12ー7 ヨドクス・ギュエストの異常性について
「失礼するよ」
「ああ、イェルンか」
「……フィクトル、自室だからって気を抜き過ぎじゃないのかね?」
「おれは鬼のボックだぞ、ここにはお前くらいしか来ない」
「君は本当にずぼらだな」
暖かい起毛の布で覆われたソファに全身を預けていた男性、ボック治療術士長が、ハッと鼻に抜けるようなゆるい笑いをこぼす。
普段実働隊本部の隊員たちに〝鬼のボック〟と恐れられているずぼら治療術士長は、今は疲れた顔をしていた。
自室でくつろげなかったらどこでくつろぐのか、とテーブルの上の冷めきった泥水のような色のコーヒーを行儀悪くすすった。
室内に入ってきた男性はそれを見て顔をしかめ、手に持っていたファイルをソファの前のテーブルへ置いた。
「昨日までの彼の精神鑑定書だ。
実働隊本部所属の治療術士長として、品格に欠ける振る舞いはやめたまえ」
「あーはいはい、で、いつまでそのかたっ苦しい話し方を続けるんだ?
実働隊本部所属の精神療士長のイェルン・ベイエルスベルヘン士殿?」
「……まったく、本当に君は困ったやつだ。
こちらは仕事を押し付けられて迷惑しているのに、いきなり友人として会話ができるはずがないだろう?」
「そうだったか?」
ソファから上半身を起こし、テーブルの上のファイルに手を伸ばすボック治療術士長を横目に、ベイエルスベルヘン精神療士長は部屋の片隅に設置されている給湯スペースで手ずからコーヒーを入れる。
予算があるので豆自体はいいものなのに、ボックは丁寧に豆を挽くのを面倒臭がるので、いつも微妙な味のコーヒーばかり飲んでいる。
ベイエルスベルヘンは、勝手知ったる他人の私室と言わんばかりに、ボックの分まで計算してから、ミルに計った豆を入れてゆっくりと挽き始める。
静かだった室内に豆を挽く音と共に匂いが立ち上った。
「ついでにおれのも頼む」
「もうやってるよ」
「さすがに気がきくな」
「君がズボラなんだよ」
そんな会話をしている内に、二人ぶんのコーヒーの準備は済み、ベイエルスベルヘンは湯気の立ちのぼるカップをボックへと差し出した。
「……この報告は、本気か?」
「君じゃあるまいし、患者への診断に私情を含んでしまったら精神療士などやってられないよ」
「悪い、そういう意味じゃない」
「分かっているよ、こちらこそすまない。
彼があまりにも哀れで、我が身の無力さを君に八つ当たりしているだけだ」
二人とも淹れたての湯気がたつコーヒーを飲んでいるのに、室内の空気は重たくなっていく。
「精神療士としての意見だ。
ヨドクス・ギュエストは、もう実戦で戦わせないほうがいい」
「やはり心的外傷後ストレス障害か?
あんな目にあえば仕方がないだろうな」
「いや、正直に言えば診断がつけられない。
彼の幼少期からの養育環境の異常さを考えれば、性格形成の段階で歪んでいる可能性も否定できない。
簡単に竜を殺すような少年の、狂気の引き金の在りかを調べる気はないからな」
「そうか」
コーヒーの匂いが満ちる室内で、二人の男が、一人の少年の哀れな半生に思いを馳せる。
そして、彼が唯一自分が人よりも優れている、と考えているものを奪うことで、どんな影響が出るかを思うと、何も言葉が出て来ないのだった。
「失礼致しますっ!」
慌ただしい足音とともに駆け込んできた突然の大声に、二人が同時に顔を上げると、そこには顔を引きつらせるニュマン実働部隊部隊長補佐が立っていた。
「どうした?」
「ギュエスト実働部隊部隊長が、試験の勉強をしたくないと本部から逃亡しました!」
「はあ?」
「へぇ、それは良かった」
珍しく慌てふためいているニュマン補佐を見て、ボックは呆然としたが、ベイエルスベルヘンはにっこりと笑った。
これで一つ心配事が消えた、と安心してコーヒーを楽しむ。
「良いわけあるか!」
鬼と呼ばれる片鱗をのぞかせ、声を荒げるボックに向かい、ベイエルスベルヘンは落ち着け、と手を動かす。
「良いよ、最高に良いことだ。
これであの子に精神的な過労による養生を勧めてあげられる」
「養生?」
「そう、本人の意思を無視して国外に出させると何が起きるか……と周囲に匂わせることができる」
「はじめから狙ってたのか?!
お前一体何をした!」
「何もしてないよ。
ただ、今までのあの子だったら、どれだけ無茶な任務でも拒否していなかっただろう?
それが異常なことだと、周囲の大人が気がついていないことがおかしかったんだよ」
何を言われても、何をしろと言われても「イエス」しか言わなかった少年が、自分の意思で逃げ出した。
それは少年を見守ってきた精神療士として聞くには、素晴らしい報告だった。
ヨドクス・ギュエストは、おそらく成長の過程で、命令に逆らうな、ということを心身に刷り込まれて育ってきている。
実働隊の隊員たちの精神面を治療して、補助するのが仕事のベイエルスベルヘン精神療士長だが、実働隊の隊員ではない以上は、実働隊の仕事を拒否しろ、とは言いにくかった。
幼少期に必ず通過する成長過程の一つとして〝嫌なものは嫌!〟を声に出せと言った所で、それが周囲にどう受け止められるかも分からない。
本来ならば、それを口に出すのはもっと幼い子供だから。
この組織の中に、少年に対して好意を持つものばかりではないことを、知っているからこそ。
公開処刑のような、大勢に死を望まれるような極限状態を体験させられたせいで、精神的な疾患を発症するのではないか?と心配していたが、蓋を開けてみれば、それはいい意味で裏切られることになった。
個人的、社会的に未発達で未熟だった少年は、自分の意思を持ち始めた。
人としての精神発達の第一歩を踏み出した。
周囲の大人がするべきは、少年が暴走しないように、助言するくらいだ。
時と場合によっては実力行使も必要かもしれないが、問題があるとすれば、その少年を攻撃的にさせるような刺激はするべきではない、ということだ。
「彼はまだ十六歳なんだよ、君たちが十六歳の時はもっとバカだっただろう?
少なくともわたしは、可愛い女の子のお尻に夢中だったよ」
コーヒーのカップを傾けながら、仕事中とは違いほんのりと微笑んでいるベイエルスベルヘンの姿に、ボックは安堵して意見を変えることにした。
友人であるこいつがこう言うなら、大丈夫だろうと。
「とりあえず、あいつがいきそうな場所に連絡して、少し休ませてやったらどうだ?」
「国家資格試験まで日数がないんですよ?」
「それだって、周りの押し付けじゃないのか?
あいつ本人が、その国家資格が欲しいって言ったのか?
興味ないことは何も知ろうとしないあいつがそんなこと言ったのか?」
四年の付き合いがあるのに、ヨドクスが未だに自分の名前を知らない(知ろうとしていない)ことを知っているボックは、困っているニュマン補佐を丸め込むことにした。
「……ですが、王命なので」
「それなら、今すぐ総隊長に連絡しろ。
イェルン」
「ああ、今すぐ精神鑑定の診断書を書くよ。
見知らぬ場所では情緒不安定になる可能性が高く、まともな対人交渉はできそうにありませんってね」
「精神療士長!?」
悪巧みをしている悪童を見るように顔を引きつらせるニュマン補佐に、ベイエルスベルヘンは精神療士長としてトドメを刺すことにした。
隊員ではないから、隊員たちのサポートをする精神療士だからこそ、実働隊の裏事情を知っている。
本来なら職業規範的に、仕事で知ったことを明かしてはいけないのだが、やればできる大人と、事情を理解していないままにこき使われている子供、どちらを守るべきか?と考えた場合、悩むまでもなく子供に決まっている。
「ニュマン君、子供に面倒だからと大人の仕事を押し付けてはいけないよ。
君は彼の子守役じゃないか、頼んだよ」
「な、何でそれを!?
……ぅう、わかりました」
ニュマン補佐は叩き上げの実働部隊隊員であり、簡単に弱みを見せたりはしない。
それでも相手がベイエルスベルヘン精神療士長では、相手の方が一枚も二枚も上手だ。
何しろ、数年以上の期間を経て、弱いところの全てを知られているのだから。
実働部隊の隊員と戦う力なんて何一つ持っていないのに、鬼のボック以上に恐ろしい相手。
任務で地獄をさまようような体験をした隊員だけが、ベイエルスベルヘン精神療士長の本当の恐ろしさを知っている。
それは誰でも思わず口を開いてしまう、淡々とした話を聞き出す手法であったり。
いざという時は、迷いなく職権を乱用する思い切りの良さであったり。
相手好みのコーヒーを、カウンセリングの二度目から間違うことなく用意してくる、恐ろしいまでの記憶力であったり。
どう考えても、どう見ても常識人であり、法律に触れるような行為に手を染める人物ではないのに、逆らうと何をされるかわからない恐ろしさがある。
それがベイエルスベルヘン精神療士長であり、彼もまた、クショフレール地主男爵と同じように、あと二年はヨドクス・ギュエストを表に出すべきではない、と考えている。
子供には子供らしく過ごす時間が必要だ。
この国は戦火に飲まれはしなかったが、戦禍には晒された。
復興が順調に進んでいるからと、子供を必要以上に早く大人にさせようとすれば、子供を大人が利用しようとすれば、どこかで歪みが生まれる。
その手の歪みは長く引きずることを、精神療士であるベイエルスベルヘンは、誰よりも知っている。
子供の柔らかい心に深く刻まれた傷は、死ぬまで残り続ける。
「フィクトル、また後で」
空になったカップを流しに置いて、ベイエルスベルヘン精神療士長はファイルを手に持った。
急いで診断書を書かなくては、と口の端に笑みが登っている。
それを見たボックは、お前も十分すぎるほど仕事に私情を挟んでいるよな、とわずかに首を振るに留めた。
ベイエルスベルヘン精神療士長は普段が穏やかであるがゆえに、怒らせるとそれが長引くのだ。
友人の悩みが一つ減ったのなら、それはそれでいいことだろう、と好みの濃さに淹れられたコーヒーを呷った。




