微笑みの罠
戦いが始まった瞬間、
アリシアは動かなかった。
三日。
何も起こらない。
それが、
最初の違和感だった。
◇
社交界は、
静まり返っている。
誰もあからさまに敵対しない。
誰も挑発しない。
――あまりに静か。
(……来る)
夜の世界で学んだ。
本気の相手ほど、
最初に動かない。
◇
四日目。
王宮に一通の投書が届く。
差出人不明。
内容は丁寧だ。
非難でも中傷でもない。
――懸念。
「第一王子殿下と特定令嬢との過度な接触は、
王家の中立性を損なう恐れがある」
正論。
だから、
処理が難しい。
◇
同時に。
南区再開発に関する噂が、
微妙に形を変える。
「フォビア家が主導」
「殿下の私的判断」
“並ぶ”が、
“操る”に変換され始める。
◇
私は理解する。
これは、
直接攻撃ではない。
王子の立場を揺らす罠。
彼を守れば、
私は“政治に口出す女”。
黙れば、
彼が傷つく。
美しい罠だ。
◇
夕刻。
私はアリシアと偶然を装って出会う。
彼女は、
穏やかな笑み。
「最近、
お疲れでは?」
優しい声。
「投書の件、
心を痛めておりますの」
白々しいほど、
自然。
◇
「ご心配、ありがとうございます」
私は微笑む。
「殿下は、
公正な方ですから」
「ええ」
彼女は頷く。
「だからこそ、
誤解が生じては困りますわね」
視線が、
わずかに鋭くなる。
◇
「誤解は、
事実が積み重なれば消えます」
私は言う。
「時間がかかることもございます」
「それまでに」
一歩、
距離を詰める。
「殿下が傷つくかもしれません」
――刺してくる。
◇
私は、
ほんの一瞬だけ、
心臓が強く打つのを感じた。
彼女は、
私ではなく、
彼を狙っている。
◇
「……お優しいのですね」
私は言う。
「王家を思う気持ちは、
本物なのでしょう」
アリシアの瞳が、
わずかに揺れる。
◇
「ですが」
私は続ける。
「殿下は、
守られるだけの方ではありません」
「共に立つ相手を、
選ばれました」
初めて、
言い切る。
◇
「……選ばれた、と」
彼女の笑みが、
ほんのわずかに崩れる。
「ええ」
一拍。
「ご指名いただきましたので」
静かに。
周囲に聞こえる程度の声量。
◇
その言葉は、
廊下にいた侍女の耳にも届く。
噂は、
流れる。
“私的接触”ではなく、
明確な意思。
◇
夜。
第一王子のもとへ、
再び“懸念”が届く。
だが、
今度は違う。
「ご指名」という言葉が、
同時に広がっている。
王子の判断。
選択。
責任。
◇
アレクシアは、
書簡を閉じる。
「……巧妙だな」
低く呟く。
だが、
表情は揺れない。
◇
「利用されたと
思うか?」
後日、
彼は私に問う。
「いいえ」
私は答える。
「試されただけです」
「何を?」
視線が、
真っ直ぐ向く。
「殿下が、
揺れるかどうか」
◇
彼は、
わずかに笑った。
「揺れない」
即答。
「君は?」
私は、
少しだけ息を吐く。
「……少しだけ」
正直に言う。
彼の眉が動く。
「だが」
一歩、
近づく。
「退きません」
◇
その瞬間。
彼の手が、
ほんの一瞬だけ
私の指先に触れた。
偶然のように。
だが、
意図的。
すぐ離れる。
触れた事実だけが残る。
◇
翌日。
王宮の空気は、
微妙に変わる。
投書の話題は、
広がらない。
代わりに。
「殿下は揺れない」
それが、
共通認識になる。
◇
アリシアは、
窓辺でそれを聞く。
表情は穏やか。
だが、
目の奥に炎が宿る。
――まだ終わらない。
⸻
(夜職語録㉙
本気の客は、
試してから決める)
私は理解する。
これは第一波。
本命の罠は、
まだ来ていない。




