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満月日和  作者: 海月 星
第2章 直立不動の真実
38/38

進むは前へ

 ゆっくり、ひっそり。

 足音を立てず、息を潜め。

 地面を踏みしめる感覚を受けながら、ルイは静かに階段横へと身を潜めた。

 薄暗い室内の中心に淡い藍色の光が漂っており、その死角になる階段横から辺りを見渡した。

 二階の部屋より断然広い一階。リビングと称するのが適切だ。

 紺色の扉が二つあり、一つは半開きになっており、そこから洞窟内の景色が見える。

 もう一つの扉は、わからない。

 倉庫か別室か。はたまたどこか遠くへ行ける魔法の扉か。

 開けなければわからない。とはいえ開けるリスクも背負う必要はない。

 ルイは視線を部屋の中心に戻した。


「……」


 常に興奮気味のアーラルに再開してからほどなくして、ルイは同じように扉に手をかけた。ある決意を固めながら。

 シンプル過ぎる家の構造のおかげで迷う事なく一階に来れたはいいのだが、ルイはそれ以降どう行動すればいいのか迷っていた。

 階段の陰から顔を出し、もう一度辺りを見渡した。

 部屋の中心に佇む淡い藍色の光。

 その光に包まれるエリニスの姿。

 腕には見えない糸で縛られているように吊るされており、両膝をついた状態で瞼を閉じている。

 規則的な呼吸を見る限り眠っているのだろう。確認するには近くしかない。

 淡い光を取り囲むように魔法陣らしき八角形の絵柄が書かれており、角の先に円がある。

 円の中には光と同じ色の宝石が。自ら輝いているそれらはエリニスを縛る鍵だと考えた。

 ルイは誰もいないことが確認できると、眠りこくるエリニスの前へ足音を立てぬよう走る。

 そして視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。


「……おはようございます」

「……」


 なんと声をかけたらいいのか分からず、とりあえずありきたりな言葉をかける。

 しかし、反応は無。

 指先一つも動かない。


「朝、かはわからないけど朝ですよぉ…」

「……」

「……」

「……」

「……はぁ…」


 案の定というか何というか。

 エリニスは規則正しい呼吸を保ったまま一切の反応を見せない。

 アーラルの言っていた『下にいるからいつでもおいで』とは、ただ面会するだけのことだったのか。

 対話だと思い違いをしていた苦しみと、曖昧な表現をしたアーラルに苛立ちを感じながら、ルイは他に方法がないかと立ち上がり──


「──っ!?」

「黙れ。声上げたら噛み殺すぞ」


 ドスの効いた声が耳元で聞こえる。

 人の息遣いを間近に感じ、何が何だかわからないまま上を向くと、そこにはルイを睨みつけるエリニスがいた。

 ローブを引っ張られたせいで首元が苦しくなった。と、思えば、なぜかエリニスの胸に寄りかかる体制になっており、やはり疑問符しか浮かばない。

 ルイがなにかを言う前に、エリニスが脅すように声を発した。


「この結界は体の半分が出ると爆破する。てめぇは逃げられねえ。いいな」

「……はぁ……?」


 状況に頭が追いつかず、曖昧な返事になってしまう。

 というより理解しろという方が無理な話だ。

 自分はただ、立ち上がろうとして邪魔されて。なぜか脅しにあっているだけなのだから。

 と、そこまで思ったところで、理解できてるじゃん…、と思ったのはまた別の話。

 ルイの内心を知らぬまま、エリニスは顎で円の中で輝き続ける宝石を指した。


「死にたくなきゃ、てめぇあれを壊すか術式を転換させるかどっちかしてこい。そしたらなんもしねえで返してやるよ」

「術式の転換……?」

「あ?」

「すみません」


 聞いたこともない言葉に対してつい聞き返してしまう。

 リネアには多くのことをこうやって聞き返し、そのほとんどを答えてくれた。

 もちろん、全てを知っているわけではないので『わからない』というものはあったが。

 ルイは苛立っているエリニスから離れ宝石を壊しに、とは行かず。


「あ?」

「交渉しよ」


 エリニスの黒みがかった赤い双眸と視線を合わせる。

 自信を持っている風に演じながら、なるべく相手に内心を悟られぬよう。

 ルイは位置を直すようにお面に触れた。


「あんたは今ここから出られない。それで、あたしに助けてほしい。けど、それだけじゃあたしの利益が微塵もないのはわかる?」

「てめぇ死にてえのか?あ?」

「あたしが死んだらあんたは助からないよ」

「……」


 痛いところを突かれたという風に顔を歪ませるエリニス。

 ルイは頬に流れる汗を感じながら言葉を続けた。


「あたしは別にあいつらの仲間とかそういうんじゃないし、むしろムカついてるしイラついてるしなんなら一発殴りたいけど」

「……」

「あたしはあいつらから逃げたい。けど、あたし一人じゃどうにもできない。だから」


 そこで一旦言葉を区切り、息を吸う。

 心臓の拍動が、背中を押すようにドクンと音を鳴らした。

 ルイは真っ直ぐとエリニスの瞳を見つめながら言い放った──


「──あたしを守って」


 たったその一言だけだというのに、ルイの全身に重圧がのしかかった。

 変わらぬ表情で睨みつけるエリニスから視線を外さぬまま言葉を続ける。


「別に一生ついて来いとか守れとか言ってんじゃなくて、ただこの洞窟から逃げるまで。それ以上は望まないし、出た瞬間…殺しても良い」


 面を被っている為に表情は読まれないにしろ、緊張しているのはバレているだろう。

 基本的に自らができる事以外やってこなかった為、人に物事を頼むのが慣れていなかった。

 断られたらどうしようという不安はない。ただ、気がひける。

 それに死なないとわかっていても、自分を『殺して良い』というのは恐怖以外の何物でもない。

 ルイは動き出す心臓を胸に感じながら相手を睨みつけた。


「で、どうする? あたしはどっちでもいいけど」

「……」


 堂々と言い放ってみたものの、内心は冷や汗の嵐。生意気言ってすみませんとも思っていた。

 というより、『どっちでもいい』など嘘だ。

 エリニスがいなければアーラルと行動を共にしなければならないだろう。

 確かに彼女らは『人間』という種族に対してだけは慈悲がある。

 しかし、だからといって生理的に無理だと感じた相手が、さも当然のように隣にいるのはストレスで胃に穴が開いてしまう。

 セツやセツナも充分ストレスの原因なのだが、アーラルは別の方面からのストレスのような。

 例えるなら、一緒にいるだけで自分という野菜の鮮度が落ちていくような。気づけばしなしなになっているような。

 とはいえこれは第二の理由だ。

 第一の理由はというと、こうしなければエリニスを助けられないと思ったのだ。


「……」

「……」


 未だ沈黙を貫くエリニス。

 このままでは死ぬまで体を引き裂かれる事は彼も知っている筈だ。

 だからこそルイに脅しをかけ、それを利用して交渉に持ち込んだ。

 エリニスの事情に足を突っ込もうとも、自分の事情に引きずり込もうとも思わない。

 ただ、一時的な共戦。

 それ以上はお互いの道へ。お互いの目的へと進んでいく。

 思案するように目を細めたエリニスは、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「……てめぇは魔獣じゃねえだろ」

「うん」

「てめぇは何もできないだろ」

「そう」

「てめぇは人間だろ」

「……うん」


 自分の身体を考えれば『人間である』と断言するのは些か間違いだ。

 だが、今重きを置いているのはそこではない。

 ルイはじっと相手の反応を待った。


「俺はお前を信用しない」

「……」

「……ここを出るまでだ。さっさとしろ」


 そう言って視線を逸らすエリニスは照れ隠しのようで。

 言葉の意味を理解するのに時間がかかって。

 事が上手く運んでいることに疑問が湧いて。

 ルイは急におどおどと体を震わせた。


「ほ、本当に?」

「ああ」

「だって、あたし人間よ?」

「ああ」

「あたし仮面付けてるよ?」

「だからなんだよ」

「えっ、だって、待って……は?いや違う、嬉しい。嬉しいんだけど待って何でこんないい感じに事が運ばれてるの。今までことごとくダメだったのにあれこれ夢オチってやつか、いっ!?」

「うるせぇ」


 挙動不審になるルイに頭突きがかまされる。

 エリニス的には軽いものだったようだが、ルイにとってはトンカチをスイングされたような痛みだった。

 現に脳は揺れ目眩もしている。

 よたよたと額を抑え唸っていると、頭上から隠す気の無い舌打ちが聞こえた。


「てめぇが持ちかけた交渉だろうが。覚悟決めて俺の前に立ったんなら背筋伸ばせやポンコツ」

「ポンコツ…」

「何もしねぇでそこいんなら噛み殺すぞ低脳。てめぇは何しにここまで来たんだ?あ?」

「か、返す言葉もありません…」


 容赦のない言葉に項垂れつつも、何もしないわけにはいかない。

 ルイはエリニスに背を向けて鞘ごと剣を抜いた。

 そしてそっと陣の外へと剣先を出すも、さして反発があるわけでもなく早々に一つ目の宝石へと届いた。

 高鳴る鼓動を感じながら、ゆっくりと宝石を動かしていく。

 手に汗が滲み、しっかりと握りしめていなければ滑り落ちてしまいそうだ。

 宝石が円の半分から出る。

 しかし何事もない。

 どちらかといえば後ろからの威圧が強くなるばかりだ。

 ルイは一つ深呼吸をすると、思い切って勢いよく宝石を円の外へと弾き出した。


「……」

「……」

「なんもねえな」

「……だね」


 宝石が床に落ちる音を響かせれば、輝いていた光は徐々に勢力をなくし、最終的に光は消え失せた。

 宝石だと思っていたそれは、光が消えるとただの石ころのようだった。


「こういう結界もあるんだね……」

「外から解きやすいもんは内から解けにくいもんが多いっつうからな。なんの仕掛けなくてもおかしかねえよ」

「まじかー…」


 なんだか緊張していたのがバカらしくなって、肩の力がスゥっと抜けた。


「……これもしかして助けた暁には惚れられる乙女ゲー展開とか……?」

「よくわかんねえがさっさとしろ」

「いでっ!」


 容赦ない後頭部への頭突きに脳が眩む。

 いつか首が吹っ飛んでしまいそうな力加減に、もうバカなボケはやめようと心の中で誓った。

 頭をさすりながら顔を上げ、残りの宝石へと目を向ける。

 宝石は残り七つ。

 四つん這いになりながら移動し、隣にある宝石へと剣先を向けた。

 陣から抜けようとも、やはりなんの反応もない。

 ルイは少々慣れたように二つ宝石を弾いた。

 今度は立ち上がり、エリニスの背後へと回る。

 もはやなんの緊張もなくホウキで埃を払うように腕を動かした。

 微かにキィィン…という音を発しながら地面を転がる宝石。

 円の外へと転がり、ゆっくりと止まる。

 徐々に消えて行く淡い光。

 石ころへと変貌した宝石は、安らかにその役目を終えて──


 ──キュィィィィィィィィィィィン…


「なっ!?」

「っ!?」


 眩い光と共に巨大な甲高い音が辺り一面を覆った。

 目の前がチカチカと点滅し、耳に残る音にくらりと体がよろけてしまう。

 片膝をついて口を抑えれば吐き気が身体中を駆け巡った。


「っ、早く退かせ!!」

「──っ……!」


 怒声にも似た声に、ほとんど反射で剣を振り回す。

 鉄と鉄がぶつかるような音がすれば、淡い光が全て消え去った。

 続いて腹に腕が回され、そのまま窓へと突っ込んで行く。

 急激にのしかかった腹の痛みに野太い声を出してしまったが、それはガラスの割れる音で掻き消された。

 瞬間。

 背後からの轟音。

 燃えるような熱さが全身を包み込む。

 風圧に押し出された体が着地の衝撃を腹に感じた。


「目がぁ!目がぁ!」

「……めんどくせぇ」


 光にやられたルイが目を抑えながら悶えると、腹に回された腕が解放される。

 空を飛べる能力があるはずもなく、ルイは地面に衝突した。

「ぐふっ」という声を上げると、口の中に砂が入ったらしく何度も唾を吐き出す。

 その間、エリニスは先程まで自分たちがいた部屋の燃え上がる光景をじっと見つめ、ため息を吐きながら頭をかいた。


「悶えんのもいいが、来るぞ」

「……?」


 頭に疑問符を浮かべながら、治ってきた視界にエリニスを写す。

 そしてルイが行動を起こす前。

 土を踏みしめる音が聞こえたと思えば、


 ──燃え盛っていた炎が一瞬のうちに消えた。


「はっ?」


 何が何だかわからぬまま、間抜けな声が漏れてしまう。

 エリニスは警戒するように前方を睨みつけた。

 数秒もしないうちに土を踏みしめる音が再開し、砂埃の中からすらりとした影が見えた。

 真っ白い素肌。

 艶やかな小紫色の長い髪。

 高い身長と長い手足。

 色づく唇は桜の花を落としたように。

 フリルのついたシャツと細いパンツ。

 首輪のようなチョーカーとカチューシャのようなリボン。

 しなやかなコート、それら全てが奇抜な色でまとめられており、その女性以外誰も似合わないであろう服装だった。

 多少服装は違うにしろ、見知った顔付きに、あっと声を上げた。

 歩いて来る女性、ギシアンはゆらりと瞼を持ち上げた。


「お久しぶりでございます。再開早々このような事態になってしまい申し訳ございません」

「えっ、あっ、いえ、そんな……」


 ルイに体を向け、腰を折り曲げるギシアン。

 炎上させたのは自分でり、謝罪されるのは些か見当違いというものだ。

 ルイは申し訳なくなって「こちらこそすみません……」と謝った。


「いえ。我が主人が被害を鑑みない結界を張ったのが理由でございます。どうか頭をお上げになってください」

「はあ……」


 アーラルに対してのみ当たりの強いいつものギシアンに苦笑しつつ、今の状況をどう説明しようかと思案した。

 結界を張ったのがアーラルであるのなら、その結界を解いたルイは敵と言うことになる。

 敵対することを前提にエリニスと手を組んだが、なるべく戦闘は避けたいのが事実だ。

 しかし、言い逃れできないのもまた事実。

 ルイの内心を知ってか知らずか、ギシアンは「それで、」と言葉を発し、その一言で場の空気がきつく張り詰められた。

 ギシアンの強い瞳が、見透かすように向けられる。


「貴方様の行動は我が主人の意思によるものでしょうか?」

「えっ……あぁ!そう!そうなの!アーラルさんが連れてっていいよって…」


 我ながらわかりやすい嘘だと思った。

 語尾がだんだん窄んでいき、視線を逸らしながら頭をかく。

 わかりやすい動揺の仕草に自分でもため息をつきたくなるのだが、この張り詰めた空気の中、気をぬく事は出来なかった。

 しかし、ギシアンはその場の空気を緩和させるようにため息を吐いた。


「貴重な資材を易々と渡すわけにはいかない、と言いたいところですが。我が主人は確かにそのような狂った思想の持ち主でございます。私めの苦労も知らずに言葉一つで台無しにしてしまうお方ですので」

「……そ、そうですか」


 資材、という表現に苦しみにも似た感情が湧き上がったが、どうにか堪えることができた。

 ギシアンの表情は鉄のように動く事はないが、心底面倒だと言う雰囲気はありありと出ている。

 ルイは事の運びにホッとするも、半分以上呆れていた。

 ルイもこの世界では異端な考えを持つ者だが、アーラルも充分異端な思想の持ち主のようで。

 同じ異端と区分される事に嫌悪感を抱くも、今回それが功を成したので文句は言うまい。

 ルイは張っていた気を緩め、苦笑いをこぼした。


「なんか、色々すみません…あの、ギシアンさんには迷惑ばかりで…」

「我が主人の元に着いた時点で運の尽き。それ以上の苦労は我が主人と出会った絶望と比べれば少しも苦ではありません」

「あっ…」


 なんだか触れていけはいけない部分に触れてしまったようで、ギシアンの口調は無表情とは思えないほど力強く発されている。

 その様子に先ほどまで警戒心を露わにしていたエリニスが目を見開いてドン引きしている。

 怒り半分呆れ半分の様子で一歩一歩とルイに近づくたび、ギシアンの口調は激しくなっていった。


「言うなれば貴方様のような生きる事に必死であるお方に尽くしたいというもの。我が主人はどの点においても『面倒』の一言に尽きます」

「えっ…」

「ともあれ従者が早々主人を変えるわけにもいきません。出会った当初は知的を装っておられましたので、私は充分に信頼を置いてしまい忠誠を誓ってしまいました。故にこれは私の落ち度であり、人柄が合わなかったからと言って容易く乗り換えてはいけないと思うのです」

「あの…」

「つまり、何が言いたいかと言いますと」


 ルイの目の前でピタリ止まり、目線を合わせるように腰を折る。

 端正な顔立ちが視界いっぱいに広がる光景に、離れようと背を沿っても逃すまいと顔が近づいてきた。

 そして淡々と、それでいて訴えかけるように言葉を発した。


「現状を打破できないのであれば争うだけが手段ではないということです」

「……!」


 表情は変わらないというのに、ギシアンの一途な言葉が胸を突く。

 真っ直ぐ、ただ真っ直ぐルイを見つめ、真摯な言葉で想いを伝えている。一点の曇りもないその瞳で。

 その姿は見惚れるほどかっこよく、自身の求める形だと思った。


「私はよく、人の心がわからないと言われます。故にこれは全くの見当違いやもしれません。貴方様が悩んでいらっしゃると、私が勝手に思っているだけかもしれません。

 ですが、」

「──おい。そいつから退けよ」

「っ!?」


 ギシアンの言葉はどすの利いた声により中断される。

 急いで顔を向ければ、なぜか怒りに染まったエリニスが殺気を向けていた。


「ちょっ、バカ!」


 焦りにも似た声を上げてみるも、エリニスの殺気は収まらず。ただ一点、ギシアンへと向けられていた。


「てめぇはそうやって敵意も殺意も持たずに魔獣を殺してきたんだろ? なぁ? 道具を壊す感覚で俺らを殺してきたんだろ? なぁ!?」

「……」


 何に対して怒りが湧いているのか理解できぬまま、ルイはチラリとギシアンの表情を伺う。

 ギシアンがエリニスを敵とみなして攻撃されるのは避けたかった。

 しかし、心配とは裏腹にギシアンの表情はあいも変わらず無表情で、感情というものが欠落しているのではないかと思わせる。

 見える横顔も変わらずの美しさで、見惚れてしまいそうになったのはエリニスには絶対に言えない。

 ルイは気を取り直して一歩前へと踏み出した。


「な、何を怒ってるのか知らないけどさ。ギシアンさんは悪い人じゃないし、ね? そ、それにあんただってさっきまで何も言わなかったじゃん…」

「……」


 何も言わないエリニスに苛立ちを覚えながら、どうにかこの場を丸く収めようと、もう一歩踏み出そうとした時。

 後ろからギシアンの手がルイを優しく止めた。

 そしてルイの横に立つと──


「──どうやら躾のなっていない飼い魔獣がいるようですね」

「っ…は…?」


 急に腹が痛くなった。

 鳩尾辺りが急激に刺激され、吐き気を催すほどの激痛になすすべなく膝から崩れ落ちていく。

 体は無様に横たわり、何度も起き上がろうと腕を動かしてみても宙を掠るばかりだ。

 口からだらしなく涎が垂れ、拭うことすらままならない。

 状況が少しも理解できぬまま、視線をギシアンに向けると、彼女は先ほどとは少しも変わらぬ様子で美しい小紫色の髪がなびいていた。

 誰がやった。自分はなぜ倒れている。エリニスはどうした。彼女はなんだ。なぜ痛い。なぜ苦しい。自分は一体何を。何をした? 何をしでかした? 何が、一体、どうなって──


「その手を下ろしなさい、人外。貴方に拒否権はない」


 ギシアンの静かな声が鼓膜を揺らす。

 コートの内から細いレイピアを取り出し、ルイと、ギシアンと、そしてエリニスとの間を分かつように、剣先がルイの首元へと向けられる。

 ギシアンは無表情のまま、ルイに視線を向けると、静かに髪を揺らした。


「申し訳ございません。これも我が主人の命ですので」


 一途な瞳がルイを貫く。

 真摯な想いは、ただ無垢な言葉の数々で。

 気高いと思っていた彼女は、


 ──何一つ持っていない、空っぽな鉄のようだった。

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