10ー1 抱擁
ヴュルフさんは、オレがいろいろなことを勘違いして、間違っていることを知っていながら、あえて訂正しなかったのだと言う。
すべての真実を告げた時に、オレがどう動くかが分からなかった、国を飛び出すか自暴自棄になるかを読みきれなかったから、これまで観察を続けていた、と。
オレが近づいて欲しくない、と思っていることを知っていたからこそ、後見人のことを告げなくてもいいと思っていた、と。
なんだそれ、と思った。
今更、今になって、何を言い出すんだ、と。
「君に借金など存在しない、保護者が保護対象を養育するのは義務だからね。
借金の返済の名目で天引きされた給料は、君の個人名義で投資へ回して黒字運用をしている。
君が成年になるまでの契約だから、もう少し待って欲しい」
これまでのことを許して欲しいとは言わないが、少しだけ歩み寄らせてもらえないだろうか、などと言われても困るだけだ。
「……時間が欲しい」
「構わないとも、早急に結果を求めることでもない。
今よりも少し多く頼ってもらえると嬉しい、と思っているだけだよ」
とっくの昔に食事を終えていたヴュルフさんは席を立ち、ゆっくりと部屋から出ていった。
話が始まる前に追加で四人も入ってきて、部屋の四隅を陣取っていた使用人人形たちも、スルスルと立ち去っていく。
一つだけわかったことがある。
オレは、ヴュルフさんに養われて守られていたらしい。
そんなこととは知らなかったし、知らされなかった。
総隊長が養育費の返済のために働けと言うので、王族が金を出したのだと考えていた。
ヴュルフさんが言葉の通りオレを守ってくれていたのなら、死ぬまで実働隊に所属する、という言葉にも裏があるのだろうか。
その理由を、今なら教えてくれるんだろうか。
話から受けた衝撃が大きすぎて、これ以上の情報は入りそうにない。
魔術の鍛錬もしていないのに、すごく疲れた。
薬を盛られたのではないと判断して、食事は済ませた。
空っぽの皿を前にしてぼんやりとしていると、無表情の使用人が音もなく近づいてくる。
床につきそうなスカートの丈が、今なら足元の車輪を隠すためのものだと分かる。
「イカガイタシマスカ」
この使用人達も、ヴュルフさんがオレを守ろうと精一杯考えて用意してくれたもの、なんだろうか。
「外に出たい」
「——オニワヘドウゾ」
使用人人形の後について、磨かれた木目が並ぶ廊下を歩いていく。
床には毛足の長い絨毯が敷き詰められ、壁には所々にタピストリーがかけられている。
何かの物語を連作で綴っている、そんな風景。
いつのまにか、歩きながらゆっくりと見とれていた。
タピストリーに織り込まれた白い馬と黒い馬、そしてそれに乗る白い人と黒い人。
白と黒は手を取り合い、小さな子供を二人助け、そして黒と子供一人がいなくなり、もう一人の子供は倒れて白が……天を仰いで嘆いている?
どんな物語なのだろうか。
白と黒の人物の物語か。
人形に案内されたのは、枯れ草と寒季枯れの木立の庭。
一見するとただの寂れた庭に見えるけれど、奥に温室が見える。
今日も空は曇っている。
寒い中でじっとしていても仕方がないので、その場で体を動かすことにした。
何も考えずに体を動かしていたら、少しでも気が楽になりそうな気がして。
◆
無心に体を動かしていれば、あっという間に昼になったようだ。
今更だけど、学院を無断欠勤、いや休校?欠席?してしまったな、手元に連絡方法がないので諦めるしかない。
使用人人形がこちらに向かってくる姿を見ても、ヴュルさんの話を聞いたせいか前ほどの嫌悪感を覚えない。
「オショクジガゴヨウイデキマシタ」
「……いらない」
使用人人形はいくつかの決まった言葉を発することができるだけのようで、こちらの反応を待っているのか、その言葉を告げると動きを止めた。
動きださない使用人人形を見ながら、土の上に座り込んだ。
腹は減ってる。
魔術の鍛錬はしていないので、目眩がするほどの飢餓状態ではないものの、普通に空腹を抱えている。
身体強化を初めて使えるようになった頃から、ずっと空腹には悩まされてきたけれど、歳を経るごとにさらに酷くなっていくような気がする。
最近では魔力を体内で巡らせると目眩が起こるようになり、空腹と目眩が重なるのは辛い。
あまり目眩が続くので精密検査をしようという話になったが、学院の休みと実働隊の休みを重ねることができないまま、日にちだけが過ぎていく。
長引かせていると、そろそろ治療術士のおっさんに怒られそうだ。
動きたくない、と目を閉じて術式理解を深めていると、土を踏む音が聞こえた。
「ヨドクス、昼を食べないのかい?」
思っていたよりも早く、ヴュルフさんが庭に出てきた。
地面に座ったまま、いつでも反射的に魔術が発動できるように構えたまま口を開く。
「なぜオレの保護者になんかなったんだ。
押し付けられるのも、借りを作るのもご免だ」
オレには未来の展望なんてないし、憧れている大人もいない。
それでも、自分の未来を決めるのは自分でありたい。
夢も希望もないまま、死ぬまで足踏みを続けるなんて、生きている意味がない。
「そうかい、君ならそう言う気がしていた、本当にお父さんにそっくりだ。
でもね、これは貸し借りではないんだよ。
私が君の世話を焼きたいし、頼りにして欲しいと思っているだけさ」
なぜか嬉しそうな顔で目を細めると、ヴュルフさんは手に持っていた荷物をこちらへ差し出す。
「君の服や荷物だ、フェランデリング学院の前まで送るから着替えてきなさい。
学院には遅刻の連絡を入れてあるから急ぐ必要はない、スモークハムサンドが中に入れてあるから食べるんだよ」
突然人が変わったように、今朝からオレの面倒を見ようとするヴュルフさんの変化についていけないが、ここで受け入れて流されるべきではないと思う。
自分で行けるから、と断ろうとするオレの手に荷物を押し付けたヴュルフさんが、そっと耳元で囁いた。
「 」
周囲に視線を向けずに笑顔のままで、なんてことを言うのか。
またオレは守られているのか?
実働隊への入隊の時に総隊長に言われた「立ち居振る舞いに気をつけろ」は、本当に善意からの警告だったのかもしれない。
オレは動揺したまま、ヴュルフさんと一緒に学院に向かうことになった。
目が飛び出るほど高価な魔術具の自走馬車を、個人所有してる人がいるとは思わなかった。
馬のついていない馬車の上に御者が乗っているのを見たときは、刻まれている術式が見たい、と本気で分解したくなった。
これだけ大型の魔術具だと、外からの解析だけでは詳細が分からない。
石畳の上をごとごとと揺られながら、進んでいく馬車の中で、眠たそうな顔をしているヴュルフさんを見ることができない。
その顔がいつもの顔なのか、わざと作っている顔なのか、見抜くことができない。
「ヨドクス」
呼ばれて顔を上げると、眉を下げた顔が見えた。
この困っているような顔も、作った顔なんだろうか。
「私の夢を叶えても良いかな?」
「?」
困ったような顔と言葉に返事を返しかねていると、両手を広げたヴュルフさんにゆっくりと抱きしめられた。
「本当の親にはなれないけれど、君を守ると誓います。
実働隊に所属している間は、私の全てを使って手出しをさせません」
ゆっくりと告げられた言葉で、胸の奥がじわりと熱くなる。
嬉しいのか、怒っているのか分からない。
騙されていたはずなのに、怒って当然なのに、震えるヴュルフさんの声と腕が、それをさせてくれない。
森の奥に閉じ込められていたことは、オレのためだったのか。
助言をくれたのは、オレのことを考えてくれていたからなのか。
手放しでは信じられないと思っているはずなのに、オレの中にある何かが、ヴュルフさんを信じたいと声を上げる。
「君の人生に多くの幸が訪れることを願っているよ」
そう言われ、抱擁を解かれると同時に馬車が止まる。
「旦那様、フェランデリング学院に到着致しました」
外から御者のくぐもった声が聞こえて、それから扉が開かれる。
見慣れてきた灰色がかった門を潜るのは昨日ぶりなのに、何日も見ていなかったような気がする。
「いってらっしゃい」
「……い、いってきます」
先ほどまでの雰囲気を忘れたかのような、満面の笑顔のヴュルフさんに見送られ、学院の中に入ると、校庭から学院生たちの声が聞こえてきた。
運動能力の実技講義をやっているのだろう。
オレは再び、日常へと戻ってきた。
少しだけ胸の奥に靄のような濁りを持ったまま。
クラスへと足を向けながら、これからのことをきちんと時間をかけて考えなくてはいけないと、思った。
本当に実働隊を辞められないのだとすれば、時間をかけてゆっくりと腐っていくようなものだ。
好きでもない仕事に、人生をつぎ込むことに耐えられたのは、いつか解放されると思っていたからでしかない。
◆
講義中は時間が止まってるようだった。
普段から退屈な魔術関連の講義は、今日は完全に停滞している。
循環特化型魔術研究会で、魔力の運用を練習している四組の学院生たちの中には、高度魔術学の講義を属性特化型ではなく循環特化型に変えてくれ、と言い出した者までいる。
魔力の体内運用を体感したことで、座学としての属性特化型魔術に見切りをつけたのだろう。
そのせいで講義をしていた女教員が困惑し、講義にならなくなってしまった。
オスフェデア国内に循環特化型魔術を教えられる者が少ない、もしくはいないから、教職者でもないマルクル隊員に無理を言って、学院まで派遣してもらっているのに、と思うけれど、内情を知らない学院生たちに教えるわけにはいかない。
学院生たちにとっては、魔術は魔術だ。
もしかしたら生活魔法も魔術だと思っているかもしれない。
オレには使えない生活魔法だけれど、魔術を使えない人でも生活魔法が使えるのが普通だという。
生活魔法っていうものが、本当はなんなのか理解しないまま、誰もが使っている。
魔法と魔術の違い、どちらの基礎もあやふやなままの危うい運用。
これもオスフェデア王国が戦争に直接的には参加せず、属性特化型魔術のみを使用してきた弊害なのかもしれない。
正体を隠しているから、オレが何か言ってもなぁ、と思っているとクサンデルと目があった。
多分「何とかしないと」と思っているんだろうけれど、オレに何を言えと?
首を振って返事をすると、困った顔になってしまったクサンデルを見て、いつも通り時間を潰すかと術式に魔力を循環させようとした、その時。
カァンカァンカァンカァンカァンカァンカァンカァンカァンカァンカァン!
王都中に響く勢いで、複数の鐘の音が鳴り響いた。
これはまずい。
え?なに?と全員が周りを見回し始めるのを尻目に、全身の血の気が引くのを感じていた。
王都各所の衛兵詰め所に設置されている警鐘が打ち鳴らされる、それは——王都の結界が破られた、ということだ。
人為的なものなのか、魔物の仕業なのか。
長く続いた戦争で疲弊して擦り切れて傷がつき、ようやく癒えてきた人々の心の傷が、再び抉られることになるかもしれない。




