Chapter.3-4
獣の過去
冴島家は、父と母、ユウトとワタルの四人家族だった。父は厳格で正義感が強く、母は優しく聡明。あまり裕福な家庭とは言えなかったが、それでも家族は人並みの幸せを享受していた。
困っている人の役に立ちなさい、とは父が常に口にしていた言葉だ。ユウトは、父の職業は建設に関わるようなものだったとおぼろげながらに記憶している。普段、父が仕事の話を持ち出すことはなかったからだ。専業主婦である母も同様に、父の仕事には触れなかった。就業したのはユウトが生まれる少し前だったという話を聞いたこともあったが、ユウトが父の仕事について知っていることといえばその程度だった。
父も母も、年齢的には若いとは言えなかった。しかし二人とも古くからの知人だったらしく、婚姻は周りに盛大に祝福されたという。よく知り合いが訪ねてきては親しげに話をしていた。父と母は、幸いにも二人の子宝にも恵まれて、まさに幸せの絶頂にあったといえよう。
その日は、冴島家にとって記念すべき一日だった。長男のユウトが中学校に入学、次男のワタルが小学二年生に進級したお祝いだ。
母の丹精込めて作り上げた夕飯は豪華で、ユウトとワタル、二人の大好物であるハンバーグがメインだった。
父からはお祝いとして、ユウトには英和辞典が、ワタルには大きな昆虫図鑑がプレゼントされた。
笑顔、笑声、喜び。
何物にも邪魔されることのない、純粋な幸福の場面。
突然の闖入者は、聞きなれない鐘の音だった。
家の近くに寺があるわけでもないのに、どこからか鐘の音は鳴り響いてきた。ユウトとワタルは、音の正体に興味を抱いて互いに顔を見合わせる。だが、父と母の反応は全く別だった。子供二人のような好奇の表情ではない。正反対の、驚愕、そして絶望の色が一瞬にして二人を支配する。
――次に起きたのは、わずか一分にも満たない惨劇。
始めに犠牲となったのは、食卓だった。窓ガラスを割って巨大な鉄球が侵入し、母の手料理を叩き潰した。父はユウトを、母はワタルを庇って、身体のどこかしらに傷を負う。だが、逃げる暇はない。鎖のついた鉄球は引き戻され、代わりに入ってきたのは鋼の塊を両手に引っさげたグロテスクな巨人。全身が巨大な眼球に覆われていた。ユウトとワタルの心には、恐怖が席巻していた。
異常な光景が転々と繰り広げられてゆく。ユウトを抱きかかえるように庇っていた父が、突然その体を化け物のほうへ向ける。さらに突き出した両手からは、何条もの光が迸り、化け物へと殺到したのだ。だが、化け物はまったく怯む気配がない。化け物は鉄球を振るう。父の体は無残にも弾き飛ばされ、壁に叩きつけられて沈黙する。
次に化け物は母とワタルに狙いをつけた。鉄球を引き戻し、再び振りかぶるように撃ち放つ。鉄球が母を押しつぶそうとする直前に、母が掲げた両手から光る円盤が現れ、盾のように鉄球を受け止める。その隙に逃げるようにとワタルに言い放つが、もう遅い。鉄球は光の円盤を粉々に砕き、母とワタルの体をまとめて打ち据えた。
ユウトは、叫んでいた。わけのわからないままに、悪夢のように展開する惨状に。それが現実だとユウトに知らしめていたのは、ひしゃげた彼の右腕だ。始めに鉄球が襲い掛かってきたときに、かすった鋼鉄の塊がか細い腕を叩き潰していた。恐怖と痛みが互いに高まりあい、ユウトの混乱は極みにあった。
だが、気がついたときには、腕の傷は消えていた。まるで新しい腕が生えてきたかのように、傷一つない綺麗な右腕が、そこにはあった。いったい何が起きたのか、はっきりとは分からない。しかし、どうやったのか、それを直感で理解していた。自分の知らないもう一本の腕を、体の中から思い切り伸ばすような感覚――瞬間的に、ユウトはその力の使い方を学んでいた。
生命の檻。傷の修復ではない。誕生だ。新たな自分の。
ユウトの心に差し込む、蜘蛛の糸にも似た光明。この場から逃げ延び、生きることのできる力だと、彼は本能的に感じ取っていた。
だが――それも、すべては手遅れだ。
脱兎のごとく駆け出したユウトの体は、尋常ではない速度で放たれた鉄球に弾かれ、ラグビーボールか何かのように無様に転がった。
砕けた全身の骨は筋肉を蹂躙し、また柘榴のように弾けた筋肉は意識を散逸させる。呼吸はままならず、指の一本さえ動かせない。
それでも、ユウトは足掻く。
生きたい、その一心で。
手を伸ばした先に、鉄球を手繰り寄せ、全身の眼球でユウトを見下ろす化け物がいる。赤く染まった視界に映る、化け物の奇怪な顔は、勝利の酔いに嗤っていた。見えずとも、そうだと知れた。
闇へ、闇へと意識は落ちてゆく。暗く冷たい、確かな死へと落下してゆく。
もがき、抗い、真っ黒な沼に沈んでゆく自分の体を、なんとか保とうとする。しかし、いくら力を込めたところで、余計な動きは沈下を早めるだけだった。
だから、とユウトは悟る。
もうこの身体は保たないだろう。まだ死んでいない。だが、やがて死ぬ。死にゆく体は、生を望む魂を繋ぎとめておくことはできない。ならば、自分の力をどう使えばいいのか、それは分かりきったことだった。
意識が暗闇に沈む。
その直前に。
伸ばした手を、何者かが掴んだ気がした。
次第に死の冷たさは引いてゆき、身体に意識が戻ってゆく。ゆっくりと押し開けた瞳の先には、
「――、――」
転がっている、無残な自分の轢死体。そう、死んでいたのだ。伸ばされた手は力尽きて床に伏せていた。体の下には真紅の膜が広がっていた。頭蓋は砕け、全身は爆ぜている。
冷静に、彼は、自己の死体を見つめていた。
いや、違う。自分じゃない。あれは、違う。
傷一つない綺麗な手を見下ろして、彼は思う。死体が誰なのか、それは知っている。あれは冴島ユウトだ。冴島ユウトだったものの成れの果てだ。その側には、ユウトの家族が、物言わぬ残酷なオブジェと化していた。
だが、あの死体は自分ではない、と彼は思う。
「僕は――俺は――」
脳内で、数秒前までの殺戮劇が明滅する。化け物は、いつの間にかどこかに去った後だった。獲物を狩りつくして満足したのか、飽きてしまったのか。どちらにせよ、その場にいるのは彼だけだった。
記憶。化け物。父と母、弟。家族。
記憶は、間違いなく冴島ユウトのものだ。物心ついたあたりからの記憶が、恐ろしいほど鮮やかに思い出せる。
だが、その記憶は、自分のものではない。
まるで、他人の記憶を無理やり頭に押し込められたような不快感が襲い掛かり、彼はたまらずその場に嘔吐する。
自分が何者なのか、彼は理解していた。冴島ユウトに造り出された存在。魂を失った形骸として造られた、ヒトの模造品としての存在だ。しかし、記憶は、冴島ユウトの記憶と魂は、彼の中に確かに存在していた。彼の所有物は、彼自身の意識とヒトを真似た肉体だけだ。
体の奥底から――憎悪の渦が迫ってくる。怨嗟と赫怒に彩られた、恐ろしい叫びの渦。生きたいと願う冴島ユウトの魂が、彼の存在を急きたてていた。
「うぅ――」
自分とは何だ。
産まれたばかりの彼にとって、彼の中にあるユウトの魂は、ひどく気持ちの悪い夾雑物に思えた。生きているのは、彼自身ではない。その中にいるユウトの魂だ。彼はただ、死ぬことのない体を以って、ユウトの願いを叶え続ける存在に過ぎない。いや、彼こそが、冴島ユウトの棺桶なのだ。彼は彼自身の意識を持ちながらも、自己として生きることはできない。冴島ユウトの魂の器として、生きなければならない。彼は人間ではないのだから。
冴島ユウトのアニマ――アルターグレイブ。
「俺は――俺は、誰だ――」
苦吟に答えを与えてくれるものはいない。
家族を、そして自己さえも失った彼にはもう、何も残されてはいなかった。
■
自らの凄絶な過去を、ユウトは語り終える。場には静寂だけがわだかまっていた。
「では、君は」
キョウカは動揺を隠し切れない様子だ。
「そうだ。俺は、冴島ユウトのアニマだ」
自分の正体を告げるユウトの瞳は、やはり人形のように純粋だ。いや、ルリネが純粋だと感じていたのは、その瞳が人間の肉体を模して造られた、まさに生きた人形だったからなのか。
「本当ならば、俺は冴島ユウトとして生まれるはずだった。俺の存在原因である魂や記憶は、冴島ユウトのものだった。だが、意識は、肉体を動かす意志だけは俺のものだ。どうやら魂や記憶に意識は付随していないらしい」
淡々と語られる内容は、まったく現実味を帯びていない。
「俺は、人間じゃない。不完全だ。魂を持っていない。俺自身の。冴島ユウトの魂に、生かされているだけなんだ」
「でも……それでも、冴島くんは」
ルリネは立ち上がり、ユウトの顔を真っ直ぐに見つめた。
たとえ、彼が人間ではないのだとしても。
「他の誰でもない……冴島くんはたったひとりの、冴島くんなんだよ」
「御堂……」
「いつだって冴島くんは私を守ってくれた。それは、冴島くんの意志でしょう? 他の誰でもない、あなた自身の」
「……そう、かもしれないな」
笑っているような、泣いているような、複雑な表情をユウトは浮かべる。
「俺は、無力な自分に耐えられなかった。アニマでありながら、戦うこともできず、人の傷を癒すこともできない。戦いに巻き込まれながら、俺は死ぬこともなく、ただ見ていることしかできなかった。誰かが殺されるのを、黙って見ているしかなかったんだ」
握り締めた拳は震えている。
「だから、君はヴァランディンを……」
「そうだ。この力のお陰で、俺にはコネクターがなくても死ぬことがない。死滅した細胞は、すぐに新しいものに置き換えられる。俺ならば、ヴァランディンの力を使いこなせる。戦う力を。あの化け物を駆逐できる力を」
だが、とユウトはルリネに顔を向けた。その端整な顔には笑顔があった。小さな笑みだが今までのものとは違う。悲しみの一片も含まれていない、心からの本当の笑顔だった。
「俺の力で――ヴァランディンではなく、冴島ユウトのアニマとして、俺は御堂を救うことができた。お前は、俺にとって特別なんだ、御堂」
「冴島くん――」
特別だという言葉が、本当ならば気恥ずかしいまでの嬉しさを与えてくれるはずだった。しかし、ルリネには引っかかる疑問があった。アニマとして救うことができた、と。
それはつまり――
「ちょっと待って、それって……」
それまで押し黙って耳を傾けていたエリナが、突然立ち上がるとユウトに詰め寄る。
「あなた、まさかずっと」
ユウトは、肯定もせず否定もせず、静かに事実だけを述べる。
「どれだけ殴られても、死ぬこともなく傷さえも負わない人間なんて……不気味なだけだ」
エリナは言葉を失い、ルリネは息を呑む。
ルリネを青年たちから救い出し、帰ってきたユウトの服はぼろぼろに破れ、いたるところに血痕があった。ユウトには傷がなかったために相手の血だとばかり思い込んでいたが、全くの逆だったというのか。ユウトは何もせず殴られ続けていただけだと。
「そんな……ごめんなさい、私――」エリナの声には自責の念が込められていた。「ずっとあなたを疑ってばかりいたわ。AMIAを人に対して使ったとばかり……」
ユウトは小さく首を横に振る。
「そう思われても仕方がない」
「本当に、ごめんなさい」
「もういいんだ。済んだことだ……それに、九条。お前も、俺と同じ気持ちを持っているはずだ。アニマは、この力は、誰かを傷つけるためじゃない。誰かを守るためにある力だと」
「ええ、そうね……その通り。けれど、私はあなたを信じられなかった。信じようともしなかった……こんな私を、許す必要なんてない。でも、ルリネは違う。ルリネはずっと信じていたのよ、あなたのことを。人を相手に使うはずはないって」
人形のような瞳が、ルリネの眼鏡越しの瞳と交わりあう。その刹那に交わされた意志は、人類にとって、もっとも心の支えになるものであるに違いない。
「俺が必ず守る。そのための力だ」
「うん……」
ルリネの首肯は力強い。ユウトへの信頼を表すように。
To be continued.