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⑧金銭問題

 

 婚約破棄申請には、私たちがやろうとしている“ちゃんと破綻して見せる”方法以外に、もう一つだけ抜け道がある。


 それは、違約金を支払うことだ。

 その額を支払い、両者が同意すれば、婚約状態は強制的に解消される。


 ただ、この違約金というのが、画面に表示された数字を見ただけで頭が痛くなるレベルで高い。

 婚約補助金の不正受給を防ぐ目的のほか、どちらか一方の経済状態が悪化した場合のセーフティネット――

 いざというときの生活再建用の資金にもなるらしい。


 それともうひとつ、大事な役割がある。


 「そんな金額を払ってまで、本当に別れたいのか?」と、二人にもう一度考えさせるための、

 “簡単には別れさせないための心理的ストッパー”としての意味だ。


 本当なら、違約金を払ってしまえば、あんな茶番じみた婚約破棄劇なんてやらずに、さっくり手続きは終わる。


 ――けれど、私たちの家計には、そんな余裕はまったくない。


 私は歌手としてはそれなりの地位にいるけれど、現実としては売り上げの波が激しい。


 ライブが多い月はまだいい。

 けれど、仕事が少ない月は、リビングの壁に投影された家計簿アプリと、延々にらめっこしながら、

 スマート冷蔵庫の在庫リストと割引通知を見比べて、その日の晩ごはんをどうするか悩むことになる。


 昔は「一曲ヒットが出れば印税でしばらく安泰」なんて時代もあったらしい。

 けれど今は、AIによる自動作曲が当たり前になり、

 著作権の扱いも「AI作」「人間作」をあまり区別せず、フリー素材や共用ライブラリ前提のものが好まれる。


 ――要するに、“一曲書いて一生安泰”みたいな世界は、とっくの昔に終わっている。


 一方、コスモはというと、将来の夢だった漫画家になった。


 ちゃんと連載はあるし、単行本も数冊出ている。

 今は電子配信が主流とはいえ、紙の本も一定の需要があり、単行本化の際には紙版向けにレイアウトを最適化したデータを別で作る。

 あるいは、WEB用と紙用でコマ割りや演出を変えた二重構成にすることもある。


 本人は自分から「大人気です」とは言わないが、

 有名雑誌のラインナップに名前が載るくらいには、そこそこ知られている。


 しかし――それだけで「悠々自適」とはいかないのが、この世界のクリエイター事情だ。


 原稿料は、作画時間と精神力を削った見返りとしては、決して十分とは言いがたい。

印税は、入るときは入るが、その「入るとき」がいつなのかは読めない。

 ランキングやSNSでバズるかどうかに大きく左右されるせいで、予測はほぼ不可能だ。


 だからコスモは、ファン向けの支援サイトも併用している。


 サブスク形式の投げ銭プラン、リクエストイラスト、アイコン制作、短編マンガの描き下ろし……。

 専用プラットフォームのダッシュボードには、未処理のリクエスト一覧がずらりと並んでいる。


 描けば喜ばれるし、「届きました! 大切にします!」というお礼のメッセージも端末に届く。

 それはそれで、彼の生きがいにもなっていた。


 ――つまり、私たちはふたりして、「好きなことでなんとか食いつないでいる」側の人間なのだ。


 そんな状態の私たちに、違約金なんて払えるわけがない。



 テーブルの上、ホログラムで浮かぶ今月の請求予定額を見つめながら、私はぽつりとつぶやいた。


「……少し、仕事を多く入れようかしら」


 今までは歌のオファーが中心だったが、

 最近はタレント寄りの仕事――コメント出演や配信番組のMC、AI審査番組の“人間側ゲスト”なんかの依頼も増えてきている。


 スケジュール管理アプリに並ぶ通知をざっと見れば、

 無理をすれば、まだいくらか仕事を増やせるのは分かる。


 そう頭の中で計算していたところで、コスモがすぐに首を横に振った。


「いやいや、僕がもっと絵を描くよ」


 彼は、デスクに投影されていた作業用ウィンドウをぱたんと閉じ、こちらに体ごと向き直る。


「絵を描くのは好きなことだから、そこまで苦じゃないんだ。

 支援者リクエストも、まだまだ対応しきれてないのいっぱいあるしね」


 そう言って笑ってみせる。

 けれど、その目元には、すでにくっきりとクマができていた。

 ARメガネのフレーム越しでも、ごまかしきれないレベルで。


「そんなこと言って、また徹夜するつもり? そんなんじゃ身体もたないわよ」


 気づけば、声が少しきつくなっていた。


 締め切り前、ふらふらになりながら液タブ一体型デスクの前に張り付いている彼を、私は何度も見てきた。


 机の下には、空になったエナジードリンクの紙パックや、カフェインゼリーの容器。

 ペン型デバイスを握ったまま「少し違うな」と呟き、肩をぐるぐる回していた夜。


「いやいや、まだまだいけるって」


 彼は、いつもの調子で笑おうとする。


「〆切前とかの、あの地獄と比べたら全然だよ。

 視界の端でコマが勝手に動き出して幻覚見えてくるもん。あれに比べたら、ちょっと仕事増やすくらい余裕余裕」


 冗談めかして笑顔を作る。

 けれど、その口元は少し引きつっていて、笑い皺の上から、はっきりと疲労の影がにじんで見えた。


 私はため息をつき、彼の前に身を乗り出す。

 テーブルに表示されていた請求ホログラムが、私の動きに反応してふわりと位置をずらした。


「またそんなことばかり言って」


「いや、本当に大丈夫だって」


「大丈夫じゃないから言ってるのよ。最近ずっと、夜中まで起きてるじゃない。朝も全然起きてこないし」


「クリエイターなんてみんなそんなもんだよ」


「はい出た、“みんなそう”理論。みんなのことはどうでもいいわ。あなたの身体はひとつだけなんだから」


「心配しすぎだよ、セレスは」


 彼が軽く笑って流そうとした瞬間、胸の奥で何かがぷつんと切れた。


「じゃあ聞くけど。昨日の夜、ご飯食べてないでしょ。あと寝たの、何時?」


「え、えっと……まだ外は暗かったよ?」


「……ねえ、私たち一緒に生活してるのに、最近まったく“同じ時間”にいないわ」


「いまだけの例外だから」


「最近その“例外”多すぎるのよ!」


 思わず声が跳ね上がった。


「婚約の問題は、私たちふたりの問題なのに。

 どうして真っ先に“自分が無理する”方向にしか考えないの?

 少しはセーブしようって発想にならないわけ?」


「だって、セレスの歌のほうが大事でしょ。ライブ増やしたら、喉壊すかもしれないし。

 AI補正かけてても、結局声帯は生身なんだからさ」


「だからって、あなたが倒れていい理由にはならないでしょ!」


「いや、全然大丈夫だから。心配しないで」


「私はただ、あなたの負担を減らしてあげるって言ってるだけなのに。

 どうしてこうも頑ななのかしら」


 小さいことにはすぐ謝るくせに、

 私の負担を増やさないために“自分のほうを減らす”という発想だけは、どうしても譲らない。


 その矛盾が、じわじわと苛立ちに火をつける。


「まあ、僕は最悪、いまのままでもいいし」


 ぽつりと漏らされた一言に、眉がぴくりと動いた。


「“いまのまま”って、どういう意味?」


「性別のやつだよ。逆で登録されたままでも、別に死ぬわけじゃないし。

 無理して婚約破棄までして修正する必要、あるかなって。正直ちょっと思ってる」


 胸の奥が、きゅっと冷たくなる。


「婚約破棄やめて、このまま変な性別のままでいろって?

 それで本当にいいと思って言ってるのかしら?」


「……それは、嫌ではあるけど」


「婚約破棄は二人で決めたんでしょ。

 そして、今の私たちには違約金を支払うしかない。けれど、あなただけが身を削っていい話じゃないでしょ」


「でも、セレスに無理させるくらいなら、僕が――」


「そうやって、勝手に“守る側”ぶらないで!」


 自分でも驚くほど鋭い声が出た。


 コスモがびくりと肩を揺らす。

 テーブル上のホログラムが、感情値の上昇を検知したのか、一瞬だけ赤く点滅した。


「私はパートナーであって、守られるだけの子どもじゃないわ。

 負担を分け合おうって話をしてるのに、“僕だけ無理するから”って――

 それ、私を信じてないって言ってるのと同じよ」


「違うよ、そういう意味じゃ――」


「じゃあどういう意味? 説明して」


 言葉に詰まった彼が、視線をそらす。


 その横顔を見ていると、苛立ちと一緒に、やりきれなさもこみ上げてきた。


「……もういいわ。私、ちょっと事務所に行ってくる」


「ちょっと待って、話はまだ――」


 伸ばされた手を、私は見ないふりをして立ち上がる。


 玄関ドアのロックパネルに手をかざすと、認証ライトが青く点いた。


「行ってくるわ」


 それだけ告げて、彼の「ちょっと待って」という声を背中で振り切る。


 廊下に出た瞬間、共用空調のひんやりした風が頬をなでた。

 足もとに、フロア案内の矢印ホログラムがふわりと浮かび上がる。


 最近、こういう言い争いが増えた。


 少し前までは、二人で同じ画面を見て笑っているだけで、あんなに幸せだったのに――と、

 静かな通路に自分の足音だけが響く中で、ふとそんなことを思った。


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