発端②
逃げる。とにかく逃げる。自分の荷物の事なんて、もう頭の片隅に追いやられている。
でも、何で?どうして逃げている?それだけが、自分でも分からない。しかし分かる事としては、「あのまま自分がなすがままになっていたら、確実に死んでいた」という事。
僕は人間不信じゃない。ミカちゃんからそういう事を誘ってくれたのも悪くは無い──あの感覚を除けばの話ではあるが。
とにかく、今は逃げる。訳が分からないことが多すぎて、どう立ち向かえばいいのか分からないので、逃げ出す事にしたのだった。
部屋から飛び出し、廊下を走り、階段を降り、玄関に一直線に走る。それだけの話なのに、何故か今はそれが遥か遠い旅路のように感じられる。
「──っは……!!」
そうして長い旅路(実際の時間で言えば30秒も無かったとは思うが)を終え、遂に玄関というゴールに辿り着いた。そのゴールにあるドアを開ければ、こちらの勝利だ。
そう思いながら、ドアを開けようとする──
「……!!?」
──が、開かない。
開かないのだ。ドアが、鍵がかかったかのように、開かなくなっているのだ。
「な、何でだよっ……!!」
この家のドアは、外側に鍵が着いているのか?いや、そんなまさか、鍵ならここで開閉できるではないか。
そう思いながらガチャガチャと鍵を回そうとも、どう足掻いても開くことは無かった。
「くそったれ!!」
こっちはクソほど急いでいるというのに、なんでこんな時に限って開かないんだ!
そう思いながら、苛立ちに任せてドアを蹴っても、ビクともしない。とにかく、何らかの力が働いていて、玄関のドアが使い物にならないようだ。
そう言えば、ミカちゃんも追ってきてはいない。この事を考慮して、あえて追いかけてこないのか?
「舐めやがって……!!」
玄関のドアには、小細工が仕掛けられていて開かない。しかし、家から出る方法と言えば、玄関以外にある筈だ。
そう思いながら次に向かった先は、キッチンだ。正確に言うと、キッチン周辺の何処かにあるであろう、勝手口だ。同じ小細工が施されている可能性が頭に過ぎったが、頼る先がそこしかない以上、そこに向かうしかない。
玄関を走り、居間の扉を開け放つ。ミカちゃんのお母さんは、居ないようだ。
周囲を見渡すと、キッチンがある。その奥には、勝手口があった。「やった」、なんて口走りながらそこへと一直線に走った。
これで逃げれる。この正体不明の恐怖に満ち満ちた、地獄のような場所から脱出できる──そうしてドアに手をかけた、その時だった。
「あら、何処に行こうとしてるのかしら?」
突如として背後からかけられた声に、背筋が凍った。
ナイフでもって、臀から項にまで切り込みを入れられた感覚にも似た気分を味わいながら、恐怖で震える首でゆっくり振り向く。そこには、先まで居なかった筈の、ミカちゃんのお母さんが居た。
「……ど、どう……も。」
何とか平生を装いながら、会釈する。彼女もまた、得体の知れない恐怖の対象でもあったのだから。とにかく、見つかってしまったからには切り抜けるしかない。キッチンという閉所に追い詰められている以上、逃げ出す事は不可能だった。
自分のとった手段は……何も知らないフリだった。
「い、いやぁあのぅ……その、そろそろ帰らなきゃお母さんが心配するから……」
「あらぁ、そうなの?でも、この時間に帰ろうとすると……少し、危ないわよ?遠慮せず泊まっていきなさい?」
妖艶な雰囲気を醸し出しながら笑う彼女には、傍から見れば親切な奥さん、なんて印象だろう。しかし僕には、彼女が「獲物は逃がさない」と目を光らせる、獰猛で猛毒を持った野獣に見えたのだった。
「じ、じゃあ……その、近くのコンビニで飲み物でも買おうかなって。」
「あら……飲み物なら、いいのがあるわよ?」
彼女がそう言いながら冷蔵庫から取り出したのは、「カンビオン」というジュースだった。
「カンビオン」──それは、この頃の日本で急激に流行り出した、炭酸飲料水。その売上は、コーラを上回っているとか。毎日飲めば、体重減少効果があるだの、性的機能が向上するだの、IQが高くなるだの、作業効率が上がるだの、世界中の科学者からもお墨付きも貰っている、まさに素晴らしいドリンクだ。
が、自分にはその味の良さが分からない。飲めなくはないが、どうにも美味しく飲める気がしないのだ。ショウなんかは、喜んで飲んでいるが。
「え、遠慮しておきますっ!やっぱり僕、お茶買ってきますので──」
そう言いかけた、次の瞬間だった。
いきなり迫られ、まな板の所に押し倒されたのだった。
「っ!?」
「ねぇ、どうしてそんなに出ていきたがるの……?私、寂しくなっちゃうわぁ……」
彼女は、本当に寂しげな表情と声色で、媚びるように言ってくる。そうしながら、ジャスティンのシャツの中に手を入れてきた。
「うっ……!!」
「私ね……夫が亡くなってから、あの子と二人きりで……寂しいの。だから──」
言い続ける彼女の目が、紅く光る。その寂しそうな顔が淫靡な笑顔へと歪み、僅かに空いた口から、牙が覗ける。そして、その背からは蝙蝠のような羽根が生えてきた。
「──ね?」
「〜〜〜!!!」
次の瞬間、押し倒す力が明らかに人のそれでは無くなった。
自分は、体をそれなりには鍛えている。だから、いくら年上とは言え、こんな女の人に力負けするなんて事は、一切として無い。無いはずなのだ。
疑念だったものが、確信に変わった──この家の住人は、明らかに人外で、それも人を襲って食う魔物だったのだ。
得体の知れない恐怖と動悸で、パニックになりかける。涙目で、奥歯をガタガタ震わせて、死の恐怖に怯え切った。
「わぁあぁああああーーーっ!!?」
「大声を出しちゃダメでしょ……」
彼女の手が、無理矢理に口を塞いできた。これもまた、人の身ならざる怪力で。
「ーーーっ!!!」
高鳴る心音、無限に湧くような冷や汗、止まらない震え、乱れる呼吸すらも塞がれて、絶体絶命なんて言った所か。
藁にも縋るような思いで、目を横に動かす。すると、なんと普通の調理用の包丁に混じって、蕎麦切り包丁にも似た、薄汚れた包丁を見つけた。あれは、おそらくは肉を断つための包丁なのだろう。
それを見たジャスティンは、理解する。今のこの場、向こうは捕食者で、こちらは被食者だということに。
ああ、自分は死んでしまうのだろうか。この悪魔に全てを貪られ、無惨にも殺されてしまうのだろうか。
冗談じゃない。
次の瞬間、死期から脱しようとしたジャスティンの脳内麻薬が、過剰分泌される。人が持つ火事場の馬鹿力というものが、死を垣間見た今になって発揮されたのだった。
「──っ!!!」
渾身の両足蹴りを放ち、彼女の腹を打ち抜く。
「きゃっ……!!?」
それは効いたらしく、彼女は二~三歩ばかり後退し、尻もちをつきそうな所で踏ん張った。
自由になったジャスティンは、その肉断ち包丁を手に取り、まな板から起き上がり、彼女に迫る。
「死ねぇええええ!!!」
絶叫にも似た声を上げ、手に持った得物を、彼女の脳天に振り下ろした。それは直撃し、見事に彼女の頭を叩き割ったのだった。脳天から入った包丁の刃が、鼻に到達しているのが確認出来る。脳ミソは、真っ二つだろう。
「ぁーー……」
彼女は虚ろな目をして、ゆっくりと、どさりと倒れた。包丁が刺さったままのその頭から、壊れた蛇口のように、とめどなく血が溢れ、血溜まりが生まれた。フローリングにじわりじわりと広がるそれを前に、ジャスティンは腰を抜かした。
「っはーっ、はーっ、はーっ、はーっ……!!」
呼吸が過呼吸になり、胸を抑える。
人ではない、人ではないが、人らしきものを殺してしまった。その背から生えてる羽根や、ケツから出てる尻尾は、明らかに人間のものでは無い。だが、顔や手足や体は、人間なのだ。人間の、それなのだ。
凄まじい恐怖と罪悪感に震えながら、何とか立ち上がる。ガクガクの足に力を込めて、キッチンを手すりにして、足元の死体を避けながら、キッチンから出ていく。
「殺しちゃった、殺しちゃった、殺しちゃった、殺しちゃった……」
双眸を見開き、玄関と勝手口以外の出口を探す。酔っぱらいの千鳥足がさまようようにフラフラと歩いていると、裏口の扉らしいものが見えた。見たところ、小細工の雰囲気は無さそうだ。
「はーっ、はーっ、はーっ、はーっ……!!」
家に帰るために逃げた筈なのに、今はミカちゃんのお母さんを殺してしまった罪悪感から逃れる為に逃げようとしている事に気付く。しかし、どちらにしても取る行動は変わらないか、なんて思いながら、縋るように扉に向かった。
なんでもいい、何でもいい。とにかく、この家から出たい。とにかく、この家に居たくない。こんな玄関の扉も開かないような監獄じみた家から、脱出せねば。
脱出したら、とりあえずコンビニに行かなきゃ。そこで店員さんから携帯を借りて、警察を呼んでもらわなきゃ。こんなに返り血がついてるんだ、言い逃れなんて、出来るはずがない。するつもりも無いが。パトカーでも待っている間に、お茶でも買おう。とにかく、喉が乾いた。
「はぁ、はぁ、はぁ……!!」
ドクンドクンと脈動する心の臓を押さえながら、ようやくドアノブを掴む。そうしてノブを捻ろうとした、その時だった。
唐突に、背後から肩を掴まれた。
「ッッッ!!!?」
振り返ると、そこには頭をカチ割った筈の、ミカちゃんのお母さんが立っていた。その頭に、包丁が刺さったまんま。その目には、しっかりと自分の顔が映っている。
恐怖で心臓が縮み上がる。声が出なくなり、体も凍りついたかのように動かない。
「──ぁっ──」
叫ぼうとしても、声が、声帯が石になったかのように声が出ない。正常に動くのは、もう両目ぐらいだ。その双眸に、頭の割れた彼女の口元が醜く歪んだのを、しっかり捉えた。
「逃がさないわよぉ?」
彼女がおぞましくそう言った、次の瞬間だった。人ならざる力の乗った拳で、正確に顎を打ち抜かれた。
脳が揺らされ、頭骨内壁の中で乱反射する。そのまま、意識は彼方へと吹き飛ばされ、膝をつき、顔から床に墜落したのだった……




