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1-1 Mの戸惑い

 起立、礼。

 さようなら。

 また明日。


 また明日。

 そう告げて、その言葉どおりに颯爽と教室を出て行くことができるのは教師だけなのだろうか。


 どんなに用意周到に机上周りを整理していようが、暗く淀んだオーラを発してみようが、少なくともわたしは、席を立つ前に誰かしらに話しかけられてしまう側の人種だった。


 キーンコーン……。

 カーン……コーン……。


 帰宅時間を告げる機械音。

 残響の中、教師がドアを出るよりも先に、一目散に里香が近寄ってきた。


「美緒、今日は部活に出れる?」


 それにわたしは曖昧に笑ってみせ、小さく首を振った。


 キーンコーン……。


 言葉に出さず、表情だけで理解してもらおうとするわたしは傲慢なのだろうか。

 里香はわたしをじっと見つめるだけだった。


 カーン……コーン……。

 

 繰り返し告げられる音に勇気を分けてもらい、わたしはようやく謝罪の言葉を口に出せた。


「ごめん、ね……」

「まだ体調よくならないの?」


 返答の早さは心からの言葉の証だ。


 とどめのように顔を覗きこまれ、わたしはつい顔をうつむけてしまった。


 膝の上で小さく拳を握る。

 そうしないと耐えられそうにない。


 里香はわたしの様子などおかまいなしによりいっそう顔を近づけてきた。


「たしかに顔色良くないね。もう、剣術小町がそんなんでどうするのよ!」


 はっぱをかけるように力を込めて背中を叩かれ、慣性に従ったわたしの尻は椅子の上でつうっと滑った。


(わたし、なんで里香と仲良かったんだっけ?)


 ふいにその疑問が浮かんだ。


 里香はいい子だ。

 明るくて素直で優しくて。

 同じクラス、同じ剣道部に所属しているから、一緒にいることが多い。


 なのに――。


 近い距離にいて言葉を交わしていると、わだかまりを感じ苦しくなるときがある。


「美緒がこないと一年の子たちがさみしがるんだからね?」


 ちょっと怒ったような表情でも、わたしを元気づけるために言ってくれているのだとよく分かる。


 その気持ちが伝わり――それが辛い。

 だけどなぜ辛いのかも分からない。


 握った拳の中に入ったスカートは無残なほどにぐしゃぐしゃだ。

 うつむいたまま皺のひどさを凝視していると、やるせなさでまた苦しくなってきた。

 

(ほおっておいてくれればいいのに)

(話しかけないでほしいのに)


 明るくて優しくて素直な里香。

 だけど里香は無神経だ。

 黙り込み、視線すら合わせないようにしているというのに、今も一人しゃべっている。


 わたしは聞いていないというのに。

 言葉の何一つとして脳が理解しようとしないというのに。


 自分でも整理できない嫌な感情ばかりが浮かんでくる。


 いくつもの悪意が膨れ、混ざり、反応し。

 とうとうわたしの中ではっきりとした拒絶の言葉があらわれた。


『迷惑なんだよ』

『あっちにいってよ』


 怒鳴りかけ、ぐっと腹に力を込める。


 これ以上ここにいるのは……限界だ。


 嫌いではない同級生。

 それどころか好きになれる要素しか見当たらない。

 たぶん、親友といってもいい関係。

 少なくとも、里香はわたしのことをそう思っている。


 なのに、発作的に怒鳴りつけそうになっているわたしはいったいなんなのだろう?


(――人間失格だ)

 

 わたしは大きく息を吐くと、もう一度「ごめんね」と言って席を立った。

 鞄を掴んで逃げるように教室を出る。

 背後から里香が何か言ったようだが、それも放課後の雑多な環境音の中では聞き取れなかった。


 聞こえなければいい、と思ったからちょうどよかった。



 *



 階段を駆け下りていると、すれ違う一年生の女の子が親しげに声を掛けてきた。


「藤堂先輩、さようなら」


 溌剌とした挨拶、乞うような瞳。

 それにもわたしは顔をうつむける。

 気づかないふりをして大勢の生徒の中にまぎれこむ。

 聞こえないふりをして逃げる。


 もうチャイムの音は途絶えている。

 わたしを助けてくれるものは何もない。


 ――逃げるしか方法はない。


「ああ、先輩行っちゃったよお」

「まあいいじゃん、あの剣術小町に会えただけでもラッキーでしょ」


 耳を塞ぎたい。

 だが鞄が邪魔をする。

 そこいらに投げ捨てることができればどんなに楽か。

 でもできない。


(わたしはそんなふうに好かれる人間じゃない……!)


「危ないっ」


 衝突しかけたところを寸でのところで止まった。

 顔をあげると、真正面にいたのは雨宮先輩だった。


 吹奏楽部の部長、三年生。


 ――わたしがずっと好きだった人だ。


「大丈夫?」


 優しい声音に、しかしわたしはあとずさりしていた。

 

 彼のことが好きだ。

 彼のことはよく知っている。

 知っている、だから好きなのだ。


 なのに――わたしは彼のことを『知らない』。


 入学して以来ずっと見てきたはずなのに。

 ずっとずっと、見てきたはずなのに。


(……ずっと?)

(でもどうやって?)

(同じ学年でもなく、同じ部活でもないのに、一体どうやって?)


 それに――。


 わたしの知る彼は、わたしをそんなふうには見ない。

 目の前の彼は頬をやや赤らめている。

 目元は柔らかなのに、虹彩に違和感を覚えるほどの鋭さがある。

 丹精な小鼻がひくりと動いた。


 本能がさらにわたしを後退させる。

 だが彼から目をそらすことができない。

 じっと見つめていると、彼の口元が緩んだ。

 だがすぐに無表情になり、次に傷ついた顔となった。


「藤堂先輩、さようなら」


 はっとして声の方を見ると、またも知らない後輩だった。

 彼をまた見ると、長めの前髪の下、ひそめた眉が泣くのをこらえているかのようだった。


 わたしは彼を傷つけている。

 そしてわたしも――そんな彼を見て傷を深めていく。

 心が痛い。

 痛くて痛くて――どうしようもない。


「う、うう……」

「藤堂……さん?」

「藤堂先輩?」


 二人に思わしげに近寄られる。

 まるで教室での里香のようだ。

 今の二人も里香とまったく同じ、わたしを案じてくれている。

 純粋な思いやりからくる行動。

 ただ、それだけ。


 ――分かっている。


 なのにわたしの顔は余計に強張っていった。


「大丈夫?」


 伸ばされた彼の手。

 それをわたしは咄嗟に払っていた。


「あ……」


 見れば、今度こそ彼は正真正銘の傷ついた表情となっていた。


「ご……」


 ごめんなさい、と言いたいのに。

 喉の奥、何かが張り付いたかのように言葉がでない。

 げ、と、えづくような音がしただけだった。


 涙が湧いてくる。

 だが言葉は出てこない。

 喉の奥、言葉は封印されているかのようだ。


 助けを求めて周囲に視線をやる。

 だが、『本当の意味』でわたしを助けてくれる人はどこにもいなかった。


 目、目、目。

 あの目もこの目もその目も。

 なんで、どうして。


(どうして、誰も彼もがわたしをそういう目で見るの――?)


 酸欠の金魚のようにぱくぱくと動くだけだった口が、視線の雨にあてられ、途端に勝手な言葉を叫んでいた。


「わたしを……わたしを見ないでえっ」


 もう二人を見ることはできない。

 誰のことも見ることはできない。


(誰にも見られたくない――!)


 わき目もふらず全速力で駆け、気づけば目についたトイレに飛び込んでいた。


 個室に入り鍵をかけ、それでようやく落ち着いてくる。

 ここには誰もいない。

 誰にも見られなくていい。

 実感すると、安堵で力が抜けていった。

 便座の蓋にずるずると座りこんでいく。


 叫んだ瞬間の二人の顔が忘れられない。

 純粋な驚きではなく、得体の知れない生物を見てしまったかのようだった。


 教室からここまで、あれだけ走ったのに息一つあがっていない。

 こんなに丈夫な体だったろうかと、これまた自分のことなのに疑問がわく。


 最近こういったことが多い。


 自分のことなのに自分のことではないような、知らない誰かのことを考えているような。


 いちいち気になる。

 違和感がある。


 賑やかな雰囲気を引き連れて誰かがトイレに入ってきた。

 とっさに鍵がかかっていることを確認し、それから狭く暗い室内で身を固くした。


「藤堂さんは今日も休むのかなあ」

「どうだろう」


 胸に抱く鞄に力が入った。

 皮革がこすれ、音がかすかに鳴る。

 胸がざわついた。


 二人の声はよく知っている人のものだった。


「このまま来なければいいのにね」

「そんなこと言っちゃだめよお」

「でも二年生に大将なんてされちゃ、私たち三年の立場ってものがないじゃない」

「そうだよねえ。でも剣術小町だから仕方ないんじゃない?」


 くすくすと笑う声の主は、仕方ないなどとは露ほども思っていない。


「いなくなればいいのにね」

「ほんとほんと」

「このまま休んでばかりなら剣道部を辞めさせればいいんだよ」

「あ、それグッドアイデア」


 大きな笑い声があがった。

 今度は言葉通り、心底楽しそうな笑い声だ。


 だが全然明るくはない。

 悪魔のような笑い声だ。

 悪魔たちはけたけたと、笑いながら去って行った。


 彼女たちがいなくなると静寂が蘇った。


 鞄を握りしめていた手をほどく。

 また皮が鳴った。

 力を入れ過ぎていたのか、両手ともに変に白くなっている。

 その手を握り、開き、握り……それを幾度も繰り返す。


 白くて長い指だ。

 爪は何も塗っていないのに桜貝のように美しい。


 手のひらがやけに固い。

 いつも竹刀を握っているからだ。


 物心ついたときから剣道をしているせいで、わたしの手はすっかり剣士のものになっている。

 柔らかな手では竹刀を長時間握っていることはできない。


 スカートから伸びた足もまた白くすらりとしている。

 一面を覆う産毛は細く淡く、あるのかないのか分からないほどだ。

 まだ二月、寒い時分だというのに、鳥肌すらなくしっとりと滑らかだ。

 でも、黒いタイツで覆い隠すのが、この時期のわたしの定番ではなかっただろうか……?


 鍵を開け個室から出ると、正面には三枚の鏡があった。


 どの鏡にも同じ人物が映っている。

 切れ長の瞳、ややつんとした小さな鼻、血色のよい頬、ふっくらした唇。

 腰まである長い髪はポニーテール。

 小さな動作にも俊敏に揺れるそれは、毛先まで手入れが行き届いている。

 

 見慣れた自分、見慣れた容姿。


 なのに鏡を見るたびにはっとしてしまう自分がいる。


 こんなにわたしは美しかっただろうか。

 こんなに美しい人――わたしは知らない。


 わたしは三人の自分から目をそらした。


 すべての自分から目をそらした。

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