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『残照のインタチェンジ』  作者: 臥亜


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4/4

第4章:空虚なバースデーケーキ

そして、運命の四十歳の誕生日がやってきた。

皮肉なことに、その日も俺は一人だった。

妻の葵は海外のクライアントとの訴訟案件で、二週間前からニューヨークへ飛んでいた。

『誕生日おめでとう。帰ったら、何か美味しいものでも食べに行きましょう』という、事務連絡のような短いメッセージが朝に届いただけだ。

俺は仕事帰りに、馴染みの高級バーに立ち寄った。

薄暗い店内、静かに流れるジャズ。元の人生の俺なら、一生足を踏み入れることすらなかったであろう、洗練された空間。

目の前には、バーテンダーが気を利かせて出してくれた、小さなバースデーケーキが置かれている。

「……美味そうだな」

呟いてみたものの、フォークを伸ばす気にはなれなかった。

三十年かけて築き上げた、傷一つない完璧な人生。

金も、地位も、美しくて優秀な妻も手に入れた。俺の人生は、誰の目から見ても大成功のハッピーエンドだ。

だが、なぜ俺は、こんなにも息苦しいのだろう。

『……お誕生日おめでとう、智也くん』

ふいに。

あの時と同じ、鈴を転がすような、哀愁を帯びた声が背後から響いた。

振り返ると、そこに彼女がいた。

三十年前、あの赤提灯の居酒屋で会った時と全く変わらない姿。漆黒のワンピース。長いまつ毛。そして、指先に挟まれた細長い煙草。

謎の女、レイ。

「やあ。約束通り、迎えに来たわよ」

「……レイ」

彼女は俺の隣のハイスツールに腰掛けると、バーテンダーには見えていないかのように、勝手に俺のグラスから琥珀色の液体を一口飲んだ。

「見事だったわ。三十年間、ずっとあなたの人生を見ていたけれど、まさに完璧なオセロだった。すべての失敗を回避し、すべての正解を選び続けた」

レイは煙草の煙をふわりと吐き出し、俺の目を覗き込んだ。

「さあ、契約の時よ。このまま、葵という完璧な妻と、富と名声に包まれた『やり直した人生』を生きるか。それとも……あの惨めで、冷え切って、後悔だらけの『元の人生』に戻るか」

レイがテーブルの上に、あの時サインした紙のコースターを置いた。

「やり直した人生を選べば、元の人生の記憶はすべて消え去るわ。あなたは本当に、心からの完璧な勝者になれる」

俺は、じっとそのコースターを見つめた。

答えは、最初から決まっていた。

この数年間、俺の魂をゆっくりと削り取っていた飢餓感の正体。それに気づいた時から、俺の選ぶ道は一つしかなかった。

「……俺は」

俺は乾いた唇を開いた。

「元の人生を選ぶ」

レイの長いまつ毛が、わずかに震えた。

「正気? あんな底辺の、何一つ良いことがない人生よ? 妻の美咲とは口も利かず、毎晩安酒を飲んで自分を呪うだけの、地獄みたいな日々じゃない」

「そうだ。地獄みたいだった」

俺は自嘲気味に笑った。

「でも、あの地獄には……『俺の本当の痛み』があった。俺が不器用に生きて、傷ついて、それでも誰かと生きていこうと足掻いた、血の通った熱があったんだ」

葵との人生は、完璧なマニュアルだった。

でも、美咲との人生は、不格好な泥細工だった。

俺が本当に愛していたのは、共に泥まみれになりながら、100円のカップラーメンを笑って分け合った、あの泥細工のほうだったのだ。

「俺は、仕事にかまけて美咲から逃げた。彼女の優しさに甘え、向き合うことをやめた。その後悔こそが……俺の人生そのものなんだ。記憶を消して逃げるなんて、もう二度としない」

俺は真っ直ぐにレイを見た。

「俺を、美咲のいるあの惨めな世界に返してくれ」

静寂が降りた。

ジャズの音も、グラスの氷が溶ける音も、すべてが消え失せた。

レイは、ぽろりと、一粒の涙をこぼした。

それは、底知れぬほど深く、切なく、そして……すべてを許し、包み込むような、慈愛に満ちた涙だった。

「……馬鹿な人」

レイは泣きながら、それでも世界で一番美しい笑顔を見せた。

「でも、合格よ、智也」

その瞬間。

彼女の姿が、光の粒子となって弾けた。

バーの景色が、夜の街が、三十年かけて築き上げた完璧な人生のすべてが、轟音と共に真っ白に染まっていく。

光の奔流の中で、レイの声が響いた。

それは、レイの声であって、レイの声ではなかった。

『――愛してる。だから、生きて』

俺は、意識の底へと落ちていった。

第5章:残照のインタチェンジ(結末)

「……バイタルサイン、安定しています! 先生!」

耳障りな電子音。

ツンとする消毒液の匂い。

重い瞼をこじ開けると、視界の端で白い天井の蛍光灯がぼやけて光っていた。

「成瀬さん! 成瀬さん、私の声が聞こえますか!」

医師らしき初老の男が、俺の顔を覗き込んでいる。

身体が鉛のように重い。喉はカラカラに乾き、腕には無数のチューブが繋がれていた。

「……ここは……」

「病院です。奇跡だ……成瀬さん、あなたが目を覚ますなんて!」

医師は興奮冷めやらぬ様子で、看護師に指示を飛ばしている。

俺は混乱する頭を必死に回転させた。

居酒屋で目を閉じたのは、四十歳の誕生日の夜だ。なぜ俺は、こんな重病人のような姿で病院のベッドに寝かされているんだ?

「先生……俺は……」

「落ち着いて聞いてください。あなたは、二年前に事故に遭ったんです」

「事故……?」

「ええ。交差点に突っ込んできた居眠り運転のトラックに、車ごと跳ね飛ばされて……あなたは脳に深刻なダメージを負い、今日までずっと、昏睡状態だったんです」

頭を鈍器で殴られたような衝撃が走った。

二年間、昏睡状態?

では、あの「やり直した完璧な三十年」はなんだったんだ。すべては、ベッドの上で眠り続ける俺の脳が見せていた、長い長い幻だったというのか?

ふと、俺の脳裏に、あの光景がフラッシュバックした。

『――愛してる。だから、生きて』

俺の心臓が、早鐘のように打ち始めた。

俺はチューブの繋がれた腕を震わせながら伸ばし、医師の白衣の袖を掴んだ。

「先生……! 妻は……美咲は、どうなったんですか! 一緒に車に乗っていたはずだ!」

医師の顔から、さっと血の気が引いた。

彼は痛ましいものを見るような目で俺を見下ろし、ゆっくりと首を横に振った。

「奥様は……あの事故の際、助手席からあなたの上に覆い被さるようにして、あなたを庇い……即死でした」

ピー、というモニターの音が、遠くで鳴っているように聞こえた。

「あなたは奥様を亡くしたショックと自責の念から、精神を固く閉ざしてしまった。脳の損傷そのものは半年前に回復していたのに、あなたの心が、目覚めることを拒絶していたんですよ」

すべてが、繋がった。

冷え切った仮面夫婦? 違う。

俺が仕事のストレスで勝手に心を閉ざし、不機嫌を撒き散らしていただけだ。

美咲は、そんな俺を見捨てることなく、最後まで愛してくれていた。だからあの瞬間、迷うことなく自分の命を投げ出して、俺を庇ったんだ。

そして、俺の脳内に現れた「レイ」。

彼女の正体は、美咲だ。

俺の中に残っていた、美咲の愛と記憶の残滓。

自分が死んだことで、俺が後悔と罪悪感に押し潰されて死んでいくのを、彼女は止めようとしたのだ。

だから、自分の存在を最初から消し去った「完璧で幸せな人生」を、夢の中で俺にプレゼントしようとした。

もし俺が、あのまま「葵との完璧な人生」を選んでいたら。

俺は美咲の記憶を完全に消去し、罪悪感から解放され、ただ「新しい人生を生きるための真っ白な自分」として、このベッドで目覚めていたはずだ。

だが、俺は「後悔」を選んだ。

美咲のいない完璧な世界よりも、美咲を失った絶望と痛みを抱えて生きる現実を選んだのだ。

「……あ、あぁ……っ」

俺の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。

声にならない嗚咽が、静かな病室に響き渡る。

もう、あの100円のカップラーメンを一緒に食べることはできない。俺のくだらない愚痴を聞いて、笑ってくれることもない。

それでも。

俺の心には、確かに彼女が残した「魂の熱」が宿っていた。

   * * *

半年後。

冬の気配が色濃くなってきた十一月の午後。

俺は、杖をつきながら、郊外の霊園の坂道を登っていた。リハビリの甲斐あって、どうにか一人で歩けるまでには回復していた。

見晴らしの良い丘の上に、真新しい墓石が一つ。

『成瀬家』と刻まれたその下に、美咲が眠っている。

俺は花筒に彼女が好きだった白いトルコキキョウを飾り、手を合わせた。

「美咲。遅くなってごめん」

冷たい風が吹き抜け、木々の葉がざわめく。

「俺、もう後悔しないよ。君が命と引き換えに残してくれたこの人生、何があっても最後まで、泥臭く生き抜いてみせるから」

目を閉じると、瞼の裏にあの居酒屋の光景が浮かぶ。

紫煙の向こうで、悪戯っぽく微笑む彼女の顔。

『合格よ、智也』という声が、今でも耳の奥に残っている。

目を開け、ふと隣を見た時。

一瞬だけ、風に揺れるトルコキキョウの向こうに、漆黒のワンピースを着た彼女の幻影が見えた気がした。

彼女は優しく微笑み、そして、冬の陽だまりの中に溶けるように消えていった。

俺は深く息を吸い込み、空を見上げた。

雲の隙間から差し込む残照が、俺の行く先を、確かに照らしていた。

エピローグ:季節が巡る場所で

退院してから一年が経った。

俺は会社を辞め、今は小さな地方都市で、祖父から継いだ古い古本屋を営んでいる。

かつてのような煌びやかなスーツも、タワーマンションも、大金も手元にはない。

あるのは、日焼けした文庫本と、埃っぽい棚の匂い、そして窓辺で静かに回る古ぼけた扇風機の音だけだ。

客は少ない。

それでも、時折、店を訪れる学生たちが、真剣な眼差しで本を選んでいるのを見ると、胸の奥が温かくなる。

「いらっしゃいませ」

店の入り口のドアベルが鳴り、一人の女性が入ってきた。

二十代後半だろうか。少し疲れたような顔で、小説コーナーの前で立ち止まっている。

俺はその背中に、ふと、あの日の彼女の面影を重ねてしまった。

いや、違う。

あれはもう、俺の記憶の中だけの存在だ。

俺は椅子から立ち上がると、店の隅に置いてあるポットでコーヒーを淹れた。

小さなカップを二つ並べる。一つは客のため、もう一つは、誰もいないはずの向かいの席のため。

「……お待たせしました。よかったら、これ」

彼女にコーヒーを差し出すと、彼女は少し驚いた顔をして、それからふわりと笑った。

その笑顔が、あまりにも眩しかった。

「ありがとうございます。……あの、このお店、なんだかすごく落ち着きますね」

「そう言ってもらえると、嬉しいな」

彼女が棚から一冊の本を抜き取る。

それは、かつて俺が、完璧な人生の中で葵に渡したのと同じタイトルの本だった。

「これ、すごくいい本ですよ。……もしよかったら、読んでみませんか?」

俺がそう言うと、彼女は目を輝かせた。

彼女と交わす、他愛のない会話。

明日、何が起こるか分からない不安。

それでも、今日という一日を懸命に生きようとする、等身大の自分。

「じゃあ、いただきます」

俺は向かいの席に座り、自分のコーヒーを一口飲んだ。

熱い。

苦い。

けれど、たまらなく美味しい。

かつて夢見た「完璧な世界」よりも、ずっと脆くて、ずっと頼りなくて、だけど確かな温もりがある。

窓の外では、季節がゆっくりと巡っていた。

冬の冷たい風は去り、やわらかな春の日差しが、店内の埃をきらきらと照らしている。

俺はふと、空を見上げた。

そこには、どこまでも高く、青い空が広がっていた。

もう、後悔はしない。

俺の人生という名のインタチェンジは、ようやく本当の目的地へと繋がったのだ。

さあ、次はどんな物語と出会おうか。

俺はゆっくりと店内の掃除を始めた。

ほうきが床を掃く軽やかな音だけが、陽だまりの中に静かに響いていた。

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