作られた証拠
最初に壊れたのは、空気だった。
言葉ではない。
視線でもない。
――“間”。
挨拶の一拍が長い。
呼ばれる前に名前が確認される。
背後で会話が途切れる。
夜の世界で何度も経験した前兆。
(……仕込まれた)
何かが完成している。
まだ出されていないだけで。
◇
「少しだけ、お時間を」
丁寧な言葉。
拒否はできる。
だが拒否すれば、理由になる。
私は微笑み、頷いた。
急がない。
遅れない。
焦りは香りになる。
◇
会議室には文官三名、記録官。
そしてベルナール家の文官。
椅子に座る前に、盤面は読めた。
差し出された帳簿。
南区再開発の資金の流れ。
フォビア家の出資。
問題はない。
だが余白。
《王子承認済》
小さな文字。
第一王子補佐官の筆跡に、よく似ている。
似ている。
けれど、違う。
だが――
“似ている”という事実が、十分武器になる。
◇
「ご存知ですか?」
穏やかな問い。
私は一拍置いた。
考える時間ではない。
落ち着いている時間を作る間。
「存じません」
声は揺れない。
だが胸の奥が冷える。
(殿下が疑われる)
私ではない。
彼が。
王族は、疑われること自体が傷になる。
◇
「南区の件は商会主導でございます」
「殿下の私的承認を得た事実はありません」
事実だけを並べる。
強く否定すれば感情的になる。
弱く否定すれば図星になる。
だから、淡々と。
沈黙を、相手に渡す。
◇
扉が開いた。
第一王子。
彼は私の隣に立たない。
対面に座る。
完璧な距離。
私的ではない証明。
胸がわずかに痛む。
(……正解です)
◇
「この書き込みは私の指示ではない」
迷いなく言う。
「筆跡鑑定を行え」
静かな命令。
逃げない。
隠さない。
「フォビア家に非はない」
短い言葉。
だが重い。
その一言で、私は初めて息が通るのを感じた。
◇
会議後。
廊下でアリシアと向き合う。
「証拠は怖いものですわ」
柔らかな声。
「ええ」
私は微笑む。
「作るのは、特に」
一瞬だけ、彼女の瞳が揺れる。
それで十分。
「殿下は調査を命じました」
「本物かどうかは、すぐに分かります」
宣戦布告ではない。
事実の提示。
◇
夜。
執務室。
「巻き込んだ」
彼は言う。
「いいえ」
本当は怖かった。
だが、飲み込む。
「試されたのは距離です」
「揺れなかった」
彼が言う。
その言葉に胸が痛む。
「……揺れました」
正直に告げる。
「殿下が疑われるのは、怖い」
言葉にした瞬間、隠せなくなる。
◇
彼の手が伸びる。
迷いなく、私の手首を掴む。
「退かせない」
低い声。
王子ではない。
男。
鼓動が速くなる。
(落ちるな)
夜職の自分が警告する。
でも。
(もう落ちている)
◇
筆跡鑑定。
偽造。
ベルナール家文官との繋がり。
公にはならない。
だが王宮は理解する。
罠は失敗。
そして。
第一王子は揺れなかった。
◇
翌朝。
視線が変わる。
疑念ではない。
確信。
あの席は、本物だ。
◇
(夜職語録㉚
本気の罠を越えた席は、
二度と軽く見られない)
窓の外を見る。
戦いは終わらない。
だが。
隣の意味は、
もう変わった。




