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5-2 IとS, Final

 一つ名ばかりを呼び続ける群衆の勢いは、冷めるどころか一層熱がこもってきている。


 尋常ではない。

 誰一人、尋常ではない。


 息子も、孫も――そして私も。

 もちろん、彼もだ。


 年齢を悟らせない彼の面影に、ふいに懐かしさを感じ、それに私は気分が悪くなった。

 せり上がってくる吐き気を呼吸の繰り返しで無理やり飲み込む。


 じじ。

 じじ、じ。


 形容しがたい彼の髪の色、瞳の色が、いびつなリズムを刻みながら変化していく。

 鈍色、瑠璃色、群青、漆黒……。

 これまでのファジーな存在が急激に鮮明になっていく。


 変化はそれほど速いものではない。

 なのに私の思考は追いつかない。


 ふいに示す特定の色が、私の記憶と嗜好を揺さぶり、その都度耐えている吐き気が蘇る。


 顔から血の気が引いていく自覚のある中、その私を観察している彼のほうは、さながら面白い遊戯に興じる冷酷非道な貴族といった様子だ。ずいぶんと余裕があり、高尚なふりをしている。力のある者による、一方的な、嬲るような行為。


「この世界は僕とマザーのための世界だって知ってました?」


 声も少しずつ変わっていく。

 トーンは上がり、下がる。


「ここはね、あなたの世界ではないのですよ――父さん」


 父さん、と呼んだときの声は女のようだった。


「……お前」


 私は水分のまったく残らない口でなんとか声を発した。


「お前は……宗助、なのか」

「おや、僕のことを覚えててくれたのですね」


 そう言って目を細めた彼の表情には、今も何の感情も見当たらない。

 そして彼の風貌にも私は見覚えがない。


 だが私が彼の名を口にした瞬間、彼の髪と瞳が日本人にしては淡いセピアの黒に、声が妻のものに固定された。


 見覚えのない男、だが見覚えのある男がそこにいた。


 失ったはずの妻、十二分に老いていた妻が、今、年齢不詳の『男』の姿となって目の前にいる。


 冷たい汗が背筋を伝っていく。


 宗助は――生まれて数時間で息を引き取った子供だ。

 もうすでに死んでいる、妻との最初の子供だ。


 だが、今目の前にいる彼は生きている。

 それに、未成年者にも熟年者にも見える彼ではあったが、彼は赤子ではない。


 若き日の、慟哭する妻が胸にいつまでも抱いていた宗助は、一抱えほどの小さな塊だったではないか。


「父さん」


 そんなふうに言葉を発せるようになる前に、瞼を開く前に、この世から消えたはずではないか。


「父さん。僕はね、 僕のことを唯一愛してくれた母さんのためにこの世界を創ったんですよ。僕のちっぽけな命と引き換えにこの世界を創ったんです。母さんが亡くなったときに覚醒するように、あからじめ仕組んでおいたのですよ」


 こんな馬鹿げた話に耳を傾けている自分はおかしい。

 生まれて間もない赤子が、死に片足を浸していた赤子が、そのようなことをできるわけがない。


 それでも否定することはできなかった。


 私はこれまで、短い期間とはいえ彼のことをつぶさに観察してきた。


 病室以外では、言葉を交わさぬよう、目もあわさぬよう気を付けながらも、この男のことは注意深く観察してきた。


 彼は嘘を言っていない。

 イメージできる。

 彼がしたことがイメージできる。


 弱々しい赤子の彼が地球の真上に這い上がり、金色に光る種を一つ埋める様子が。

 目も見えないのに、乳を飲む気力もないのに、種に土をかける様子が。

 やがて力尽き、前のめりに地に臥した彼の顔が――満足げにほほ笑んでいる様子が。


 種は地に埋められ、じっとその時を待っていた――。


 背を伝う冷や汗の量は倍増している。

 リードを握る手のひらがぬめり、皮革がざらりとした感触を伝えてきた。


「なんのために……なんのためにそんなことをしたんだ」


 イメージしたとおりの、赤子そっくりの無垢な笑みを浮かべている彼。


「なんのために? 決まっているじゃないですか。父さん、あなたと同じですよ」

「あいつを生き返らせるためか?」

「生き返らせる?」


 くつくつと笑う。


「違いますよ。死者を生き返らせることなど誰にもできません」

「…………なんだと?」


 怒りを通り越した驚きに、彼の胸倉をつかんでいた手が自然と解けた。

 彼はそっと私から距離をとり、軽く身なりを整えた。

 茫然とする私に、彼は憐れむような視線を送った。


「あなたは、馬鹿だ」

「……馬鹿だと? じゃあ、お前はいったい何をしようとしていたんだ」

「母さんと一緒に過ごしたい、それだけですよ」


 ――あなたの望みと同じでしょう?


 私の顔はきっとこれ以上はないくらいに白く変貌していたはずだ。

 耳鳴りがした。

 遠くで潮騒のように、ひいては寄せるのは――。


 私と彼のことなどかまうことなく、統率された人々は今も同じ名を繰り返し叫んでいる。


「マザー!」

「マザー!」


 あれはね、と彼が言った。


「彼らの声は僕の声です」


 ――だってここは僕の世界だから。

 ――僕が母さんと過ごすために創り変えた世界だから。


「マザー!」

「マザー!」


 熱狂はすさまじい。

 群衆の数は今や当初の何倍にも膨れ上がっている。

 この街の、いや、この国、この世界すべての人間を集めたかのように。


 私と彼の周囲はすっかり大勢によって囲まれている。

 その誰もが狂ったように叫んでいる。


「マザー!」

「マザー!」


 狂ったように一人の女性を乞うている。


「母さん!」

「母さーん!」

「かあさああーん!」


 誰もの目から涙が溢れだした。

 頬を伝い、顎を、首を、服を、地を濡らしていく。


 涙を吸うたびに地球が震える。


 ふる、ふる。

 ふるふるふる。

 ふるふるふるふる。


「父さん」


 素直な声音に彼を見ると、彼もまた涙を流していた。


 静かに涙を流していた。


「僕はね、母さんにもう一度抱かれたくて、一緒に過ごしたくて、それだけを願って死の世界で一人過ごしてきたんだ。天国にも行かず、ずっと一人でね。父さん、あなたと僕とでは違うんだよ。同じような望みでもね、同じような願いでもね、僕のほうがずうっと強い思いでそれを望んできたんだよ」

「強い……思い?」


 それに彼がしっかりとうなずいた。


「そうだよ。僕はね、それしか望んだことがない。あなたのようにあれもこれもと望んで、その中から最大の望みを選んだわけじゃない。僕はそれしか望んだことがない。それ以外のことは『本当にどうでもいい』と思っている。これほどに究極に強い思いの前では、あなたの望みなど大したものじゃない」


 彼の一言一言に、私は逆らうこともできなくなっている。

 ぶらんと垂れ下がる私の手の中から、彼がそっとペンを掬い取った。

 それを天に掲げ、インクの残量を確かめた彼が頬を緩めた。


「ああ、いいですね。いい具合にインクが減ってきている」


 まだ気づいていませんか?

 これはね、あなたの願う力を、僕の願いを具現化する力に変換するためのツールだったんですよ。


 彼が歌うように語っている。

 私に向かって言っているのか、それとも自分自身に向かって言っているのか。

 私にはもう理解できない。

 飽和状態になっている。


 だが彼は語ることをやめない。


「あなたの願いは僕の願いを少しずつかなえていった」

「生まれたばかりの僕の世界に力を与えるために」

「僕の願いを具現化するために」

「世界のすべてで母さんを乞うために」

「そうすることで母さんは僕の前にあらわれるんだ――」


 もう私には分からない。

 彼の語ることが事実となるのか。

 妻はいずれここに、彼の前に現れるのか。

 生き返ることのない妻とどうやって過ごすというのか。


 この場を占拠する人々の数は途方もなく膨れ上がっている。

 人数に比例して声量は増している。

 春も間近の青空に、悲痛な願いを込めて一つ名を呼ぶ人々。


 息子と孫の姿はもう見つけることはできない。


 足元でポチが悲し気に「にゃー」と鳴いた。


「あなたは、そう、救世主と呼ばれることでしょう。父さん、あなたはこの世界の救世主ですよ。あなたの力が、僕の世界で僕のための願いを具現化するのですから」


 彼の声を聞きながら、私は確かな自責の念にとらわれていった。


 私は――間違っていた。


 初めての子を亡くし憔悴していた妻、だがあの時は妻の命と子の命、どちらかを天秤にかける必要があった。私は妻と結婚するときに誓っていた。妻を、妻だけを大切にすると。その誓いをこの時私は遵守した。


 だが二人目の子供には『健一』と名付けてしまった。

 健康が一番だ、と。

 健康でいてくれさえすればいいという願いを込めてしまった。


 あの願いは、彼の前では否定されるものだったのだ。


 離婚し子連れで出戻ってきた息子のために、私はこれまで敬遠していたエンターテイメント小説を執筆した。それが剣術小町の活躍するシリーズものだ。自分の書きたいものではなかったが、少しでも家計を楽にしたくて、息子と孫の力になりたくて書いた。そのときの収入でようやく人並みの一軒家を建てることができた。

 

 だが、あれも間違いだったのだ。

 妻以外の人間に情を与えてはいけなかったのだ。


 彼は母以外のものは何も望んでいない。

 父である私のことも、実の弟も姪も、明確に別のものととらえている。


 彼の願いはシンプルで傲慢だ。

 

 私とは違う。

 私にはまだ人としての弱さや複雑さがある。

 誓いを守るに足る強さを有してはおらず、願うことはただ一つではなかった。


 私はーー間違っていたのだ。



 ふいに庭の紅梅が思い出された。

 青空に映える紅梅の枝は、どれも天を乞うように伸びている。

 そのどれもが血に濡れた指のように見える。


 地の底から這い出た幾多の死者の指。

 天に縋ろうと伸びる幾多の干からびた指――。



 今度こそ私は嘔吐を抑えきれなくなった。


 この世界は――彼のものだ。

 彼だけの世界だ。


 世界の全てでたった一つを願える勇気など、人のものではない。

 ただ一つのためだけに全ての人間が泣くことのできる世界がここにある。



 彼こそが――神だ。 

読了ありがとうございました。


本作品のキャラクターの元設定はお気に入りユーザーのたこす様によるものです。

元設定については後日(完結の数日から一週間後)、作者の活動報告で開示する予定です。

どんなキャラクターありきでこの作品が生まれたのか、興味あるかたはチェックしてみてください。

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