6話
わたしが森の花嫁と定まって北の離宮に来た頃から、お兄様はとても優しくしてくれた。お兄様は家族と引き離されて北の離宮で暮らすことになったわたしをとても憐れんでくれたのだ。
『森の花嫁となれることは、とてもすばらしいことなんだよ。けれど、さぞや寂しいだろうね。できるだけ私が会いにくるから、泣いてはいけないよ。小さな姫君』
わたしの母は城に勤めていた女官だった。王族に連なるとはいえ、名ばかりの傍流の貴族が母に手をつけて産ませたのがわたしだったらしい。母はわたしを産んで間もなく亡くなり、わたしを引き取った親族は幼いわたしにそう言って聞かせて、厄介者扱いばかりしていた。
だから、わたしは誰かに必要とされることがうれしかった。お兄様は森の花嫁となれることがどんなすばらしいことなのか、国のためになることであり、わたしのためでもあることを言って聞かせてくれた。
欲しいものを聞かれて、わたしがお友達が欲しいと言うとお兄様がお友達になってくれた。庭師の格好をしたお兄様はそれでも格好良くて、わたしは気恥ずかしい思いで名前を呼んだものだった。
それはごっこ遊びのようなものだったけれど、普段は禁じられていることを行っているということだけで、わたしには魅力的に映った。きっとお兄様も楽しんでいたのだと思う。普段はできないこと、してはいけないことを、ラウルとエミリアなら、何だってしてもいいのだ。
庭にはだれもいなかったし、生垣はその姿を隠してくれたから、わたしたちは好きなことをして遊んだ。互いに名を呼びあい、好きなものを好きだと言っていい。大声で笑っても、走ってもよかったのに、わたしたちは成長するにつれて、静かに時間を過ごすことが多くなった。
あれは――十五になったばかりの頃だろうか。庭をぼんやり歩いていたわたしの前にラウルが現れた。
あの頃は王太子たるお兄様も忙しくなっていて、なかなか会うことができなかった。まして、ラウルにはなおさら会えなかった。もう、お互いにごっこ遊びをするような年ではなくなっていたのだ。
突然現れた姿に驚いていると、ラウルは笑った。
「どうしたんだい。口をこんなにもぽかんと大きく開けて。私に会えてうれしくないの?」
「うれしいけれど、驚いてしまって。だって、ちょうどあなたに会いたいと思っていたんだもの」
「ちょうど、じゃなくて、いつも、だろう?」
「ええ。そうよ。ラウル」
うれしくなって、わたしは笑う。
「私もだよ。――本当に、ずっと、きみに会いたかったんだ。ねえ、エミリア」
ラウルは楽しそうにわたしの手を取ると、生垣の側までわたしを連れて行った。
「ここで、踊って見せてよ。エミリア」
言いながらも、彼は結い上げたわたしの髪をほどいていく。
「いつも思っていたんだ。髪をほどいて踊るきみの姿は、なんてきれいなんだろうってね」
「そうかしら。転びそうになっても笑わないでね、ラウル」
ステップを踏むたびに髪が広がって気持ちよかった。ラウルと目が合うたびにわたしはどきどきして、呼吸が乱れた。息が弾み、転びそうになる。
よろけたわたしを抱き留めて、ラウルがわたしを見下ろす。見上げた彼は何か信じがたいものを見たような顔をして、わたしの頬に触れる。確かめるように指で唇をたどってから、彼の顔が近づいてくる。
わたしは目を閉じた。
唇が離れたときも、わたしたちは驚いたままだった。驚いたまま、見つめ続けて、また、口づけを交わすのだった。
小鳥の飛び立つ音に驚いて、わたしたちは身を離した。
「わたし、森の花嫁になるのよ。ラウル」
「ああ。そうだよ。当たり前じゃないか。エミリア」
ラウルはなぜか、かわいそうに、とは言わなかった。ただ、うれしそうに笑うだけだった。
ラウルに会ったのはその日が最後だった。それでいいと思った。わたしはお兄様の妹で、恋人ではないのだから。
誰かに呼ばれた気がして、わたしは目を開く。
ぼんやりとしているうちに、いつの間にか眠っていたようだった。腰を下ろしていた切り株から立ち上がると、思いのほか体が軽かった。
のどの渇きを覚えて、冷たい泉を口にした。傍らの木の虹色に光る実も摘み取った。一つ食べれば、もう一つ食べたくなって、わたしはその不思議な光を帯びる実を摘み取っては口にする。とろけるような甘さが口の中に広がるたびに、わたしの目の前がぼやけた。
『楽しいことばかり考えるんだよ。お前が泣いていたら、駆けつけてあげるから』
果実を取り落して両手で顔を覆う。
「どうして、泣いているんだい、エミリア」
柔らかな声がして、顔を覆った両手に温かな手が重ねられる。
「だって、わたし、お兄様の望みを叶えなかったのだもの。きっとお兄様、悲しんでいるわ。わたしのこと、許してくれないかもしれない。嫌われてしまったかもしれないわ」
わたしの手の代わりに、大きな手が涙をぬぐってくれる。
「きみを嫌う人なんて、いるものか。それに、いつか、言ったろう? お兄様の言うことばかり聞く必要はないって。きみを泣かせるなんて、きみのお兄様はとてもひどい人なんだね」
「違うわ。お兄様はとても、とても優しい方なのよ。――ねえ、ラウル」
わたしは目の前に跪くラウルを見る。
「どうして、あなたがここにいるの?」
「きみが泣いていたから」
「でも、お兄様はお城にいるのよ」
「そうだよ。当たり前じゃないか」
わけがわからなくなって、混乱するわたしを見て、ラウルはおかしそうに笑う。
「そんなことはいいから、踊ってよ。エミリア。きみは髪を結い上げてはだめだよ。踊るたびに広がってうつくしいからね。私はきみが踊るのを見たいんだ」
「ええ。ラウル」
わたしは望まれるままに踊り出す。目を見かわすたびに、わたしは微笑む。踊っているせいか、彼の深い緑の瞳を見るせいか、わたしはだんだんと息苦しくなる。
ついに足が取られて、転びそうになるのをラウルが抱き取める。
「――ねえ、ラウル」
彼の腕に抱かれたまま、わたしは問いかける。
「何だい、エミリア」
「あなたはだれなの?」
「ラウルだよ」
「でも、お兄様はお城にいるわ」
「そうだよ。きみの大切で大好きなお兄様はお城にいるけれど、きみの大切で大好きなラウルもここにいる。きみと彼がそう望んだからね。きみも彼も誤解をしていた。最後にはようやくきみには理解できたようだけれど、森は木々があるこの場所だけではない。きみたちの住むこの小さな国はずっと昔からすべて森だったんだから、きみが花嫁となるために、何もここまで来る必要なんてなかったんだよ。私が形作られたその日から、きみは私の花嫁だったのだから」
「あなたは、森なの?」
「ああ。そうだよ。きみのお兄様が私を形作った。だから、私は森であり、きみのお兄様であり、ラウルでもある」
わたしはよくわからなくなって、首を傾ける。
「ラウルは最初、お兄様だったわ。いつから、あなたがラウルだったの?」
「きみのお兄様がきみに恋をして苦しんだ日からかな。きみと会っていたのは、お兄様だったり、私だったりしたんだよ」
「――じゃあ、あの日、わたしに口づけしたのは?」
「どうだろうね。だって、どちらも同じなんだから、どちらでも構わないだろう?」
「そう――なのかしら」
わたしが顔を上げると、彼は軽く口づける。
「ねえ、ラウル。わたしがあなたの花嫁となるのなら、お兄様は人として生きられるの?」
「そうだよ。エミリア。だから、安心するといい。きみのかわいそうなお兄様は、人として生きて、いつか、この森へと帰ってくるよ。帰ってきて、私と同じものになる。だから、それまで、ラウルと楽しく過ごしていればいい。私のかわいい小さな花嫁。さあ、お手をどうぞ」
ラウルがわたしに手を伸べる。
わたしは優雅に一礼をして、その手を取る。
ラウルは口笛を吹いて、わたしは歌い出す。適当な歌詞にラウルは笑い出す。笑って笑って、踊れなくなったら、彼はわたしに口づける。
「ねえ、ラウル」
口づけの合間にわたしは問いかける。
「ラウルは、森の花嫁となるわたしがかわいそうだと言ったわ」
「ああ。そうだったね」
「わたし、そう言ってもらえるのもうれしかったのよ。大切に思われているみたいで。けれど、森の花嫁となることが幸せだと言ってもらえるのもうれしかったの」
「そうだろうね。きみはお兄様もラウルも大好きだったから」
「わたしはラウルがいてくれるから寂しくないけれど、お兄様は寂しくないかしら。――人として生きることを幸せだと思ってくれているかしら」
「もちろん、幸せに思っていたよ。私の小さな姫君」
答える声がお兄様なのかラウルなのか、わたしにはもうわからない。
流れていく時を忘れてしまうほど、手を取られて踊りながら、何度も何度も同じ問いかけをして、口づけを交わしているから。
「ねえ、お兄様」
「何だい、姫君」
「ねえ、ラウル」
「どうしたんだい、エミリア」
森の中、わたしたちは踊り続ける。
――いつまでも、いつまでも。
(おしまい)