水無月(2)
酷い仕打ちだと思った。
頭から泥水を被ってしまった。夏服のセーラーが嫌な色をして、私の皮膚に張り付いている。その上から降り注ぐ雨がたちまち冷たく染みてくる。
スカートも、靴下も色が変わっていた。私はいつしか道端に座り込んでいて、アスファルトの路面に触れたあちこちから冷たい水が染みてきた。背を預けているのはどこかの家の塀らしく、ざらざらした石の感触が素肌に直接感じられるようだった。最早濡れていないところは皆無で、頭のてっぺんから爪先まで、凍えるほどに冷たく、気持ちが悪い。
ざあざあと雨が私を叩く。
前髪が額に引っ付き、そこから雨がとめどなく滑り落ちてくる。目を開けていられないくらいだ。
あ、傘がない。どこへ行ったんだろう。
ぼんやりと視線を巡らせると、雨の中の霞んだ景色が映る。水で覆われた路上、すぐ傍に落ちていた通学鞄と補助バッグを見つけて、慌てて引き寄せ、抱き締めた。それらも既に濡れて冷たかったけど、そうせずにはいられなかった。そうしてから、思い出したように身体が震えてきた。
あんまりだ。酷い、酷すぎる。
私だって不注意だったのかもしれないけど、頭から水を掛けていかなくたっていいのに。あの車の人も、水を跳ねたと気付いたのなら、せめて一言詫びてくれたっていいのに。気付かなかったのか、気付いていたのかは知らないけど、そのまま去ってしまうなんて。
怖かった。冷たかった。
寒い。これから、どうしよう。
こんな酷い格好で、先輩に会いに行くなんてことはできそうにない。かと言って真っ直ぐ帰るにしても、こんな格好で、水をぽたぽた滴らせながら電車に乗り込むのもみっともなくて嫌だった。
途方に暮れていた。これからどうしていいのか、どうするべきなのかわからない。わかったとしても立ち上がる気力すら今はなかった。
視界の隅にぽつりと、淡い色合いが見えた。
あの傘だとわかった。晴れた日の空の色をした、買ったばかりで、お気に入りだったあの傘。
少し離れた、道の真ん中に落ちている。放り出されて、雨に打たれながらじっとしている。私が拾いに行かなければずっとあのままだろう。
だけど立ち上がる気は起こらない。
私はしばらく鞄を抱え込んだまま、道の端でじっとしていた。身を打つ雨の音よりも強く、忙しない心臓の音を聞いている。全身震えているのは、雨が冷たいからだけではなかった。
どのくらい、ぼんやりしていただろう。
やがて私は諦めの気持ちでその場に立ち上がった。見下ろした足元、スカートの裾から雫が落ちていく。雨が通り抜けていくように速い。素足の上も伝い下りていく水は冷たく、確実に体温を奪う。暦の上では夏のはずなのに、息をするだけで唇が震えた。
レンズの向こうに灰色の空間が広がっている。その片隅で淡い水色のかたまりがぼやける。雨の雫が流れる度に視界は不鮮明になり、気分が悪くて眩暈がした。でも傘を拾わなくては。まずはそれからだ。
重い身体を引き摺り、鞄を抱きかかえたまま、一歩を踏み出した時だった。
水色のかたまりの傍に、ふと、人影が見えた。
いつの間に現れたのだろう、その人は、とても姿勢が良かった。
上品な紺色の傘を差していて、雨の中を足早に歩いてくる。歩き姿もきびきびとしていて、背筋がぴんと伸びている。その人は不意に立ち止まり、身を屈めると、ゆっくりした動作で私の傘を拾い上げた。
雨の向こうで水色の傘がふわりと浮かんだ。
私は思わずもう一歩踏み出していた。足元で水の跳ね上がる音がしたけど、もう爪先まで染みていたから気にならなかった。
その人が、私の傘を手にこちらを向く。
表情は見えない。だけどわかった。多分、お互いにわかった。
「雛子か?」
驚いた声が私の名を呼ぶ。
私が答える前に、水飛沫を上げて駆け寄ってくる。
――先輩。
私もそう呼べたらよかったのに、こんな時に限って声が出なかった。かすれた吐息だけを漏らす唇は、寒さで震えて役に立たない。
でも、呼ばなくても先輩は、私の傍まで来てくれた。
目の前に立ち、私の水色の傘を差しかけてくれた。
レンズ越しに見える表情は硬い。眉根を寄せた顔がぐっと近づいてきて、聞き慣れた声が言った。
「どうした。こんなところで、傘も差さずに何をしている?」
先輩の目に、今の私はどう見えているのだろう。
私には、先輩が見えなくなった。あっと言う間に視界が滲み出す。傘を差しかけて貰っているのに、ぼやけて見えなくなってしまう。
「先輩……」
かすれた声でもようやく呼べた。今は、それだけしか言えなかったけど。
こんなところで先輩に会えるなんて思わなかった。先輩が通り掛かって、私に気付いてくれるなんて思いもしなかった。素晴らしい偶然だった。
会いたかった人に会えて、こうして救って貰えたのだから。
「何かあったのか、雛子」
先輩の口調が硬度を増す。焦りの窺える声をしていた。
「どうしたんだ、本当に、何かあったんじゃないのか。話してみろ」
早口で問われ、私も慌ててかぶりを振った。
「い、いえ、違うんです」
「何が違うんだ」
「何かがあったというわけでは……」
そう答える間に鼻の奥がつんとしてくる。今になって涙が出てきた。泣きたくて堪らなくなってきた。
霞む視界のその中で、先輩が苛立った様子で息をつく。
「何もないならどうして泣く」
「わかりません」
私はかぶりを振る。喉が詰まったようで上手く声にならない。でも、先輩はちゃんと私の言葉を拾い上げてくれた。
「わからないのは俺の方だ。ちゃんと説明しろ。どうしたって言うんだ」
どう話したらいいのかもわからない。
わからないままかぶりを振り続けた。先輩には心配して欲しくなかった。私の身に起きたのは大した出来事でもない。ただ――。
気の滅入っているところに先輩に会えたから、うれしかった。
私の傘を拾い、私に差しかけてくれたこと、こうして私を案じてくれていることが、今の私にはとてもうれしかった。それだけだった。それだけで涙が止まらなくなった。
「何でもないんです、何でも」
声が詰まる。たどたどしくそう告げると、先輩はもう一度嘆息した。
そして私の傘を持っていた手で、強く私を抱き寄せた。
温かい。
先輩の体温を近くに感じて、私は安堵の思いを抱く。紺色の傘の下には穏やかで、落ち着いた空気があった。先程までの寒々しい灰色とは違い、紺色の世界はとても温かい。雨音さえも遠ざかるほど、静かだ。
思わず目を閉じたくなった。
だけど、先輩のシャツを掴もうとした指先からぽたりと雫が落ちた時、私は我に返った。
「あ、だ、駄目です先輩! 服が汚れます!」
今の私は冷たい雨を吸水し切っている。抱き締めたら、きっと恐ろしく冷たいに違いない。
「そんなことはどうでもいい」
先輩は、実に先輩らしい頑固な口調で言い切った。そして腕に力を込めて、逃れようとする私を捕まえてしまう。
「どうでもよくないです。風邪を引いてしまいます!」
「お前が言うな」
ぴしゃりと一言、私は反論を封じられた。
傘を差して貰っているのに暴れる気にもなれず、結局私は諦めて、先輩の胸元に頭を預ける。
先輩は片手で傘を持ち直したようだ。肩が動くのがわかった。頭上で苛立ちを隠さない声がする。
「それで、結局何があったんだ。言え」
私は既に泣き止んでいて、先程よりも気分が落ち着いていた。視界もすっかり晴れていたし、唇の震えも止まったようだ。だから説明もできそうだった。
ただ、冷静になってみるとなかなか言い出しにくい事柄ではあった。
「本当に大したことではないんです」
「いいから言え」
「その、笑わないでくださいね、先輩」
「わかったから早くしろ」
事前に断りを入れると、先輩の機嫌は更に悪くなったので、私は大急ぎで告げた。
「瑣末なことなのですが、車に水を跳ねられまして」
すると先輩は私から僅かに身を離し、酷くみっともない格好でいる私をしげしげと見下ろした。すぐに、腑に落ちた、と言うように顎を引いてみせる。
「なるほどな」
だから私も、小さく頷いておいた。
「起きたことはそれだけなんです」
「それだけか。それだけでどうして泣く必要があるんだ」
やっぱり呆れられた。少し悔しい。
泣いたのは、水を跳ねられたからではない。悲しくて泣いたのではないのだと言うこと、上手く伝えるには何と言えばいいだろう。ストレートにそのまま伝えても、先輩にはわかってもらえないかもしれない。
「先輩が通り掛かって、私に気づいてくれたからです」
私が言うと予想していた通り、首を傾げた先輩が応じてきた。
「意味がわからん」
「ええと、私も、上手く説明できそうにないです」
会いたかった人に会えたから、うれしい。
こうして抱き締められている時間がとてもいとおしい。
たったそれだけのことを言葉にするのも難しいものだった。
「事故に遭ったわけでないなら、まあいい」
結局理解するのは諦めたようで、そう言った先輩は、改めてずぶ濡れの私を見下ろす。
「風邪を引かれると困る。タオルくらいは貸してやるから、寄っていけ」
尖った顎が指し示した方角には、雨の降り頻る見慣れた家並みがある。先輩の住むアパートがある辺りだ。
随分近いところだったんだと今更気がついた。先輩がこの道を通りかかるのも当然だ。
鳴海先輩の部屋の玄関に入ると、先に靴を脱いで上がった先輩が、
「少しそこで待て」
と私に言い残し、部屋へと消えていった。
水滴をぽたぽた垂らしながら待っている私の元へ、やがて戻ってきた先輩の手には、古新聞の束があった。
先輩はその古新聞を丁寧に、隙間なくフローリングの床に敷き詰める。玄関から入ってすぐの台所と、洗面所の方まで抜かりなく。何をするのだろうと私が思う間もなく、手早く作業を終えた先輩は、私に向かって告げた。
「新聞紙の上なら上がっていい。今、タオルを持ってくる」
実に先輩らしい対応だと思った。
私は惨めさ半分、申し訳なさ半分でかぶりを振る。
「いえ、あの……ここで、玄関先で結構です」
「しかし、その格好では帰れないだろう」
「ですからここで着替えをさせてもらえたらと……。ジャージは持っているんです」
どうせ靴下まで酷い有り様だ。新聞紙の上に足を乗せたら、くっきり足型ができるに違いなかった。先輩に手間を掛けさせるよりはまだいい、靴下くらいは我慢しよう。
学校指定の補助バッグを開け、ジャージを取り出す。幸いそれは、直接水を掛けられた制服ほどの被害はなく、着て帰るのなら問題なさそうだ。Tシャツは体育の授業で着たものだから、もう一度身に着けるのには抵抗あるものの、背に腹は変えられない。
「ここで着替えてもいいですか」
私が尋ねると、先輩は困惑の表情になる。
「遠慮はするな。上がっていけ」
「でも、私、頭から水を被っていますから」
「頭から?」
反復した先輩は、目を眇めて私を見遣る。
果たしてずぶ濡れの私は、先輩の目にどう映っているのだろう。
今更取り繕うのも無意味だろうけど、急に気恥ずかしくなってくる。高校生にもなって、雨の日にこんなにずぶ濡れになる人間がいるだろうか。
先輩は思案を巡らせながら私を眺めた後、ふと何か思いついたらしく、口を開く。
「風呂場を貸してやってもいい」
何を言われたか理解するまでに、やや時間がかかった。
そして理解した私が思わず聞き返そうとする前に、
「いや、別に、おかしな意味で言ったわけじゃない」
先輩は、聞かれてもいないのに弁解を始める。
「俺はお前が、風邪を引くといけないと思って申し出たまでで――ご、誤解はするなよ、本当に、強制するつもりもないしな」
そこまで慌てなくても、と私は思う。
確かに申し出には驚かされたけど、先輩が口に出すまでは何の意図もなかったことくらいわかっている。おかしな意味でそういう申し出をする人ではないことも知っている。むしろあの鳴海先輩でも、そういう意味合いに捉えて考えることがあるのか、と驚いた。
だからすぐに答えた。
「大丈夫です。正しい意味の方で解釈しました」
「そうか」
安堵した様子で息をつき、視線は床の新聞紙の上に泳がせて、先輩は続けた。
「とにかく、遠慮はするな。夏場だからと言って身体を冷やしたまま帰るのはよくない。その格好では電車に乗るのも抵抗があるだろう」
らしくもない先輩の早口に、思わず笑いを噛み殺しながら考える。
急いで帰った方がいいのはもちろんだ。制服を洗濯しなくてはならないし、明日も授業があるから、間に合うようにアイロンも掛けなくてはいけない。
でも――私は先輩と一緒にいる口実が欲しかった。門限を超過してでも、先輩の部屋に留まり、先輩と一緒に過ごす為の口実が。厚意に対する申し訳なさを呆気なく吹き飛ばしてしまうくらい、その思いは強かった。
それに、バスルームを貸して貰えるのは本当にありがたい。泥水を頭から被ったままで電車に乗るのは、先輩の言うとおり抵抗があった。
そう長居するつもりがあるわけでもなく、髪を洗ってある程度乾かしたらおいとますればいい話だ。
自分にも言い訳を重ねながら、結局は素直に答えた。
「お言葉に甘えてもいいですか」
「ああ」
先輩は素早く頷く。やはり、少しほっとした様子に見えた。
その表情を見て、私の胸裏も温かい感情で満ちていく。
甘えることのできる相手がいるのは、とても幸せなことだと思った。




