表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/80

水無月(4)

 すっかり日が暮れていて、雨脚も少し弱まったようだ。通い慣れた先輩の部屋は既にブルーのカーテンが引かれ、蛍光灯の唸るような音が微かに聞こえる。今は何時くらいだろう。

 時計を確かめる気はなかった。

 時間は、どうでもよかった。

 先輩と一緒にいられたらそれだけでいい、と思った。いつかは、そのうちに帰らなくてはならないけど、本当は急ぐ必要があったけど、私は時計から目を背け続けた。先輩も何も言わなかったから、多分、同じように思ってくれているのだろう。


 直視しなくてはいけないのは今の気持ちだ。

 私が抱いている感情と正対し、それを先輩に打ち明けることだ。


「焦りがあるんです」

 床の上に座り直して、私は静かに切り出した。

「この間進級したと思ったら、いつの間にかもう六月です。こんなふうに時間が、知らないうちに過ぎ去ってしまうのかと思うと、しなくてはならないことの全てがやり遂げられないまま終わってしまうような気がして……」

 正座をして向き合う眼前、鳴海先輩はまだ口を開かない。黙って耳を傾けてくれている。

「先輩もご存知の通り、私は今年度から文芸部の部長になりました。と言っても、三年生が一人きりだからやむなく、ですけど。でも」

 溜息が出る。

「部員は一向に増えませんし、現在いる三人だけでは活動も細々としてしまいます。私も秋には引退しなくてはいけませんから、せめてそれまでに形に残る活動をして、部員を勧誘したいと思うのですが、妙案も浮かばない状態なんです」

 それでも、文芸部のことだけ考えていればいいのなら、まだよかった。

 私にはもっと大きく比重を占める、将来への不安があった。

「受験勉強も……事実を言えば、あまり順調に進んでいないんです。どうしてもいろんなことを考えてしまって。高校生活が終わってしまうことが何となく、信じられなくて、現実のことのように思えなくて、どうしても行き詰まってしまうんです」

 一つ不安があると何も手につかなくなる。

 そうこうしているうちに焦りはより募り、悩み事は八方塞がりになる。

「私、このままだと、何もかも成し遂げられないような気がするんです」

 自然と囁くような小さな声になって、私は先輩に打ち明けた。

「このままでは、全てのことをやり残したままで卒業してしまうような気がして、ならないんです」

 そこまで話した時、胸が苦しくなって、私は唇を結んだ。

 先の見えない不安は何よりも恐ろしい。気が付かないうちに現実よりも大きく膨れ上がって、心を呑み込んでしまう。そうして現実すらも霞んで見えなくなる。

 わかっているのに、私は既に何も見えなくなっている。輪郭のぼやけた不安のせいで、何をなすべきかがわからなくなっている。


 しばらくの間、先輩は眉間に皺を寄せたままで黙り込んでいた。

 口を開いたのは、ふと雨の音が遠ざかった瞬間だ。

「身の程を知ることだな」

 ぽつりと一言、そう言った。

 私は瞬きと共に尋ね返す。

「身の程……ですか」

「そうだ」

 先輩は尖り気味の顎を引き、更に続けた。

「できもしないのに何でも完璧にやり遂げようと思えば、必ず失敗する。できないことがあるのはおかしなことじゃない。むしろ、自分が何を求められているかを把握して、それだけは確実に成し遂げられるようになるべきだ」

 突き放すような口調に、どきっとする。先輩には、私が何を求められているのかがわかるのだろうか。

 私の内心を読んだように、先輩は嘆息した。

「例えば文芸部のことだ。お前は三年が一人しかいないから、やむを得ず部長になったんだろう。なら、誰もお前に上等なことを期待していないはずだ。欲張らず、部長として最低限すべきことだけこなしていればいい」

「……はい」

 思い当たるふしがあり、私は俯く。

「大切なのは、優先順位を忘れないことだ」

 先輩はそう言った。

「この一年を棒に振ったと後で悔やむことのないよう、まずは何を優先させるべきか、お前が今求められていることは何かを冷静に、落ち着いて考えろ。他のことは余裕が出来てからでもいい。誰もお前を完璧な人間だとは思っていないだろうし、お前に対して完璧さを求めるはずもない」


 先輩の言う通り、私は完璧ではなく、むしろ未熟で欠点の多い人間だ。

 だけど完璧でありたいと思った。誰の期待も裏切りたくはなかったし、誰にもいい顔をしていたかった。失敗するのは嫌だった。できないことがあると、誰かを落胆させるのは嫌だった。

 その一番の対象は、他でもない先輩なのだと思う。

 先輩には落胆も、失望もされたくなかった。完璧な人間ではなく、欠点ばかりを見つけられていることは承知の上で、せめて先輩の目に付かないところでは全て立派にやり遂げておきたかった。様々な悩み事を、先輩と会う時間には持ち込みたくないと思っていた。

 だから、なのだろうか。先輩との間にいつまでも距離があるように思えるのは、実は私のせいなのかもしれない。見栄を張り、落胆されてしまうことを恐れるあまり、距離を取り続けている。

 もっと近づきたいと思うなら、私が変わらなくてはならない。


「……私、身の程知らずでした」

 私は正直に、今の気持ちを打ち明ける。

「完璧でありたいと思っていたのは、本当に、先輩のおっしゃる通りです。完璧にはなれなくても、限りなく完璧に近い人間でありたいと思いました」

 だけどそれすら、身の丈を知らない意識だ。

 先輩は咎めるような目で私を見た。

「理想が高過ぎるな、お前の場合は」

 私は苦笑して頷く。

「そうだと思います。私の理想は、先輩ですから」

 告げた途端、先輩は妙な顔をする。

「本気か?」

「もちろんです。先輩は、限りなく完璧に近い方だと思います」

 私は確信している。

 先輩に欠点がないとは言わない。それは、先輩の傍にいる私がよくわかっている。

 でも、限りなく完璧に近い人だと思う。先輩なら周囲の期待を重圧とすることなく、求められたことをきちんとやってのけるだろうし、優先すべきことを見極めることもできるだろうし、その上で他のことまでこなす余裕もある。

 潔癖でストイックで、だけど望む目標に対してだけはひたすら追求することを止めようとしない。姿勢よく直立し、いつ何時も自分らしくある。険しさを他人に向けることも厭わないけれど、同時に自分にも厳しく、律することの出来る人。私は、そんな先輩に少しでも近づきたかった。先輩は常に、私の理想の人だった。

 だけど本人にその自覚はないらしい。訝しがる先輩がぼやいた。

「お前は俺を買い被ってやしないか」

「そんなことはありません」

「いや、ある。お前の視力が悪いのは今に始まったことじゃないが、勝手な理想を押しつけられても困る。どう解釈したら、俺が完璧に近い人間だと思えるんだ」

 低い声で反論された。

 でも私は即座に察した、こう見えて照れ屋な人だから、謙遜しているに違いない。

「だって、先輩は本当に素晴らしい方だと思うんです。高潔で、ストイックで、生真面目で、目標に向かって弛まず努力を続けるような、とても直向きな精神の持ち主だと私は思っています」

「誰の話だ」

「先輩のことです」

 私は先輩を理解しているつもりだ。先輩が私にとって、理想となり目標となるべき人であるのは間違いない。だから私は先輩に惹かれたのだし、先輩に相応しい存在でありたいといつも願う。

 にもかかわらず、私の言葉を聞いた先輩は、目を伏せてしまった。

「勝手に人を美化するな」

「していません。私には、そう見えるんです」

 すぐに私は言い返したけれど、

「それでお前が重圧を感じているのなら、全く本末転倒じゃないか」

 先輩に指摘されると、言葉に詰まってしまう。

 重圧。先輩の存在がプレッシャーになっているなんてことは、ないはずだった。それは、先輩に相応しい人間でなりたいと常々考えていたけど、だからと言って――。

「思い込みの激しい奴だ」

 溜息混じりの声が聞こえた。

 はっとなって視線を上げると、ちょうど先輩もこちらを見たところだった。

 目が合う。

「俺が今、何を考えているかを知ったら、お前は間違いなく驚くだろうな」

 先輩が無愛想に言った。

 こちらに向けている目つきは鋭く、気圧された私は思わず聞き返す。

「何を……考えているんですか?」

 答えはなかった。


 次の瞬間、視界が暗い影で覆われたかと思うと、急に唇を塞がれた。

 先輩が、私の後頭部と左頬を抱え込むようにして持ち上げる。

 まだ湿り気を含んだ髪が押しつけられるように頬に触れ、髪越しに先輩の手の熱が伝わってきた。

 反射的に目を閉じた私は、戸惑いを隠し切れずにいる。唇を重ねたのは初めてではない、ないけれど、どうしてこのタイミングで口づけられたのかがわからない。先輩が何を考えていたのかがわからず、困惑したままでいた。

 恋人同士だから、このくらいは普通のことだと思っていた。

 これまでにも何度か――本当に数えるほどだけど何度か、先輩の方からキスしてくれたことがあった。だけどそれについても鳴海先輩は動機をあまり語ってはくれず、キスがしたいからしたのか、それとも恋人同士だからすべきだと思ってしたのかさえ、わからないことがあった。

 もしかすると鳴海先輩は、そういう衝動を人より持っていないのかもしれない。

 私が望むほど、わかりやすい身体的接触を望んでいないのかもしれない。

 そんなふうに思うことすら、これまではあった。


 だけど今は違う。

 先輩はしばらくの間、私を離さなかった。逃がすまいとするように両手できつく私の頭を押さえ、あの薄い唇をぎゅっと押しつけてきた。それは思っていたよりも柔らかく、それだけで胸の奥が熱くなる。

 今のキスは本当に、したくてしているみたいだ。

「せんぱ……いっ」

 嬉しいような、苦しいような感情が込み上げてきて、私は息継ぎの途中で先輩を呼んだ。息継ぎが必要なくらい長いキスになっていた。

 でも私が口を開いた途端、今度は唇を割って舌が入り込んできた。絡められた舌は熱くて身体ごと溶けてしまいそうで、気持ちがいいのかどうかわからない。眼鏡が先輩にぶつかり、ずれるのがわかったけど、直す余裕はなかった。

 こんなのは初めてで、なぜだろう、少し怖い。

 本で読んだことがある、これは『大人のキス』というものだ――。

「あっ……あの、せんぱい――」

 疑問の声すら呑み込んで、先輩はキスを繰り返す。その合間に片手で私の髪を、くしゃくしゃと掻き混ぜるように撫でてくる。あの指の長い器用そうな手が私の髪を弄んでいると思うと、いよいよ目が眩んできた。


 今日こそ、聞けるだろうか。

 先輩の胸のうちを。私をどう思っているのかを。

 今のキスは先輩にとってどんな意味があり、私に触れたいと思う時、先輩の中にはどんな衝動が走るのかを。

 去年の雨の日も、今年の雨の日も、先輩は私に触れてくれた。

 その意味が、やはりどうしても聞きたくてたまらない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ