毒霧の洞窟と、奥に潜むもの
黒煙が立ち上っていた山の方角を、ミュラはじっと見つめていた。
「……あの先に、魔王軍の拠点があるのか?」
俺が尋ねると、ミュラは小さく頷いた。
「私たちは魔王軍の拠点を目指していました。これまで何度も遠征隊が送り込まれていますが、敵の防衛線を突破できずにいるのです」
ミュラは腰に下げた剣の柄へ手を添えた。
「私たちが遭遇したのは、まだ遠征の序盤だったんです。それなのに、あのような強力な竜が現れるなんて……」
ミュラは悔しそうに唇を噛んだ。
「これまで、あれほどの魔物が現れたことはありませんでした」
「それでも、先へ進むのか?」
俺の問いに、ミュラは迷わず答えた。
「はい。ここで引き返すわけにはいきません。仲間たちと進んできた道も、まだ終わっていませんから」
「無理はするなよ。まずは周囲を調べるだけにしておけ」
「分かっています。危険だと判断したら戻ります」
ミュラは俺に向き直った。
「ナギ様。少しの間、ここを離れます」
「分かった。危なくなったらすぐ戻ってこいよ」
「はい」
ミュラは淡く光る聖域の境界を越え、荒野へと踏み出した。
俺は聖域の中から、その凛とした背中を見送った。
◇
荒れた岩場に足を踏み入れた。
足元には黒ずんだ岩が転がり、枯れた草が風に揺れている。
周囲に魔物の姿はない。
この一帯では、魔物どころか小さな生き物の気配すら感じられなかった。
……静かすぎる。
私は剣の柄に手を添え、周囲を見回した。
遠くに見える黒煙は、まだ立ち上り続けている。
あの方角は、私たち遠征隊が目指していた場所だ。
正確な位置までは分からないが、これまでの調査で、おおよその方向は把握していた。
今回の遠征も、そこへ少しでも近づくためのものだった。
「……まだ終わっていない」
自分に言い聞かせるように小さく呟き、再び歩き出す。
そのとき、喉の奥に違和感を覚えた。
「……?」
息を吸うと、喉の奥がわずかに刺激される。
毒だ。
この一帯はもともと猛毒の瘴気に侵されている。
私には毒耐性があるため、これまでも通常の瘴気なら問題なく行動できていた。
だが、今感じているものは違う。
一歩進むごとに、呼吸が重くなっていく。
「毒が……濃くなっている?」
口元を布で覆い、慎重に足を進める。
やがて、岩壁の向こうに大きな洞窟が見えてきた。
入口付近には、周囲の岩とは明らかに違う黒い染みが広がっている。
その奥から、紫黒く濁った毒霧がゆっくりと流れ出していた。
「これは……」
一歩近づいた瞬間、喉が焼けるように痛んだ。
息を吸うと、胸の奥まで重くなる。
洞窟の中は、外よりも明らかに毒が濃い。
私は剣を握り直し、入口から奥の様子をうかがった。
紫黒い霧が視界を遮り、数メートル先さえはっきり見えない。
そのときだった。
――ズルッ。
霧の奥で、何かが動いた。
「……っ!」
反射的に剣を構える。
岩が崩れた音ではない。何かが地面を這うような、不気味な音だった。
しばらく身構えて待ってみる。
だが、それ以上の動きはない。
ただ、霧の向こうに、ぼんやりと大きな影が見えた。
(何かがいる……)
ナギ様には、危険だと判断したら戻ると約束した。
一度引き返して報告すべきかもしれない。
だが、私は足を止めなかった。
私は、代々続く戦士の家系に生まれた騎士だ。
この程度の調査なら、私一人でもできるはず。
ここで何も確かめずに戻れば、また同じことを繰り返すかもしれない。
せめて、何が潜んでいるのかだけでも確かめたい。
「……行こう」
私は鞘から剣を抜き放ち、焼けるような喉の痛みを堪えながら、紫黒く濁った毒霧の奥へと足を踏み入れた。
◇
「……遅いな」
俺は落ち着かない様子で荒野を見つめていた。
ミュラが黒煙の方角へ出発してから、かなりの時間が経っていた。
周囲の様子を調べるだけなら、そろそろ戻ってきてもいい頃合いだ。
「あいつ、ちゃんと無理せず引き返してくるよな……?」
真面目で真っ直ぐな性格だ。
仲間の無念を晴らすために、無茶をして奥まで踏み込んでいなければいいが。
今まで感じたことのないような、嫌な予感が胸をよぎる。
けれど、聖域から出られない俺には、彼女を追いかけようにも確かめに行くことすらできない。
◇
その頃、ミュラが足を踏み入れた洞窟のさらに奥。
毒霧に包まれた空間で、巨大な植物が静かに根を張っていた。
岩壁に背を預けるように伸びた太い茎。
その先には、人間の頭ほどもある不気味な花が咲いている。
閉じていた花弁が、ゆっくりと開き始めた。
ギ……ギギ……。
花の中心が大きく膨らむ。
次の瞬間。
ブワッ!!
花弁の奥から、紫黒く濁った濃密な毒霧が吐き出された。
霧は洞窟の中をさらに深く満たし、再び花弁はゆっくりと閉じていく。
その花は、獲物が近づいてくるのを待っているかのようだった。
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