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水無月(3)

 一年近く先輩の部屋に通い続けておきながら、バスルームに入れてもらうのは初めてだった。

 クリーム色の壁に小さな窓が付き、淡いグリーンの浴槽と、必要最低限の洗い場で構成されたバスルームは、予想通り清潔感に溢れていて、一瞬お借りするのを躊躇いたくなった。壁も浴槽も床も全てぴかぴかだ。つくづく先輩は几帳面な人だと思う。


 小さな室内の明かりを付けた先輩は、真面目な顔で私に説明をしてくれた。

「この蛇口を右に捻るとシャワーで、左に捻るとカランだ。見ればわかるな」

「はい」

「最初のうちは水しか出ない。慎重に温度を確かめろ」

「わかりました」

「それと、この目盛りで湯温の調節ができるようになっているが、下手に動かさない方がいい。この湯沸かし器はあまり融通が利かないからな」

「……そうなんですか」

 私は笑いを堪えた。さすがに、主にそっくりですねとは言えない。

 その融通が利かず不器用で、だけどとても優しい人は、やはり真面目な表情で尋ねてきた。

「何か、質問はあるか」

 すぐに私は質問をした。

「はい。先輩、シャンプーなどはお借りしてもいいですか」

 すると先輩は、いかにも愚問だとでも言いたげな目をした。

「当たり前だ」

「ありがとうございます。それと、タオルもお借りしたいのですが」

「わかっている。用意するから、少し待っていろ」

「はい。それともう一つ、お願いがあるんですけど」

 バスルームのドアの前から立ち去りかけた先輩を呼び止め、私は恐る恐る申し出た。

「もしできれば、あの、Tシャツか何かで構わないのですが、先輩の服を貸していただけませんか」

「Tシャツでいいのか?」

 先輩が聞き返してくる。

 私は頷き、小声で言い添えた。

「はい、あの……できればあまり、窮屈ではないものを」

 見慣れた先輩の体躯は、服を着ていてもわかるくらいすらりとしていて、痩せている。では私はどうなのかと言うと、いまだ育ち盛りの微妙な年頃ゆえ、先輩の服を借りるにしてもいささかの懸念があるのだった。

 眉間に皺を寄せた先輩は、この件に関しては特に言及もせず、黙って場を立ち去った。


 無事にタオルとTシャツを借り受けて、私は先輩のバスルームでシャワーを浴びた。

 忠告通り、蛇口を捻ってから最初の数十秒間は冷水が飛び出してきたので、それをやり過ごす。その後は快適な湯温となり、特に問題も生じなかった。


 熱い湯を浴びながら、不思議な感覚を味わっていた。

 一年近く先輩の部屋に足を運んでいながら、私にはまだ知らない場所があった。

 ずっと知らなかった場所に、今、足を踏み入れているのだということが、不思議な感慨を伴って心の中に満ちてきた。

 嬉しいというのとは少し違うけど、奇妙に幸せだった。

 それから思う。私と先輩の間にある距離は、今、どのくらいなのだろう。

 先輩について知らないことはまだ多い。どこまで踏み込んでいいのか、どこからが触れてはいけない箇所なのかがわからないまま、私は先輩の傍にいる。昔よりはずっと近くに、だけど決してゼロにはならない位置にいる。

 この距離がこの先、なくなってしまうことはあるのだろうか。

 例えばさっきのように。雨の中で打ちひしがれていた私を、片腕で強く抱き締めてくれた時みたいに。


 私は今、確かに幸せだった。

 先輩に救われ、その厚意に甘えていることに、堪らなく幸せを感じていた。

 だけどそれも、今日だけのことではないかと思う。先輩が偶然現れて私を救ってくれたのも、先輩に甘えることができるのも、このバスルームに足を踏み入れることができたのも――。

 髪を洗いながらそこまで考えて、私はふと、別の思いに囚われた。

 去年の今頃、あの六月の思い出ができた日、私は今よりもずっと先輩との距離を測りかねていた。

 鳴海先輩は雨に濡れた私を玄関先に招き入れ、タオルを貸してくれた。それから私の髪を解き、優しく髪を拭いてくれた。雨が止むまでいてもいいと言ってくれた。去年の私にとって、それらの言動は衝撃的で、酷く狼狽させられたのを覚えている。

 でも、あの時の先輩がそうしてくれた理由が、やっとわかったような気がした。

 それは多分、今日と同じだ。鳴海先輩の表には現れにくい優しさが、打ちひしがれていた私に救いの手を差し伸べてくれたのだろう。

 去年はタオルで髪を拭いてくれた。

 今年は、ちゃんと抱き締めてくれた。

 あの頃と比べても、私たちの距離は確実に縮まりつつある。

 他の人たちからすればゆっくりとした、もどかしいくらいの歩みでも、決して何も変わっていないわけではない。そう思うと幸せで堪らなくて、シャワーを浴びながら思わず微笑んでいる私がいた。


 バスルームを出ると、私は借りたタオルで身体を拭き、髪を軽く拭いて、更に借り受けた先輩のTシャツと、学校指定のジャージを身に着けた。

 Tシャツは窮屈ではなかった。むしろ肩幅が余るほどで、私は意外に思う。背が高いからすらりとして見えるだけで、先輩は思っていたより肩幅の広い人なのかもしれない。今までは気付かなかったけど、後で観察してみよう。

 濡れた制服は畳んで、補助バッグの中にしまい込んだ。帰ったら急いで洗濯をしなくては。

 バスルームの照明を消し、換気扇を回してから、一つ深呼吸をする。

 遠くから雨音が戻ってきた。

 先輩のところへ戻るのに躊躇があった。くだらないことで泣いてしまった後だ。顔を見せるのが気恥ずかしい。

 これから何でもないような顔をした私が湯上り姿で現れたら、先輩は呆れてしまうだろうか。それとも鼻を鳴らして笑うだろうか。どちらでも構わないけど、さっきのことは気にしないふりをしていてくれたらと願ってしまう。


 タオルで髪を拭きながら、必要もないのに足音を忍ばせて、先輩がいるはずの部屋を覗き込む。

 鳴海先輩は座卓の前で、背筋をぴんと伸ばして座っていた。

 先輩も着替えを済ませていたようだ。黒いシャツを着ていた。だけどこちらへ向けている背中が、いつになく落ち着かないように見えるのは気のせいだろうか。

 手にした文庫本を開くでもなく、ひたすら室内に視線を泳がせているのが、横顔だけでもわかる。何か考え事をしているのかもしれない。

「先輩」

 戸口から私が声をかけると、先輩はびくりとし、戸口へとぎくしゃく視線を向けてくる。それから明らかに表情の選択に迷った様子で切り出した。

「済んだか」

「はい、あの……どうもありがとうございました」

 私が感謝を口にすると、先輩は気まずげに応じる。

「気にしなくてもいい」

「でも、大変助かりました」

 感謝してもし足りないくらいだと思う私に、だけど先輩は僅かにかぶりを振った。

 その後で呟く。

「こっちは心臓に悪かった」

「え? 心臓、ですか?」

 物騒な物言いに、思わず私は聞き返す。にもかかわらず、先輩はそれ以上は語らなかった。

 代わりに、すぐ傍の床を示して告げた。

「座れ。髪を拭く」

 命令口調だった。


 私がその言葉に唯々諾々と従ったのは、命じられたからではなく、むしろ望んでいたことだったからだ。

 先輩に髪を拭いて貰う。それはとても甘美で、幸せに満ちた行為だ。

 言われた通りに腰を下ろすと、先輩の手は私からタオルを取り上げ、すぐに濡れた髪を拭き始めた。優しく丁寧な手付きだった。去年のあの時と変わりなく、先輩は優しかった。

 温かい感情が広がっていく。

 それから、懐かしい思いもまた。


「先輩」

 私は髪を覆うタオルの隙間から、話しかけてみる。

「どうした」

 手を止めずに、先輩が問い返す。

「あの、以前にもこんなことがあったのを、覚えていますか」

「以前? 何の話だ」

 訝しげな声が聞こえて、私はほんの少し落胆した。

 もしかして先輩は、あの時のことを忘れてしまっているのだろうか。

 私にとっては驚きと同時にとても幸せな出来事だったけど、先輩にとってはどうでもいいような、つまらない記憶なのかもしれなかった。

 だとしても、あの日のことが色褪せてしまうわけではない。

 私は笑って語を継いだ。

「以前にも雨の日に、先輩に髪を拭いてもらったことがあったんです」

 すると先輩は眉間に皺を寄せて、直後、全く違うことを話題にした。

「元気そうだな」

 予想していなかった言葉が聞こえ、さすがに驚く。

 何のことだろう、と思っていると、

「外で会った時は大層打ちひしがれた様子だったから、本当は何かあったんじゃないかと思っていたんだが」

 先輩が嘆息する。

 ようやく気付いて、私は恥じ入る思いで身を縮めた。

「すみません……あの、本当に何かあったというわけではなくて」

「単に、水を掛けられて、それで落ち込んでいただけか?」

「そうです。心配をおかけしました」

 私の言葉を先輩は否定せず、深く頷いてみせた。ということは、恐らくかなり心配させてしまったのだろう。

 こちらとしても弁解のしようがなかった。水を跳ねられたのも、元はと言えば私の不注意によるものだ。

「考え事をしながら歩いていたので、避け切れなかったんです」

 反省を込めて私が言えば、先輩も私の髪を拭く手を止めた。

 かと思うと遠慮なく非難の視線を向けてくる。

「またぼんやりしながら歩いていたのか」

「はい、すみません……」

 言い訳のしようもない。

 感傷に囚われるにしても、歩きながらでは危険だとわかった。考え事をしながら歩くのは、もっと反射神経と注意力のある人でなければ向かない。先輩を不安がらせてしまった以上、しばらくは歩きながら思索に耽ることを止めておこうと心に誓った。

 そのお蔭で、こんな幸せな時間が生まれたのかと思うと複雑だ。罪悪感も多少ある。

「本当に、何でもないんだな?」

 先輩に確かめられて、私は大きく首肯した。

「はい」

「なら、いい」

 微かに笑ったようだった。

 それから先輩は、また私の髪を拭き始めながら尋ねた。

「一体、何を考えながら歩いていればそんな目に遭うんだ」

 答えにくい質問だった。

 先輩のことです、と言い切れるならよかったのに、それだけではないからややこしい。私は返答に窮し、俯く。

「くだらないことなのか」

 言葉のオブラートを持ち合わせていない先輩は、ずばりと尋ねてくる。

 私は、どうしても答えられない。

 深刻な悩みではないのかもしれない。先輩の目から見たら、きっとくだらないことに違いない。だけどあの時の私は、まさに囚われたようにとりとめなく思索を続けていた。


 一つのことを考え出せば次から次へと悩み事が増えていくようだった。

 文芸部のこと、受験のこと、残り少ない高校生活のこと、それからもちろん、先輩のことも――何一つとして自力では答えを見出せないまま、こうして六月を終えようとしている。

 やり残したことがあるような気がしてならなかった。それが何かもわからないまま、あと九ヶ月で高校生活が終わってしまう。その間には大学入試もある。私は何を成せるのだろう。何かを、せめて一つのことでもきちんと成し遂げられるだろうか、全く自信はなかった。


 気が付けば雨の音の中、随分長いこと黙り込んでしまったようだ。

 私が口を閉ざしていると、やがて先輩が沈黙を破った。

「くだらないことでも構わない」

 はっとして、私は面を上げる。

 先輩は真剣な眼差しで私を見下ろしていた。

「話くらいは聞いてやる。どうしても我慢ならなければ口を挟むかもしれないが、とりあえず話してみろ」

 優しい手が、私の髪からタオルを外した。

「そのくらいの力にはなる」

 飾り気のない口調で言った先輩は、まだ少し湿り気を含んだ私の髪を、静かに指で梳いてくれた。

 抱き寄せられるように髪に触れられ、距離が近づく。

 私は視線を床に落とした。先輩の顔を直視することができなかった。さまざまな気持ちがない交ぜになっている中、奇妙に幸せな思いだけがはっきりと存在している。こんな時に、先輩を不安がらせておきながら、私は浮かれた気分でいる。

「それとも、俺では頼りにならないか」

 珍しく気弱なことを、先輩は口にした。

 驚きつつ、私は急いで否定する。

「そんなことはないです」

 頼りにならないなんてことはない。私にとって先輩は、目標であり憧れでもある。先輩に頼ることができるのは、本当に幸せなことだ。

「だったら話せ」

 すかさず促された時、私はうれしさを隠し切れなくなり、胸の前で手を握り合わせた。

 先輩について知らないことは多い。世間一般の常識としては、一年半も付き合えばある程度相手のことを熟知しているのが普通ではないかと思う。だけど鳴海先輩は私に秘密を作りたがるので、距離を測るのは、なかなかに難しいことだった。どこまでなら踏み込んでも構わないのか。どこからが踏み込んではいけないところなのか。わからない時は距離を置き、触れないようにするのが常だった。

 だけど今日は一つ、わかった。辛い時、先輩が手を差し伸べてくれたら、その時は甘えてもいいのだと知った。その方が、先輩も安心してくれるようだ。

 ようやく顔を上げると、先輩は気遣わしげな顔をして私を見下ろしていた。

 おずおずと告げてみる。

「話を、聞いてください」

 先輩が黙って顎を引く。その時、どことなくほっとした表情になった。

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