊庭氏の中でも派閥があるようで、六角仕官を進める派閥と六角打倒を叫ぶ派閥で争っているとの事。六角打倒派が同じく六角正統を謡う修理大夫様と結んだようでございます」
なる程。
ただ、今の六角当主である俺を殺したところで、修理大夫が六角家当主に成れる筈がないのだが…。それを理解出来ぬ修理大夫ではなかろう。六角修理大夫義秀は史実で織田信長に友と呼ばれる程に思慮深い人間であったと伝わっている。
想像ではあるが、幕臣が六角修理大夫の名を使って伊庭氏へ話を持って行ったのではないだろうか。修理大夫も与り知らぬ話かもしれない。
「それは真に修理大夫が表に出ているのか? 修理大夫がそこまで浅慮な人間だとは思えないが」
「…御屋形様、御屋形様はご自身の評価を見直された方がよろしいかと存じます。某のような者が言葉とすれば不敬となる事を承知でお話をさせて頂きます。今の六角家は御屋形様がおられるからこそ成り立っております。畏れ多くも御屋形様が身罷る事などございますれば、六角家は崩れまする。それは六角家中の者であれば誰しもが感じておる事。故にこそ、他国では六角家中以上にそう考える者が多くございます」
俺は確かにこの時代で生きて来た者達とは異なる考えを持ち、異なる価値観を持ち、持ち得ない知識も持ち合わせている。だが、戦国武将としての格で言えば下の下だろう。この近江の周囲には、尾張の織田信長が居り、その家中にはこの後二十年もすれば立派な国主となる者達が数多くいる。美濃にも有能な武将達は多い。越前には百年以上の間、国を守り続けて来た朝倉一族が居るし、今は劣勢でも海道一の弓取りと云われた今川義元の家臣達も残っている。
甲斐、信濃を領する武田家などが騎馬隊を率いてくれば、俺が大将でいる以上、負けは必須だろう。そして何よりも今は衰退の陰りが見えてはいるが畿内の覇者である三好家がいる。その三好家と争い続けて来た六角義賢が健在である以上、俺が死んだ所で六角が倒れるとは思えない。寧ろ俺が死んだ方が六角は強くなるのではないか。
「ご納得頂けないようにございますな。しかし、これは六角六宿老と呼ばれた方々全員のご認識であり、大殿であられる承禎様のご認識でもございます。先日の襲撃に関しましても、御屋形様がその予測を一部の者達にしか伝えておりませんでした為、観音寺城内は一時混迷を極めておりました。その後、大殿を始め皆様のご叱責を某が受け申した」
「そ、それは済まぬ事をした」
情報が洩れる事を恐れ、栗見での襲撃に関しては一部の者達にしか伝えてはいなかった。甲賀者を束ねる三雲新左衛門尉と、伊賀者の代理である森田新右衛門には伝え、護衛の永原太郎左衛門重虎にも打ち合わせの為に伝えていた。後は萩の父である平井加賀守にも伝えてはいたが、詳細は話していない。
確かに何も知らねば、その襲撃が終わった後に聞く事になり、その対応の為にかなり城内が騒がしくなっていただろう。栗見には甲賀衆の中で多羅尾四郎兵衛光俊が同行していた為、観音寺城内での皆への説明は、今目の前に居る新左衛門尉と加賀守で行ったに違いない。そこで皆の怒りの矛先になるのは、現宿老である平井加賀守ではなく、新参の新左衛門尉である筈だ。これは恨み言を甘んじて受けるしかないだろう。
「お、御屋形様、御顔を上げてくださいませ。そのようなつもりで申した訳ではございませぬ。ただ、御屋形様には今少し、ご自身の御命の価値を見直して頂きたいのです。確かに修理大夫義秀様は短慮、浅慮とは程遠い御方にございます。ですが、そのような御方であれ、御屋形様を脅威と感じておられるのです。今、御屋形様を失えば、幕府からのごり押しを抑える術がござらず、修理大夫殿を六角家当主とする事を止める事が難しくなりまする」
かなり幕府との溝が広がっており、六角と足利は敵対状態と言っても過言ではないだろう。現在三好との戦がどちらに傾くか分からないが、十河一存に続き、大黒柱である三好筑前守義興までも失ったとすれば、足利に傾く可能性を否定出来ない。その時にこれまでの足利への態度を詰問され、六角家嫡流に当たる六角氏綱の系譜を持つ義秀に家督を譲るように迫られれば、断る事が難しくなるだろう。
俺が死んでいる事で、各地の不穏分子が蜂起し出す。近江では高島郡、北近江では朝倉の脅威に耐えながら踏ん張っていても旧浅井家についていた豪族達の離反が続く可能性が高い。そうなれば、足利の提案を飲まざるを得ない。
「其方の忠言、しかと聞いた。礼を申す」
「…御屋形様」
「俺にはまだまだ百万石の太守であるという自覚が足りぬのだろう。この近江、伊賀、北伊勢で暮らす武家、商家、農家の全ての命を預かっているのだという覚悟も足りてはおらぬな。すまぬ、苦労を掛ける」
馬上から空を見上げる。この時代に来て、空の青さに驚いた物だ。遮るものなど何もなく、抜けるように高い空が美しい。改めて見れば、この美しい空の下で日々生きているのだ。それこそ、この日本に居る全ての人間が。小競り合いの戦などしている暇はないな。
陽が上り切り、真上に来る前には観音寺城下町へと入る事が出来た。城下町を進み、城へ入る大手門まで来た頃には家臣達が迎えに現れていた。
「御屋形様、ご無事のお帰り祝着至極にございます」
先頭で声を発したのは蒲生下野守定秀。既に隠居を申し出て、家督を嫡男である左兵衛大夫に譲ってはいるが、出家する事なく、そのまま下野守を名乗っている。その後ろに後藤但馬守、目賀田摂津守の姿もあった。
「大殿は城にてお待ちでございます」
「そうか、皆にも心労を掛けたようだ」
馬上のまま皆に声を掛け、そのまま城へ入る。厩番に馬を預け、城内に入ると従者達が慌ただしく動いているのが見えた。俺の帰りで慌ただしく動いているのかと思ったが、俺を見て驚いたようにその場で平伏する姿を見るに、俺の為に走り回っているのではないのだろう。
「城内が騒がしいが?」
「室町よりの使者殿でしょう。特に一色式部少輔殿が従者に無理を言う事が多く…」
俺の問いかけに目賀田摂津守忠朝が口を開いた。宿老としての立場から俺への回答をしているのだろうが、現場でその対応に追われているのは、徳永昌利という者らしい。何でも南近江から東近江にある神崎郡にある村の出身であり、その一群の出納のような役割をしていた者だそうだ。
急速に大きくなった六角家の財政、外交などを担当する者を補うために各地で働きが真面目な者達が観音寺城へ多く召し出されている。その内の一人なのだろう。
「その徳永という者には、俺から手当を与えよう」
「手配致します」
農村の年貢の徴収・出納・算用などを行っていた者が、突如として室町幕府の幕臣達の饗応役のようなものに充てられたのだ。完全に配置間違いだ。おそらく、幕臣の相手を嫌がった者達に真面目な下級武士が押し付けられたのだろう。
徳永某へ業務を押し付けた者達に関しては目賀田摂津守を通して処理して貰う事にしよう。臨時の褒美だけでは彼の頑張りに報いる事は出来ない。彼をその死地ヘ追い込んだ者達もそれ相応の報いを受けねばなるまい。
「まずは父上にお会いする」
「畏まりました」
幕府からの使者など後回しだ。徳永昌利という者には申し訳ないが、こちらとしては父親に嫁の懐妊報告さえも出来ていない。六角家の血を継ぐ者の話の方が父承禎入道にとっても重要であろう。
父の部屋に続く道を歩いていると、先程から従者達が慌てている姿を何度も目にする。幕臣達の部屋は観音寺城内でも入り口近くに配置したのであろう。いつでも叩き出せるようにしていたのかもしれない。
「父上、只今戻りました」
「御屋形様、良くお戻りになられました」
家臣達が控えている故に、承禎は俺に上座を譲り、俺の言葉に一臣下として回答を行う。家臣達に声を掛け、人払いを済ませると、承禎は先程まで俺の帰還を喜んでいた良き家臣の顔から、子供の無茶無謀に憤る親の顔へと変貌して行った。
「心配を掛けおって! 栗見での謀り事を何故儂にまで秘しておった!」
「父上、お萩が懐妊いたしました。まだ男か女か分かりませぬが、父上にとっては初孫となりましょう」
「話を聞け!」
いつになく父承禎入道が怒りを顕わにしている。祝い事である萩の懐妊を伝えているのに、それを聞く気もない姿に流石にむっとした。
謀り事だからこそ、身内にも話す事が出来ないのだろう。話がどこから漏れるか分からないからこそ、必要最低限も者達しか知らないのだ。俺と同道していたお萩でさえも直前まで知らなかったのだから、父親と言えども六角家先代当主に話せる訳がないのだ。
「ふぅ…。其方のそのような顔を久しぶりに見たわ。不満があれば不貞腐れるのは今も昔も変わらんか」
承禎入道が呆れたように溜息を吐き出した。
いや、諦めの溜息に近いのかもしれない。
父の立場から言えば、謀り事を話されなかった事は色々な意味で我慢が出来なかったのだろう。幾ら一線を退いたとはいえ、名門六角家の先代当主という誇りもあるだろうし、現当主である俺の血を分けた父親であるという自負もあっただろう。それなのに大事な事を秘されていたという事に対し、怒りもあるだろうが寂しかったのかもしれない。
「申し訳ございませんでした。新左衛門尉にも諫言を受けました。ご相談を申し上げるべきであったと今は理解しております」
「そうか。良き臣を持ったな」
父親としての顔と先代当主としての顔、そして今は一家臣としての顔を使い分けているのだ。それは凄い事だろう。俺であれば全てが混ざってしまい、どの顔を使えば良いか迷ってしまう筈だ。
「お萩は加賀守と共に戻るのか?」
「はい。身体を厭い、ゆるりと戻します。それまでに城内に産屋を立てます」
「城内にだと!?」
「はい。平井丸でも良いが、やはりお産場所は近くで清潔な場所が良いと考えております」
先程まで初孫へと思いを馳せ始めていた父が素っ頓狂な声を上げる。やはりこの時代では異色過ぎたか。血の穢れを嫌い、あばら家のような簡易な建物を建ててその中に妊婦を数か月も押し込むのがこの時代のお産の実態だ。良く、そのような環境でこの時代の女性は何人も子供を産む事が出来たな。
馬小屋のような場所で子を産んだ女性もいたというし、常識が違い過ぎる。産後の肥立ちが悪く亡くなる者も多かったというが、その半数は感染症や破傷風のようなもので亡くなったのではないかと考えてしまう。
「私も供に暮らそうと考えておりますが?」
「た、たわけ!穢れをこの観音寺へ入れるつもりか!?」
ああ、これは常識が余りにも違うとは言え、許す事の出来ない発言だな。俺はこの父親が好きだ。おそらく六角義治もこの父親を敬愛したのだろう。それでもその言葉は駄目だ。
真っ直ぐに父承禎入道へ視線を送る。先程までの不貞腐れた雰囲気ではない事が分かったのか、父が若干怯んだのが解る。
「父上、それは本心からの言葉ですかな? これから産まれて来るであろう某の子であり、父上の孫が穢れだと?」
「そ、そうではない。出産には血が多く出る。我ら武家は古来より血の穢れとして忌避されて来ているのだ。それは其方も理解しておろう」
「血の穢れ? 戦に行って雨のように血を被っている武士が、子を産む為に命を賭して戦っておる女子の血を穢れだというのでございますか? なるほど、なるほど、父上には我が子に会う資格はございませぬな。良い機会を頂きました。以前より考えておりましたが、某の拠点を移しましょう。安土山か八幡山に城を築き、本城と致します。観音寺は父上にお譲致します」
これから生まれて来る愛しい我が子を『穢れ』と称したのだ。父上とは別居だな。良い機会だ。このまま萩には栗見で辛抱して貰い、栗見に近い安土山に城を築き、産屋を建て、城下町を作って医療所を作ろう。
やりたかった事が全て出来るぞ。世代交代も一気に出来る。古参の者達は観音寺に出城を持っている故、そのまま観音寺に居て貰い、その子らが安土山へ出仕させれば、自然な流れで世代交代も進むだろう。
二局政治にならぬように気を付けておけば、それ程大事にはならぬだろう。観音寺城はこれから歴代六角当主とその代の譜代家臣達の隠居所だな。昔語りなどをしながらゆっくりと余生を過ごせる場所にしよう。遥か未来の介護施設のような場所だ。凄く良いのではないだろうか。家臣達から積み立てのような形で資金を募り、介護施設に入れば、食事、医療などは六角家が面倒を見る。
「し、四郎、四郎!」
「はっ!申し訳ございませぬ。考えに耽っておりました。今後、この近江を戦地にする必要が無ければ、某が観音寺城を本拠とする意味も薄く、利便性や景観を考えれば、八幡山か安土山が良いと考えておりました故。我が妻と子を『穢れ』と言われる父上との同居も難しく、これを機に…」
「四郎、儂が悪かった!其の方の妻や子を誹った訳ではない。済まぬ、この通りじゃ。観音寺城内に産屋を建てる事、大いに結構。其の方の出入りも大いに結構。新たに拠点を築くというのであれば、民達へ無理を強いるのでなければそれも賛同しよう。故に、孫と会う資格だけは儂から取り上げてくれるな。頼む!」
父承禎入道のまさかの激白。既にここにいるのは先代六角当主と当代当主でもなければ、当主と家臣でもなく、只の父と子であった。俺への呼び方も官職でもなく、幼名に変わっているし、いつの間にか俺の目の前に父の顔があった。その必死さに思わず笑ってしまった。
「…解りました。此度は許しましょう。そもそも産屋と呼ばれる場所が必要である事は確かなのです。ですが、その場所の環境は通常過ごす部屋よりもむしろ良くしなければならないと思うております。いざ出産となればその場に我らで連れて行き、産婆なども手配しなければなりませぬ。…産婆に観音寺山を登らせるのも苦でありますな。産婆用の客室も作らねばなりませぬ」
「四郎、それは追々我らで考えよう。出産までは十月十日と云われておる。まだ先故、萩と腹の子が過ごし易い環境を整えれば良かろう」
父承禎入道の膝が俺の膝に当たるような距離感。
六角義賢は史実でもかなり柔軟な考えを持っているように見える。かなり頑固な一面もありながら、世を渡る為には出来る事をするという面もあった。
古来よりの考えに固執していた訳でもなく、かと言って古い体制を否定する訳でもない。革命的でもなければ保守的でもない。そんな普通の人間の考えであったと思うのだ。
「出来れば儂も、其方とそのような目出度い話を色々と考えたい。だが…」
「幕府からの使者ですか…。すっかり忘れておりましたわ」
完全に忘れていた。正直どうでも良いからなのだろう。今、俺が考えなければならない事の中に、室町幕府や足利家は欠片も入っていない。近江、伊賀、北伊勢の領地の運営、改革、保持を第一に考え、それより上の場所に自分の家族の事がある。足利など入り込む余地など無いのだ。
使者と会う気もなく、会った所で出来る事もなければ、やるつもりもない。正直に言えば、何故今も尚六角家を頼りにしているのかが理解出来ない。あれだけの事を六角に対して行って、先日には当主への襲撃を裏で引いているにも拘らず、何故使者など送れるのか。
「城内の慌ただしさを見る限り、とてもではないですが謝罪の使者ではないでしょう。これまでの所業の数々に対して何の弁明もなく何故横柄な態度を取れるのか」
「弁明、陳謝の物ではないだろうな。どう致す?」
「誰ぞある!四半刻後に幕府よりの使者と面会する。支度を致せ!」
着替えや支度を含めれば半刻もいらない。面会を済ませ、早々にお帰り願おう。
最早、六角と足利は完全に手切れとなっているのだ。足利義輝の勢力が大きくなる事は天地がひっくり返ろうとない。泥船からは完全に引き上げねば、巻き込まれる事になる。いい加減、足利義輝にもはっきりと理解して貰わねばならないだろう。
六角は足利の家臣ではないと…。
「父上も御覚悟を。これより、六角は足利家とは完全に手切れとなり申す」
父承禎入道が唾を飲み込む音が響いた。
俺は温くなった白湯を一気に飲み干し、席を立つ。
さて、幕臣達はどのような御顔をされるだろう。
本当に楽しみだ。




