⑩喧嘩
私は、子どもの頃から歌が大好きだった。
聴くのも、歌うのも。
テレビから流れてくる主題歌を真似して、何度も何度も繰り返し歌った。
風呂場で、通学路で、家の廊下で。気づけばいつも、口からメロディがこぼれていた。
両親は、それを本気で応援してくれた。
週末ごとに近所の歌の大会に連れて行ってくれて、発表会やコンテストがあれば、必ず申し込み用紙を持ってきてくれた。
小学生のころは、「上位入賞」が当たり前だった。
中学生のころには、ちょっとした番組に子ども枠で出演もした。
賞状とトロフィーと記念写真が、家の棚に増えていくたびに、
(ああ、私はこのまま“歌で生きていく”んだ)
本気でそう信じていた。
けれど、大人になってから知った。
技術と努力だけじゃ、届かない場所があること。
“上手い人”のさらに上に、“運のいい人”がいること。
そして、そのまた上に、“その時代に求められた顔と声”を持つ人たちがいること。
何とかして、歌の技術を磨き、時代に対応して
今の地位までは上りつめた。
小さな箱ならワンマンもできる。
名前を出せば、「ああ、あの曲の人ね」と分かってくれる人もいる。
でも――どこかで、限界を感じていた。
生活だって、きつい。
家賃の数字と、今月の売り上げと、来月のスケジュールを見比べて、ため息をつく夜が続く。
そこへ降ってきた、「一億円」という数字。
心が、ざわついて当然だった。
(……整理しないと)
このまま頭の中だけで考えていると、違約金と契約金とAIの声とコスモの顔が、ぐちゃぐちゃに混ざっていく。
私は廊下を歩き、リハーサル室のエリアへと向かった。
歌えば、少しはましになる。
昔から、どうしようもなく不安になるときは、声を出して誤魔化してきた。
しかし、スタジオの前まで来て、足を止める。
先に使用している人がいるようで、ドアの小窓からは灯りが漏れていた。
防音扉のわずかな隙間から、うっすらと歌声が響いてくる。
まだ音程が安定せず、ところどころでふらつく。
声質も、お世辞にも“いい”とは言えない。
でも――必死さだけは、真っ直ぐに伝わってくる声。
(……美空ちゃんね)
ほんの少しだけ、胸のざわめきが、違う形に変わった。
今の彼女を邪魔するのは悪い。
それに――あの拙いけれど真っ直ぐな声を聞いていたら、少しくらい、抗ってみたくなったのだ。
(まずは……彼に相談は、すべきかしらね)
私は事務所を出て、そのまま家路を急いだ。
◇
家のドアを開けると、センサーが私を認証して、廊下の照明が自動で点いた。
リビングの灯りも、すでにオンになっている。
テーブルの上には、インスタントのスープと、コンビニのロゴが入ったおにぎりが二つ容器に入れられて入っていた。
横のパネルには、《保温中》の表示。
「おかえり」
キッチンカウンターの向こうから、コスモが顔を出した。
湯気の立つマグカップを片手に、さっきよりは少しマシな笑顔を浮かべて。
「……ただいま」
玄関近くのハンガーにコートを引っかけながら、頭の中で言葉を並べ替える。
何から話すべきか、どこまで話すべきか――そればかり、ぐるぐると考えていた。
リビングのテーブルを挟んで向かい合って座ると、こっちが口を開く前に、彼のほうから声が落ちてきた。
「事務所、どうだった?」
「仕事のスケジュールの相談をしたわ。それと……ひとつ、大きな話が来てるって」
「大きな話?」
彼の眉が、わずかに動く。
マグカップをソーサーに置く手が、ほんの少し固くなったのが分かる。カップの底が、コースターの上でカチリと鳴いた。
「AIアバターにならないかって。私をモデルにした公式アバターを作りたいって話」
一瞬、空気が固まった。
「……ああ、そういうの、前に断ってたやつだよね?」
「そう。前は条件もそこまでじゃなかったし、興味もなかった。でも、今回は――」
息を吸い込んで、一気に言う。
「契約金が最低一億。プラス、利益分配」
彼の目が、はっきりと見開かれる。
壁に埋め込まれたスマートクロックの秒針表示が、一瞬止まって見えたくらいだ。
「……一億?」
「ええ。違約金なんて、一瞬で払える額よ」
笑い飛ばすみたいに言ってみせる。
けれど、喉が少し、乾いていた。笑い声が、途中でひび割れそうになる。
「受けるの?」
コスモの声が、ほんの一段低くなる。
問いかけというより、様子を探るような音色。
「まだ返事はしていないわ。条件があるから」
「条件?」
「未婚の状態を五年間キープ。それから……もしその後結婚するなら、“イメージが損なわれない相手”にしてほしいからって、先方の提示した候補の中から選べって」
コスモの顔から、すっと血の気が引いていくのが分かった。
テーブルの上のスープの湯気だけが、場違いなくらい呑気に立ちのぼっている。
「……それ、要するに」
「“今の婚約は続けるな”って話ね」
自分で言いながら、胸の奥がきゅうっと縮んだ。
静かな部屋に、壁掛けパネルの時報アニメだけが、やけに大げさに動いている。
「……どうするつもりなの?」
ようやく絞り出されたコスモの言葉は、いつもの柔らかい声ではなかった。
少し掠れていて、慎重に足場を探るみたいな響きだった。
私は、すぐには答えられなかった。
ほんの数秒の沈黙――のつもりだった。
けれど、その一瞬で彼の表情が目に見えて曇る。
「……ちょっと待って。この沈黙、嘘だろう」
「考えているだけよ。違約金のこともあるし、仕事の将来も――」
「そう……なんだ……」
マグカップの取っ手を握る彼の指に、力がこもる。
白い指の節が、少しだけ浮き上がった。
「なに、そんなに不満なの」
思わず、少し棘が混じる。
自分でも、攻撃的な言い方だと分かっていた。
「僕はAIアバターは反対だよ」
きっぱりとした否定。
それから、喉の奥で言葉が渋滞したみたいに、数秒の間。
やがて堰を切ったように、言葉が溢れ出す。
「僕はセレスがどれだけ頑張ってきたか、一番知ってる」
コスモは、テーブルに身を乗り出した。
上からの照明に照らされて、瞳の色がわずかに揺れる。
「狭い箱から始めて、場末のイベントでも全力で歌って、声が出なくなってもリハーサルだけは絶対に休まなくて。
上には上がいて、時には運だって必要で、それでも頑張ってここまで来たのに――」
拳を握る音が、かすかにテーブルの板越しに伝わる。
「そんな“セレス”が、全部“キャラクター”にされるんだよ?
声と顔をAIがコピーして、“清純な歌姫アバターです”って売り出されて。セレスの努力も信念も感情も何も知らない人たちの、都合のいい役割を演じる存在に成り下がってしまう」
そこまで言って、彼は苦しそうに息を吐いた。
「……それが、悔しくないの?」
胸がちくりとした。
悔しくないはずがない。
でも同時に、一億という数字も、あまりにも現実的に重かった。
「それに、僕のほうも、もう少しで成功しそうなんだ」
彼は、必死に言葉を繋ぐ。
「担当編集とも話しててさ、“次の単行本の数字が良ければ、アニメ化の線も見えてくる”って。
支援者も増えてるし、印税も、少しずつだけど……だから、あと少しでいいから待ってほしい」
「その『あと少し』を、何回聞けばいいのよ」
自分でも驚くほど、鋭い声が出た。
コスモの肩が、びくりと揺れる。
「いつもそれを言って、何か生活が少し改善されたかしら。確かに、何かで賞は取っていたかもしれない。
出版社にも褒められてたかもしれない。けど、だから何? 私たちの生活が何か変わった?」
「変わったよ。前よりは安定――」
「コンビニのおにぎりとインスタントスープだけの食事の頻度が、少し減ることのどこが“安定”なのよ!」
テーブルを軽く叩いた音が、部屋に響く。
壁のスマートスピーカーが一瞬だけ音声入力モードに入って、
《音声コマンドを認識できませんでした》
と小さく表示してすぐ消えた。
自分でも、言い方がきついとは思った。
でも、一度口をついた言葉は止まらない。
「それに、もうこんな生活こりごりなのよ」
言いながら、自分の声が少し震えているのに気づく。
「みんなの前では豪華な衣装を着て、ライトを浴びて、注目の的で、“憧れです”なんて言われて。
裏では、こんな食事ばかりで、喉のケアだって必要最小限しかできていない。欲しいものをいっぱい我慢して、家賃の引き落としに怯えて――」
ぐ、と拳を握る。
「私だって、いい生活をしたいわ。ここまで頑張ったんですもの、少しくらい、“歌で報われた”って実感したいの」
「僕だって努力はしているし、それなりに我慢はしているよ」
コスモも負けじと声を張る。
「でも、クリエイターは、ごく一部の大成功者以外は、どこもそんなもんなんだって。
僕の周りの漫画家だって、似たような生活かそれ以下の生活してるし――」
「“みんなそう”って話は、もういいわ」
吐き捨てるように遮ってしまう。
「私は、“みんな”じゃなくて、“私”の話をしてるの」
彼が、一瞬言葉を失う。
「今回、私は“評価された”の」
ゆっくりと言い直す。
「数字で。条件で。“一億”という形で。
それは、今までどんな賞よりも、どんな視聴数よりも、現実的で分かりやすい評価よ」
彼が、悔しそうに唇を噛みしめるのが見えた。
「仮によ」
私は、ぐっと彼を見つめる。
「あなたが漫画で同じ提案を受けたとして――
一億も、将来の安定も、アニメ化もグッズ化も、全部捨ててでも、“今のまま私と婚約していたい”って、言える?」
リビングの空気が、急に重くなった気がした。
コスモの喉が、ごくりと鳴る。
視線が揺れて、何度も瞬きをする。
テーブルの上で、彼の指がそわそわと動いては止まり、また動く。
壁のスマートディスプレイには、さっきまで流していたニュース番組のサムネイルが、無音のまま止まっていた。
数秒。
あるいは、もっと長い沈黙のあと。
「……それは、」
かすれた声が漏れたきり、続きが出てこなかった。
その、言葉にならない沈黙が、何よりも雄弁だった。
私は、ゆっくりと息を吐く。
「あなたの考えは、よく分かった」
自分でも驚くほど、冷静な声が出た。
冷たいというより、どこか遠くから聞こえるみたいな、自分の声。
「もういいわ。三日後までに、私なりに答えを出す」
「セレス――!」
彼が椅子から半分立ち上がる。
テーブル越しに、何かを掴もうとするように手を伸ばしかけて。
「今日は、もう話したくない」
その手を見ないようにして、私はゆっくりと立ち上がった。
リビングの照明が、私の移動に合わせて少しだけ明るさを落とす。
玄関方向の足もとには、廊下への誘導ラインが淡く光った。
背中に、何か言いたげな気配を感じながらも
――私は、玄関の扉の外へと歩いていった。




