第十一章 帰れなかった人々
八月が深まるにつれて、春口の空気は少しずつ乾いていった。
朝の海は相変わらず穏やかだったが、日が高くなると光の粒が細かく立ち、岸壁のコンクリートからは熱が返ってくる。島影は近いのに、昼の強い照りの中ではかえって遠く見えることがある。見えることと近いことが一致しないのは、この土地では海だけではなかった。帰ることもまた、見えているのに届かないことがある。湊はこのところ、その感覚をずっと胸のどこかで反芻していた。
父があの日、千紘を待機場所に残した。
それはもう、ほとんど疑いようがなかった。
だが、そのあと千紘がどうなったのかはまだ分からない。
そして、分からないままでもう一つはっきりしたことがある。千紘だけが特別に不幸だったのではなく、この土地には「帰れなかった人」の記憶がいくつも沈んでいるらしいということだった。
朝食のあと、汐里が帳場で新聞をたたみながら言った。
「今日、島へ行きませんか」
「志々島へ?」
「ええ。母の手記に、島の古い人なら知っているかもしれないって書きかけがあったんです」
「誰のことを?」
「千紘のことか、あの日のことか、そこまでは分からないですけど」
手記の断片には、こうあったらしい。
――島の人は、帰ってこない人のことを長く覚えている。
――本土の人は、いなくなったとだけ言う。
――でも島では、帰れなかったと言う。
その言葉が湊の胸に残っていた。
いなくなった、と、帰れなかった、は似ているようで違う。前者は事実で、後者は経路だ。どこかへ行ってしまったのではなく、戻るはずだった道の途中で止まった感じがある。父が追っていたのも、まさにその「途中で止まった時間」だったのかもしれない。
昼前の船で志々島へ渡ることにした。
港の待合には、麦わら帽子をかぶった女の子と、その祖母らしい女性が座っていた。女の子は退屈そうに足をぶらつかせている。祖母は何も言わず、その小さな背中に時々手を置くだけだ。湊はその光景に、理由もなく胸がざわついた。待つことは、この土地ではあまりに日常で、だからこそ危うい。大人にはただの移動の隙間でも、子どもにとっては何かが決まってしまう時間かもしれない。
船が着き、四人で乗り込む。
海は昨日より穏やかで、白い航跡がすぐ消える。港から離れると、本土側の線路が高いところに細く見えた。船と列車は別の時間に動いているようでいて、こうして眺めると確かに同じ風景の中にある。どちらか一方が乱れるだけでも、人の帰り道は簡単にほどけるのだろう。
志々島の港に降りると、夏の匂いが濃かった。
乾いた草、石垣にしみた潮、柑橘の葉の青さ。
前回来たときより、島全体が少しだけ明るく見える。お盆が近いからか、空き家の戸がいくつか開いていて、掃除をしている人影もあった。帰省の季節なのだろう。普段は静かな島に、一時的に「帰ってきた人」の気配が混じる。
港の小さな店には、前に会った女性がいた。
冷凍ケースのふたを拭いていた手を止め、二人を見るなり少し目を細める。
「また来たね」
「はい」
汐里が答えた。
「母の昔のことを、少し」
「澄江さんの?」
女性はすぐ名前を出した。
「知ってるんですか」
「そりゃ知ってるよ。若いころ、何度か島に来てたからね」
汐里の表情がわずかに変わった。
自分の知らない母の時間が、また一つ別の人の口から出てくる。そのたびに、過去は親しいものではなく、むしろ自分の外側へ広がるものとして感じられるのだろう。
「座りなさい」
女性は前と同じ丸椅子を示した。
「今日は長くなりそうだから」
店の中は薄暗く、外の陽射しだけが白く流れ込んでいる。
冷凍ケースの低い唸りが、会話の底にずっと鳴っていた。
「澄江さんはね」
女性が言う。
「千紘ちゃんのことを、ずっと気にしてたよ」
「ちゃん?」
汐里が反応する。
「知り合いじゃなくて、もっと近い感じだったんですか」
「親戚ではなかったと思う。でも、小さいころから一緒にいた子たちみたいな距離だった」
「島の子じゃないんですよね」
「うん。本土側の子。でも、こっちの親類のところへ時々預けられてたみたいだった」
湊は身を乗り出した。
そこが初めて具体的だった。
「預けられていた?」
「そう。事情は知らないよ。親の仕事か、家のごたごたか、そのへんまでは。でも昔は珍しくなかったからね。島と本土の親類のあいだを行ったり来たりする子は」
つまり千紘は、この土地の移動の網の目の中にいた子どもだった。
本土にも島にも完全には属さず、船と列車と親類の家のあいだを往復する生活。待たされることに慣れていた、という澄江の手記の一文が、急に現実味を帯びる。大人の都合で行き先が変わり、迎えの時間がずれ、便に合わせて動く暮らしの中では、子どもは「待つ側」に回されやすい。
「帰れなかった人のことを、島では長く覚えてるって」
汐里が言う。
「母がそんなふうに書いていました」
「そうだろうね」
女性は頷いた。
「島は、行くより帰るがはっきりしてるから。誰が戻ってきた、誰が今年も来ない、誰の家の戸が閉まったままか。そういうのを、みんな何となく見てる」
「じゃあ千紘も……」
湊が言いかけると、女性は静かに首を振った。
「帰ってこなかったんだろうね、あの子は」
その言い方は断定ではない。
だが、長い時間を経た人の実感があった。
「亡くなったということですか」
汐里が訊く。
「分からないよ。海へ落ちたのか、誰かに引き取られたのか、本土で別の家へ行ったのか、確かなことは何も。でもね、島の人間が“帰れなかった”と言うときは、生き死にだけの話じゃないんだ」
「どういう意味ですか」
「戻るはずだった場所に、二度と足がつかなかったってこと」
湊は、その言葉をゆっくり受け止めた。
父が追っていたのは、生存確認だけではない。千紘が「戻るはずだった場所」に戻れなかったこと、その途中に自分が関わっていたことの重さだ。だから父は、彼女の消息だけでなく、春口や神尾浜や橘浜を巡り続けた。帰れなかった時間が残っている場所を、何度も確かめるように。
女性はさらに言った。
「この島にも、帰れなかった人は何人もいたよ」
「戦争で?」
湊が訊く。
「それもあるし、海で働いてて戻らんかった人もおる。進学や就職で本土へ出たまま、帰るつもりで帰れなかった人もおる。便利になればみんな簡単に行き来できると思うだろうけど、実際は逆だったことも多いんだよ。橋ができる、道路ができる、列車が速くなる。そのたびに、小さな待合や小さな船着場がいらないものになって、そこに乗ってた暮らしも一緒に消えていく」
それは篠原の話とも通じていた。
鉄道が発達し、港が整理され、航路が減る。全体としては便利になるのに、その変化の中でこぼれる暮らしがある。父は千紘一人を通して、そういう時代の隙間そのものを見ていたのかもしれない。
店を出ると、港の向こうに本土が白く光っていた。
近い。
あまりに近く見えるせいで、そこへ帰れないことのほうが想像しにくい。
それでも、帰れなかった人たちはいた。
見えているのに届かない。その歯がゆさが、瀬戸内という土地にはいつも静かにある。
午後、女性に教えられた島の高台の墓地へ向かった。
澄江が若いころ、千紘と一緒に何度か来たことがあるという。石段を上ると、海が広く見渡せた。港も、本土側の線路も、晴れていれば橋の影のようなものまで見える。墓地の隅に、小さな無縁仏の列があった。名のない石も混じっている。
「島はね」
案内してくれた女性が言う。
「戻ってこん人の名前を、誰も大きな声では言わない。でも、忘れもしない」
「どうしてですか」
「口にすると、ちゃんと送らなきゃいけなくなるからさ」
その感覚は、父の沈黙とよく似ていた。
忘れない。
けれど言葉にしてしまえば、一つの形にしなければならない。
形にすることは、弔いであると同時に、どこかで見切ることでもある。
父も澄江も、それができなかったのだろう。
墓地の帰り道、汐里がぽつりと言った。
「母も、帰れなかった人だったのかもしれません」
「春口にいたのに?」
「物理的には帰ってた。でも、千紘と一緒にいた時間や、あの日の前の自分には戻れなかった」
「……そうですね」
「だから駅へ行ってしまったのかもしれない。そこに行けば、まだ帰れる途中にいる気がしたのかも」
その言葉は、湊自身にも当てはまる気がした。
父を知り直す前の自分には、もう戻れない。
けれど春口へ来たことで、自分が今どこへ帰ろうとしているのかもまだ分からない。
人はいつも、物理的な家へ帰るだけではないのだろう。理解できなかった人を理解する場所、自分の空白を引き受け直す場所へも帰ろうとする。
夕方の船で春口へ戻ると、港には帰省客らしい人々が増えていた。
子どもを連れた家族、土産物の袋を持った若い夫婦、久しぶりに会ったらしい兄弟。笑い声が波の音に混じる。夏の港は、本来こういう「戻ってくる人」の気配でできているのだと思った。その光景が明るいぶん、戻れなかった人々の不在はかえって濃く感じられた。
宿へ向かう坂道で、汐里がふいに足を止めた。
海のほうを振り返りながら言う。
「私、この町に残ってるのは、好きだからだけじゃないんだと思います」
「ええ」
「誰かが帰ってくる場所を、なくしたくなかったのかもしれない」
「お母さんのために?」
「母のためでもあるし、千紘のためでもあるし、自分のためでもあるんでしょうね」
湊は返事をしなかった。
ただ、その言葉が胸に深く沈んだ。
宿を続けること。
駅の近くに灯りを残すこと。
それは生活であると同時に、帰る場所をひとつでも消さないための行為なのかもしれない。
夜、縁側で風に当たりながら、湊は父のノートを広げた。
ページの隅に、これまで読み飛ばしていた一行を見つける。
――帰れなかったのは、千紘だけではない。
――あの日のあと、みな少しずつ別の場所へ流された。
みな少しずつ。
その言い方が重かった。
千紘は戻れなかった。
澄江もまた、あの日以前の自分へ戻れなかった。
父も春口から去ったあと、何食わぬ顔で家庭へ戻ったふりをしながら、心のどこかはずっとあの待機場所に留められたままだったのだろう。
遠くで列車の音がした。
夏の夜のレールは、昼よりも少し低く響く。
見えない車窓の中で、今も誰かが帰省しているのかもしれない。あるいは、帰る場所を失ったままどこかへ向かっているのかもしれない。鉄道は人を運ぶが、それと同じくらい、人の帰れなさも静かに運んでいる。
湊はノートに書き足した。
――島では、いなくなった人のことを“帰れなかった”と言う。
――戻るはずだった場所に二度と足がつかなかった人。
――父も澄江も、あの日から少しずつ帰れなくなった。
書き終えると、夜風がページを揺らした。
縁側の先に広がる闇の向こうで、海がゆっくり呼吸している。
春口は変わらず静かだった。
だがその静けさの中で、湊にはもう、幾人もの「帰れなかった人々」の足音がかすかに重なって聞こえる気がした。




