第十三章 父の背中
潮待ち浜から戻ったあと、春口の空気は目に見えないまま少し変わった。
町そのものは何も変わらない。
朝になれば港では船が出て、昼には坂道の石が熱を持ち、夕方には列車が海沿いを一両で通り過ぎる。宿の客も来て、汐里はいつものように食事を作り、湊は皿を拭き、玄関を掃く。けれど、一度あの霧の中に立ってしまうと、春口の風景はもうただ美しいだけでは済まない。目に入るもののすべてに、「ここで誰かが待っていた」という気配が薄く重なる。その重なり方が、以前より静かになったぶん、かえって深かった。
潮待ち浜は駅ではなかった。
待たされる時間の場所だった。
父も、澄江も、そして千紘も、そこにいた。
では、そのあと父は何を背負い、どうやって春口を離れたのか。
湊の中では、次の問いが自然にそこへ向かっていた。
翌日の午後、藤堂からまた連絡があった。
「少し歩けるか」
受話器の向こうで老人が言う。
「歩けます」
「なら、夕方前に港の先の高台へ来なさい。あんたのお父さんの話を、まだ少ししとらん」
高台、という言葉に、湊は霧の中で見た父の背中を思い出した。
海を見下ろすような位置に立っていた若い父。
あれが現実の記憶そのものではないとしても、何かの輪郭には触れていた気がしていた。
汐里に伝えると、彼女は少し黙ってから言った。
「行ったほうがいいですね」
「ええ」
「私も、今日は無理に一緒に行かないほうがいい気がします」
「どうして」
「たぶん今日は、“あなたのお父さん”のところまで行く話だから」
「……」
「その先で、母と千紘にまた戻ってくるんだと思います」
湊はうなずいた。
汐里の言葉は、いつも少し先の輪郭を先に見ているようだった。
父を知ることと、千紘を知ることは繋がっている。けれど、同じ円ではない。ここから先は一度、自分の父を自分の目で引き受けなければならないのだろう。
指定された高台は、春口の外れにある小さな見晴らし台だった。
港と駅と、その先の線路、それに島影が一度に見える。夕方前の光はまだ白いが、少しだけ傾き始めている。藤堂はすでにそこにいて、ベンチではなく柵のそばに立っていた。
「ここ、父が来たことありますか」
湊が訊くと、老人はすぐ頷いた。
「何度もな」
海から風が上がってくる。
下を見れば、春口の港が小さく見える。駅の赤い屋根も、海沿いの線路も、港へ向かう道も、すべて掌に乗るほどの大きさだった。こうして俯瞰すると、港と駅の距離は近い。あまりに近くて、そこで誰か一人を見失うことなど、にわかには信じられないほどだ。だが現実には、近いからこそ混乱が起きることもある。人は「すぐ行ける」と思う距離を、いちばん軽く見積もるからだ。
「亮介さんはな」
藤堂が静かに言った。
「最初に春口へ来たとき、まだ若かった。二十歳そこそこやったろう。地元の人間やない。大学の調査か何かで、このあたりの港や路線の手伝いに来とったらしい」
「学生だったんですか」
「たぶんな。詳しい経歴までは知らん。じゃが、現場で動くのに慣れとるふうではなかった。まじめで、言われたことはちゃんとやる。けど、そのぶん“言われたことの外”に何が残るかまでは、まだ若すぎて見えてなかった」
その言い方に、湊は胸の内側を掴まれる気がした。
言われたことの外に何が残るか。
それは、大人になってからでないと見えないものかもしれない。
現場では、指示、役割、手順、優先順位が先にある。混乱の中ではなおさらだ。
子ども一人の不安な顔が、その外にこぼれることはある。
「父は、港の手伝いを?」
「そうや。船の便が乱れ、港側で人が詰まり、荷も滞り、親類への引渡しもごちゃついとった。澄江は先に親類に回された。千紘は仮場へ残された。亮介さんは、その“少し待たせる”判断に逆らわんかった」
藤堂はそこで一度、言葉を切った。
責めるようでも庇うようでもない声音だった。
ただ、長い時間のあとにしか持てない重さで事実を置いているだけだった。
「そのあと」
湊が訊く。
「父は何を見たんですか」
「見たというより、見失うたんやろうな」
老人は港のほうを見下ろしたまま続けた。
「港側で別の誘導に入って、戻ったときには、白い帽子の子がおらんかった。最初は、迎えが来たか、別の大人が引き取ったと思うたんやろ。混乱しとるときは、誰もがそう思いたがる」
「でも違った」
「照合していくうちに、誰も明確に引き取っておらんことが分かった」
湊は息を吐いた。
何度も想像してきたことなのに、こうして言葉にされると身体の芯に沈んだ。
父は、一度そこへ残した。
そして戻ったときには、千紘はいなかった。
「海に落ちたとか、連れ去られたとか、そういう確かな証拠は?」
「ない」
藤堂は首を振った。
「そこが一番残酷なんや。誰も“最後”を見とらん。見とらんから、みんな少しずつ自分に都合のええ想像をする。迎えが来たんやろう。先に移動したんやろう。誰かが面倒見たんやろう。せやけど、どれも確認しきれん」
「父は、そのあと」
「最初は他の大人らと一緒に探した。港、仮場、駅、道、親類先。あのへんをな」
藤堂は足元の町を顎で示した。
「けど、その日のうちには何も見つからんかった」
高台の風が少し強くなった。
柵の向こうで、港のロープが小さく鳴っている。
父はそのとき、何歳だったのだろう。
まだ若く、責任の全体像も自分の罪の形も分からないまま、ただ目の前の現実に立ち尽くしたのかもしれない。
「澄江さんは?」
「あとで事情を知った。じゃが、子どもやったしな。大人らも全部を説明したとは思えん」
「父と会ったんですか、その直後に」
「会うたやろうな」
藤堂はゆっくり言った。
「ただ、まともな言葉になったかどうかは分からん。あの年齢や。片や自分だけ先に引き取られた後ろめたさ、片や残した側の負い目。そこへ大人らの曖昧な説明が重なる。何を言っても、足りんかったろう」
その光景を想像すると、胸が苦しかった。
子どもだった澄江。
若い父。
失われた千紘。
誰もまだ、それを引き受ける言葉を持っていない。
だからそのまま時間が流れ、沈黙だけが固まったのだろう。
「父は逃げたんでしょうか」
湊は自分でも驚くほどまっすぐに訊いた。
「春口から」
「逃げた、いう言い方もできる」
藤堂は正直に答えた。
「大学や生活があったんやろうし、ずっとここにおるわけにもいかんかった。けど、気持ちとしては、離れること自体が逃げに思えたはずや」
「……」
「ただな、亮介さんは“なかったこと”にはしなかった。そこが大きい」
「何度も戻ってきたから」
「そうや。普通は、人は自分が一番しくじった場所へ、そう何度も戻れん」
その言葉に、湊はようやく、父の背中を少し別の角度から見られる気がした。
父は春口を去った。
それは事実だ。
千紘を残した時間の場から離れた。
だが、それで終わらせることもできなかった。
戻り続けたということは、贖いたかったのでも、きれいな意味で責任を取ろうとしたのでもないだろう。むしろ、離れた先でもその時間から切れなかったのだ。
「ある年のことや」
藤堂が続けた。
「亮介さんが、ここでわしにぽつりと言うたんよ。『自分は千紘を置き去りにしたのではなく、一度置いても大丈夫だと思ってしまった。それがいちばん許せない』と」
「……」
「“置き去りにした”やったら、まだ悪意の形にできる。けど実際はそうやない。善意も、手伝いも、事情も全部あった。その中で、ほんの数分、ほんの一つの判断で、子ども一人の時間が切れた。それがいちばんきついんやろう」
湊は目を閉じた。
父の苦しみが、ようやく一つの輪郭を持った気がした。
悪人なら、まだ分かりやすい。
善人なら、なおさら楽だ。
けれど父はそのどちらでもない。
まじめで、若くて、与えられた役割を果たそうとし、その結果、自分の判断の軽さを一生背負うことになった人だ。
「私は」
湊が低く言った。
「父を許すべきなんでしょうか」
「知らん」
藤堂はすぐ答えた。
「許すとか許さんとか、そもそも死んだ相手には半端な言葉や」
「……」
「ただ、あんたが親父さんを“ただの無関心な男”として終わらせんで済むなら、それは意味がある」
それ以上でも、それ以下でもないのだろう。
父は間違えた。
そして背負った。
それで何かが帳消しになるわけではない。
だが少なくとも、自分が知らなかった父の人生が、いまは確かにそこにある。
春口へ戻る坂道で、湊は足を止めて何度か海を見た。
夕方の光が水面を広く照らし、島影は少し紫を帯びている。港には釣り帰りらしい家族連れがいて、子どもが走り回り、親が後ろから声をかけている。その当たり前の風景が、今日はひどく脆く見えた。子どもを見守ること、少し先で待たせること、すぐ戻ると約束すること。そのすべてが、ほんのわずかな条件のずれで別の意味を帯びてしまう。
宿に戻ると、汐里は縁側にいた。
話しかける前に、湊の顔を見て何かを悟ったらしく、ただ静かに座る場所を空けた。
「駅長さんに聞けましたか」
「はい」
「……どうでした」
「父は、若かったです」
自分でも妙な答えだと思ったが、それが一番先に出た。
「若くて、まじめで、たぶん不器用で、でもそのぶん“少し待っても大丈夫”の重さを知らなかった」
汐里は黙って聞いている。
「そしてそのことを、一生忘れなかった」
「ええ」
「戻り続けた」
「そうですか」
「でも、それで何かが戻ったわけじゃない」
汐里は少しだけ海のほうを見てから言った。
「それでも、戻るしかなかったんでしょうね」
「たぶん」
「母も、きっと同じです。駅へ行ってしまうのは、誰かが戻るのを待っていたというより、自分がまだそこから帰れていなかったから」
湊はうなずいた。
父の背中も、澄江の沈黙も、ようやく同じ水平線の上へ並んできた気がした。
どちらも加害者でも被害者でも片づけきれない。
あの日、誰もが少しずつ流され、その流された先で生き続けるしかなかった。
夜、父のノートの最後のほうに、見落としていた走り書きを見つけた。
――あのときの自分を責め続けることと、千紘を忘れないことは、同じではない。
――だが、どこでそれを分ければいいのか、今も分からない。
その一文を見たとき、湊ははじめて父の肩の重さを、自分の身体の近いところで想像できた。
自分を責め続けること。
千紘を忘れないこと。
その二つは似ているようで違う。けれど、父はその違いを整理できないまま年を重ねたのだろう。だから手紙も出せず、家庭でも黙り、ただ春口へ戻ることしかできなかった。
湊はノートを閉じ、暗い窓に映る自分の顔を見た。
父に似ている、と言われたことは何度もある。
今、その意味が少し変わって見えた。
顔立ちではなく、言葉にできないものを抱えたときに黙り込んでしまうところまで、もしかしたら似ているのかもしれない。
けれど、自分は同じ形では終わりたくなかった。
父の背中を見たからこそ、自分はせめて、それを言葉にする側へ少しでも近づきたいと思った。
窓の外で、夜の列車が通った。
レールの音は短く、海の気配の中へほどけていく。
父の背中はもう振り返らない。
それでも、その背中が何を背負っていたかを、自分はようやく見始めている。




