レッドファイルセカンド四話
第3話:沈黙の閣議
重厚な扉が閉まると、永田町の喧騒は嘘のように消え去った。
官邸地下、通常の使用基準を遥かに超える機密保持が施された「特別応接室」。そこは、震災や有事の際に使われる危機管理センターとは別に存在する、この国の「真の骨格」たちが集う場所である。
円卓を囲むのは、内閣総理大臣・鷲尾をはじめ、官房長官、防衛大臣、警察庁長官、そして財務大臣。表向きは「多摩川で発生した重要事案に関する緊急治安対策会議」とされていた。しかし、その場を支配している空気は、単なる治安維持の相談とは程遠い、もっと冷徹で、原始的な復讐の香りに満ちていた。
沈黙を破ったのは、警察庁長官の曽根崎だった。彼は震える手で、タブレット端末に映し出された遺体写真を円卓の中央に投影した。
「東條院先生の検視結果です。死因は失血死……ですが、そこに至るまでのプロセスが問題です。頸動脈を正確に避けながら、全身の皮膚を少しずつ剥がしていく。拷問のプロによる手口です。そして、この胸部の傷……」
画面が拡大される。東條院の亡骸の胸には、鋭利な刃物で刻まれた簡体字の文字があった。
『見猿、言わ猿、聞か猿の時代は終わった』
「中国国家安全部、第13局の仕業です」防衛大臣の石丸が、苦々しく吐き捨てた。「奴らはレッドファイルの内容を、我々の想像以上に精緻に分析している。東條院先生が『旭』の最高幹部であることを知った上で、見せしめとして殺害した。これは我々個人への脅迫であると同時に、日本という国家の主権を内側から食い破るという宣戦布告だ」
総理大臣の鷲尾は、深く椅子にもたれかかり、天井を見つめていた。彼の額には薄っすらと脂汗が浮いている。羽代もまた、かつて東條院から多額の献金を受け、自らの不祥事を「旭」の力でもみ消してもらった過去を持つ。レッドファイルが中国の手に渡ったということは、彼の政治生命どころか、その後の人生そのものが北京の意向一つで決まることを意味していた。
「……レッドファイルの奪還は不可能なのか?」羽代が掠れた声で問う。
「不可能です」官房長官の佐伯が、冷酷なトーンで断じた。「データは既に北京のサーバーに分散保存され、物理的な奪還は意味をなしません。我々に残された選択肢は二つ。奴らの要求を飲み、実質的な属国として首を差し出すか。あるいは――」
「あるいは?」
「奴らがそのカードを切る前に、カードを握る『手』そのものを焼き切るか、です」
佐伯が視線を送ると、防衛大臣の石丸が重い口を開いた。
「『プロジェクト・ヤタガラス』を始動させる時が来ました」
その名が出た瞬間、部屋の温度が数度下がったかのような錯覚を誰もが覚えた。それは、自衛隊の予算のどこにも記載されていない、完全に秘匿された技術開発計画だった。
「待て、石丸」羽代が身を乗り出す。「あれはまだ実験段階だと聞いていたはずだ。それに、あれを使えば国際法どころか、物理的な意味で取り返しがつかないことになるぞ」
「総理、平和憲法や国際法といった『表のルール』が守ってくれるのは、表の国民だけです」石丸の瞳に、狂信的な光が宿る。「我々『旭』は、この国を裏から支える屋台骨だ。屋台骨が腐れば、国は倒壊する。中国は今、その柱一本一本にシロアリを放とうとしている。シロアリを駆除するために、多少家が焦げることを恐れてどうしますか」
石丸が提示したのは、数年前から種子島基地のさらに地下深くで開発が進められてきた「非核電磁パルス(NNEMP)弾頭」の実戦投入だった。核爆発を伴わずに、高エネルギーの電磁波を指向性を持って放出するその兵器は、特定の地域の電子機器を一瞬で物理的に破壊する。
「北京、上海、広州。この三地点の上空で炸裂させれば、中国の心臓部は止まります。レッドファイルを公開するためのサーバーも、それを送信する通信網も、実行を指示する指揮系統も、すべてがただの鉄屑になる」
「しかし、それは文字通りの『焦土作戦』だぞ」財務大臣が震える声で口を挟む。「中国の経済が止まれば、返り血で我々の経済も死ぬ。世界恐慌になるぞ」
「だからこそ、です」佐伯官房長官が、蛇のような笑みを浮かべた。「混乱の中で、中国を内戦状態に追い込む。デジタル化されすぎたあの大陸は、電気が消えれば数世紀前の暗黒時代に逆戻りだ。情報が遮断されている間に、我々はこの国から『旭』に仇なす分子を掃除し、体制を再構築する」
鷲尾総理は震える手で、目の前の水を飲み干した。彼は鏡を見るのが怖かった。今、自分たちは国家の防衛を議論しているのではない。自分たちの保身と、組織の存続のために、一国を、ひいては世界を地獄へ叩き落とそうとしているのだ。
しかし、拒否権はなかった。この部屋にいる全員が、東條院という「重石」を失い、中国という「審判」に怯える罪人なのだ。
「……攻撃の正当性は、どう担保する?」羽代が最後の抵抗のように問う。
「『未曾有の太陽フレアによる大規模電磁障害』、あるいは『中国国内の実験施設による自爆事故』。メディアは既に押さえています。国民には、空が光ったのは気象現象だと教えればいい」
佐伯が、一通の赤い表紙のファイル――『旭』の規約を記した、いわば本物のレッドファイルを円卓に置いた。
「決選投票を。我々の国を取り戻すか。それとも北京の奴隷として果てるか」
一人、また一人と手が挙がっていく。最後に残ったのは羽代だった。彼は自分の手のひらを見つめた。この手が、数千万人の生活を、数億人の未来を奪うトリガーになる。しかし、その重みよりも、自分の秘密が暴かれ、地位を追われる恐怖の方が、今の彼には耐え難かった。
羽代は、ゆっくりと、しかし確実に右手を挙げた。
「……『雷神』の出撃を承認する」
その言葉が発せられた瞬間、日本の、そして東アジアの運命は決定した。法治国家としての仮面は剥がれ落ち、そこにあるのはただ、権力を維持せんとする者たちの剥き出しの意志だけだった。
「閣議を終了します」
佐伯が冷ややかに告げた。部屋を出る彼らの足音は、静まり返った地下廊下に、まるで死神の行進のように響き渡っていた。
外は、何も知らない市民たちが暮らす、いつもの東京の夜景が広がっている。しかし、その光り輝く街並みが、数時間後には「暗黒」の始まりを告げる合図になることを知る者は、この部屋を出た数名以外にはいなかった。
日本の秘密基地では、巨大なサイロが静かに、そして音もなく開き始めていた。---




