3.伝説の名馬への挑戦
そして、レース当日――。
ニューマーケットの競馬場には、マッチレースを見に来た観衆が集まっていた。
エレインも観に来ている。
なんだか緊張してきたな。
今日のマッチレースには、互いに大金を賭けている。負けるわけにはいかない。
僕とオーウェン卿のところに、脂ぎった中年の男が近づいてきた。
でっぷりと太っていて、いかにもな悪党面をしている。
「これはこれはオーウェン卿、本日はエクリプスのために見せ場を用意して頂き、ありがとうございます」
そう言って、頭を下げた。慇懃無礼とはこのことだろう。だが、オーウェン卿は気を悪くした様子もなく、答えた。
「オケリー大佐、今日は勝たせてもらうよ」
「おやおや、たいした自信ですな」
この男が、エクリプスの馬主であるオケリー大佐のようだ。あまり評判の良くない男で、大佐の地位も金で買ったと言われている。
「ふん、その馬がシャドーファクスとやらですか。確かに体格だけはエクリプスに引けを取らないようです。でも、顔はずいぶんと間抜けな馬面ですな」
「なんですって!」
僕への侮辱の言葉に、エレインが怒った。
「シャドーファクスはかっこいいじゃないの。あんたのカエル面とは比べものにならないわ」
「なんだと、このメス馬が!」
怒ったオケリー大佐がステッキを振り上げたので、僕は慌ててエレインをかばおうとした。しかしその時、周囲を威圧するような声が響き渡った。
「やめんか、オケリー!」
一頭の馬が現れた。
その馬は、顔に白斑のある栗毛の馬で、その体は日の光を受けて、金色に輝いていた。
その馬の登場により、明らかに場の空気が変わった。さながら、王様がやってきたかのようだ。
「し、しかしエクリプス様。その馬が無礼な発言を……」
「今すぐ、その汚い口を閉じないと、蹴り殺すぞ!」
「も、申し訳ございません!」
エクリプスに叱られて、オケリー大佐は深々と頭を下げた。
すごい馬だなあ、馬主よりも偉いなんて。
エクリプスはエレインに近づいてきた。
「私の馬主が迷惑をかけたな。許してくれ、お嬢さん」
「い、いえ、お気になさらず」
エレインは、エクリプスに気圧されているようだ。
そしてエクリプスは、僕に話しかけてきた。
「君が、私の対戦相手のシャドーファクス君か。今日はお互い、全力を尽くそうではないか」
「は、はい、よろしくお願いします」
僕はG1レースを勝った強い馬にも会ったことがある。だが、こんな迫力のある馬に出会ったことはなかった。
「ふむ、どうも君は不思議な感じがするな。なんだか他馬とは思えぬ」
「恐縮です」
エクリプスは僕の全身をまじまじと眺めた後、「また、馬場で会おう」と言い残して、去っていった。
―――
そして、いよいよレースのスタートの時を迎えた。
僕とエクリプスが開始線に並ぶ。
「大丈夫だ、シャドーファクス。いつも通りの走りをすればいい」
上からオーウェン卿が声をかけてきた。だが、僕の意識は、隣のエクリプスだけに向けられていた。
彼は全ての馬にとって、憧れの存在である。そんな馬と競走できる幸運をかみしめた。
「位置について」
隣に立つスターターがそう言って、旗を振り上げる。
競馬場内は静寂に包まれた。観衆の目は僕ら二頭に注がれている。
そして、スターターが勢いよく、旗を振り下ろした。
それを見て、僕とエクリプスは走り出した。
どちらも出遅れはない。上々のスタートだ。
まず、僕が先行した。
だが、いきなり全力で走ったりはしない。
なにせ、六千四百メートルの長丁場である。体力を温存しておかねばならない。
完走さえすれば、勝てるはずなのだ。だって、僕はこの時代においては、圧倒的なスピードの持ち主なのだから。
だが――、
すぐ後ろにエクリプスの気配を感じる。ぴったりと追走しているようだ。
すごいな、二百五十年も前の馬なのに、僕とスピードが変わらないのか。
僕は、少しだけスピードを上げた。
だが、引き離せない。エクリプスはついてくる。
僕は驚いた。この時代に来てから、僕についてこれる馬はいなかったのに。
後ろから伝わってくるエクリプスの闘気に、飲まれそうだ。
まるでライオンに追いかけられているような、恐怖を感じる。
やがて、二マイル(三千二百メートル)の標識を通り過ぎた。
やっと半分か。すでに相当な長距離を走ったのに。
胸が苦しくなってきた。
僕は、こんなプレッシャーの中で走った経験はない。
このレースには大金が賭けられている。観衆は僕ら二頭だけを見ている。
そして後ろを走っているのは――伝説の名馬エクリプス。
もはや神話の世界だ。
僕の体力と精神力は、限界に近づいていた。
そして、ついにその時が訪れた。
エクリプスが僕の前に出て、あっという間に抜き去った。
彼の走りは、まったく乱れていない。惚れ惚れするような、美しい走りだった。
そのまま、どんどん距離を離されていく。
もうだめだ、追いつけない。
「シャドーファクス、頑張ってー!」
エレインの声援が聞こえてきたが、もうこれ以上、走れそうにない。やはり六千四百メートルを走るなど、無理だったんだ。
エクリプス――すごすぎる。僕のご先祖様が、こんなに強かったなんて。
そうだ、初めから勝てるわけがなかったんだ。
僕は三十戦三十敗の、史上最低の競走馬。相手は、伝説の名馬。相手になるわけがない。
「やはり駄目か……」
上から、オーウェン卿の諦めの声が聞こえた。
そうだよ、相手が悪すぎるんだ。
だがその時、僕の中に流れる「血」が、僕に語りかけてきた。
(だめだ、おまえは決して負けてはいけない!)
なんだって?
(確かにエクリプスは強い。だが、おまえの体の中には我々の血が、幾多の名馬の血が流れているんだ!)
僕に語りかけているのは、過去の偉大な馬たちだった。
僕の頭の中に、歴史に残る名馬の名前が浮かんだ。
十九世紀最強と言われる無敗馬、セントサイモン。
天才馬産家フェデリコ・テシオが生み出した芸術品、ネアルコ、そしてリボー。
競走馬としても種牡馬としても一流の、ノーザンダンサー。
日本競馬の血統を塗り替えた、サンデーサイレンス。
そして、数多いサンデーサイレンス産駒のなかでも最高傑作の、ディープインパクト。僕のおじいちゃんだ。
より速く、より強い馬を作りたいという人々の夢を乗せて、サラブレッドは、エクリプスの時代から二百五十年をかけて、進化してきたんだ。
その間、数々の名馬が生まれた。名勝負があった。そして、悲劇もあった。
そんな歴史を受け継いで、僕が生まれた。
僕の存在は、競馬の歴史そのものだ。
僕が負けるという事は、この二百五十年間のすべての馬たちが負けることに等しい。
僕は絶対に負けるわけにはいかないんだ!
僕はスピードを上げた。
いつの間にか、疲れを感じなくなっている。
僕の中に流れる名馬たちの血が、僕を動かしている。
「な、なんだ、この速さは……馬というのは、こんなに速い生き物だったのか……?」
オーウェン卿のつぶやきが聞こえる。
僕の五感は研ぎ澄まされている。
そしてついに、エクリプスを射程にとらえた。
彼の焦りが感じられる。他の馬に追いすがられるなど、初めての体験だろう。
残り四百メートル。
僕はスパートをかけた。
エクリプスとの差が、どんどん縮まっていく。
残り二百メートル。
ついにエクリプスを一馬身差にとらえた。
だが、エクリプスは簡単には抜かせてくれない。その比類なき勝負根性で、僕が前に出るのを許さない。
僕は誇らしかった。
僕の偉大なご先祖様は、こんなにすごい馬だったのだ。
残り百メートル。
あと半馬身。
僕は負けるわけにはいかないんだ!
あと三十メートル。
僕はエクリプスに並んだ。
過去の馬たちが、僕に力を与えてくれる。
そして僕は……エクリプスをクビ差で差しきって、ゴールした。
伝説の名馬に、勝ったのだ。
僕もエクリプスも、動けない。
全ての力を、出し切ったのだ。
「私の完敗だ」
エクリプスが言葉をしぼり出した。
その声には、悔しさの中にも、どこか満足感を含んでいるように感じた。
「ありがとうございました」
僕の口から自然に言葉が出た。
僕が強くなれたのは、あなたのおかげです。あなたの残してくれた血のおかげです。
「だが、勝負は始まったばかりだぞ」
エクリプスの言葉の意味がわからず、僕は問い返す。
「どういう意味でしょうか?」
エクリプスはニヤリと笑って言った。
「これからは、どちらが優れた子孫を残せるかの勝負だ」
エクリプス系 VS シャドーファクス系
僕たちの血統をめぐる、新たなる戦いが始まった。
読んで下さり、ありがとうございました!